22(新政)
安政五年(1858年)夏。
クーデター成功の興奮と喧騒がまだ残る江戸。
しかし、新選組と協力部隊による厳格な治安維持活動、そして新たに征夷大将軍(日本国軍元帥)に任じられた徳川慶喜の名による旧幕府諸藩への恭順勧告により、市中は驚くほどの速さで落ち着きを取り戻しつつあった。
大老・井伊直弼の死は、旧体制の終焉を誰の目にも明らかにしたのだ。
数日後、ジンは旧江戸城本丸を仮の執務拠点とし、「総攬府」の設置を正式に宣言。
ここに、天皇を最高権威とし、総攬たるジンが全権を掌握する新しい統治体制が誕生した。
矢継ぎ早に、総攬府の主要な閣僚人事が発表された。身分や旧体制での立場にとらわれず、ジンの目で選ばれた「偉材」たちが、それぞれの専門分野で国家の舵取りを担うことになる。会津に避難していた者たちも、ジンの召集を受け、新政府の中核を担うべく江戸へと戻ってきた。
・総攬: ジン
(全ての国政の最終決定権を持つ)
・征夷大将軍(日本国軍元帥): 徳川慶喜
(陸海空三軍の実行部隊の長、総攬の戦略指示に基づき軍を指揮)
・陸軍卿: 大村益次郎
(陸軍の軍政・制度設計・兵站担当の長)
・海軍卿: 勝海舟
(海軍の軍政・制度設計・艦隊整備担当の長)
・空軍卿: 佐久間象山
(航空技術開発と将来の空軍構想担当の長。当面は研究開発が主)
・参謀総長: 土方歳三
(陸海空三軍の作戦立案・情報分析を統括する、総攬直属の軍令機関の長)
・内務卿: 橋本左内
(司法・内政・地方行政・警察制度設計担当)
・外務卿: 中島三郎助
(外交交渉・条約改正準備担当)
・工部卿: 五代友厚
(経済政策・殖産興業・交通インフラ整備・技術開発全体の調整担当)
・水運卿: 赤松則良
(国内外の海運・貿易の振興、商船団の育成、造船技術の民間移転担当)
・文部卿: 福沢諭吉
(新教育制度の構築、国民啓蒙、学術振興担当)
・逓信卿: 本木昌造
(電信・郵便制度の全国整備、活版印刷による情報伝達インフラの統括担当)
厚生卿: 佐野常民
(医療制度改革、公衆衛生の向上、施薬院などの社会福祉担当)
大蔵卿: 小栗忠順
(国家財政の確立、新通貨制度の準備、税制改革担当)
農水卿: 松平容保
(会津藩主。ジンの改良イネの全国普及、農業技術指導、水産資源管理担当)
警察長官: 近藤勇
(総攬府直轄の首都警察および国家警察組織の長官。新選組を母体とする)
この斬新かつ大胆な人事は、江戸の民だけでなく、諸藩にも大きな衝撃を与えた。
旧幕臣、浪士、藩士、学者、技術者…出自を問わず、ただその能力と志によって選ばれた閣僚たちの顔ぶれは、まさに新しい時代の到来を告げていた。
さらに、閣僚人事とは別に「日本の産業と技術を飛躍的に発展させる」ため、国家が全面的に支援する特殊会社の設立構想を発表した。
田中久重には、日本のあらゆる「ものづくり」を革新する「日本精密機械製造」の設立を指示。
エンジン、精密機械、新兵器、その他あらゆる工業製品の研究開発と生産を担う。
坂本龍馬には、国内外の交易を活性化させ、日本の富を増大させる「海陸物産交易社」の設立を指示。
彼が育ててきた海援隊の原型組織を母体とし、海運・陸運を組み合わせた総合商社を目指す。
吉田松陰には、佐久間象山(空軍卿)と連携し、航空機の実用化と将来の航空産業の発展を担う「日本航空機研究所」の設立を指示。
基礎研究から機体製造までを一貫して行う。
これらの発表と並行して、総攬令第一号が発布された。
その内容は、以下の通りである。
1.井伊直弼の悪政の完全否定と安政の大獄による犠牲者の名誉回復・釈放
2.「公武政合体」の基本理念に基づく新国家体制の概要
(天皇を元首とし、総攬が統治、征夷大将軍が軍事を担うこと、各卿の役割分担など)
3.身分に関わらない人材登用の布告
4.今後の主要改革のロードマップ
(憲法制定、身分制度の見直し、税制改革、教育制度改革など)
まさに新時代の設計図だった。
新体制が発足して数日後、文部卿に任命された福沢諭吉が、ジンの執務室を訪れた。
その表情には、期待と、そしてわずかな懸念の色が浮かんでいた。
「ジン殿、この度の新体制、その迅速さと大胆さには感服するばかりです。日本の未来に、大きな希望を感じております」
福沢はそう切り出し、しかし続けた。
「ただ…一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか。ジン殿の目指す新国家は、素晴らしいものだと信じております。しかし、その統治体制は、結局のところジン殿個人に権力が集中する専制のように見受けられます。なぜ、民が政治に参加する『民主』の道を選ばれなかったのですか?」
俺は、福沢の真っ直ぐな瞳を見つめ、静かに答えた。
「福沢、あなたの疑問はもっともだ。確かに民主主義は、血を流さずに政権を移せる平和な仕組みであり、多くの民の意見を政治に反映させるという理想も持つ。だが、今の日本が置かれている状況を考えてほしい」
俺は立ち上がり、窓の外に広がる、まだクーデターの傷跡も生々しい江戸の町並みを見下ろした。
「列強は虎視眈々と我が国を狙い、国内には旧体制の残滓が燻り、民は長年の封建制度の下でまだ十分に目覚めていない。このような状況で、早急な改革と国力増強を断行するには、強力な指導力と迅速な意思決定が不可欠だ。民主主義の美徳である衆議は、時として国を誤らせ、あるいは貴重な時間を浪費する。任期があるために短期的な人気取りの政策に走りやすく、長期的な国家運営を見失う危険もある」
俺は再び福沢に向き直った。
「一方、優れた指導者による専制は、迅速な意思決定と、国家の長期的なビジョンに基づいた政策を可能にする。無論、暗君が出れば国は滅び、それを平和裏に変える手段がないという致命的な欠点も承知している」
「では、ジン殿は…」
「故に、私はこの『総攬』という形で、全ての責任を負い、この国を導くことを決めたのだ。福沢、私が生きている限り、この国を誤った道に進ませることはないと誓おう。そして、この国が真に安定し、民が十分に賢明になり、世界の中で確固たる地位を築いた暁には…その時は、より民意を反映した、新しい政治体制へと移行することも考えよう。そのためにも、あなたには文部卿として、民の教育に全力を注いでほしいのだ」
俺は、そう言って福沢の肩を叩いた。
福沢は、俺の言葉に複雑な表情を浮かべながらも、深く頷いた。
彼が俺の真意の全てを理解したわけではないだろう。
だが、少なくとも、俺が独裁者として君臨することだけが目的ではないということは伝わったはずだ。
(しかし、俺は死なない。この国が俺の手を離れる時が来るとしたら、それは俺自身が引退を望む、遥か未来のことだろう…)




