21(桜田門)
安政五年(1858年)夏
長きにわたった梅雨が明け、江戸に蝉時雨が降り注ぐ頃、ついにその報は江戸中を駆け巡った。
将軍・徳川家定、薨去――。
この瞬間を待ち望んでいた。いや、この瞬間のために、全ての準備を整えてきたのだ。
ミネルヴァからもたらされた確報に、俺は静かに頷いた。
俺は立ち上がり、傍らに控える土方歳三、近藤勇、そして軍略の全てを託した大村益次郎に告げた。
「時は来た。土方、近藤、新選組全隊に出撃準備を。大村先生、各協力部隊へも伝令を。そして…」
俺は、傍らに置かれていた桐の箱から、金糸銀糸で菊の御紋が刺繍された深紅の旗を取り出した。
「錦の御旗を掲げよ! 我らが大義は、帝にあり! これより、奸賊・井伊直弼を討ち、日ノ本に新しい夜明けをもたらす!」
俺の檄が、集った者たちの心を震わせた。
夜明けと共に、江戸の町はかつてない騒乱に包まれた。
大村益次郎が練り上げた作戦計画に基づき、黒い隊服に身を包んだ新選組二百余名、そして密かに江戸に集結していた会津藩を中心とする協力藩の精鋭部隊が、江戸市内の幕府主要機関、奉行所、そして井伊派の有力者の屋敷へと、電光石火の勢いで展開を開始した。
彼らの手には、改良された後装式小銃や回転式拳銃が握られ、その統率された動きは、旧来の武士たちの戦とは明らかに一線を画していた。
江戸城は直接攻撃の対象とはせず、主要な門は新選組の一部隊と協力部隊によって固く封鎖され、外部との連絡を遮断、完全に孤立させた。
その混乱の江戸上空に、突如として異形の影が出現した。
「な、なんだあれは!?」
「鳥か? いや、もっと大きいぞ!」
「天狗だ!天狗様がお怒りじゃ!」
会津の山中で極秘裏に開発が進められていた、田中久重の小型軽量エンジンを搭載した試作航空機が、佐久間象山と吉田松陰の弟子の操縦によって、未熟ながらも確かに江戸の空を舞っていたのだ。
その主な任務は、上空からの偵察と、井伊派の部隊配置や動きを逐一地上のジンの司令部へ(無線通信はまだ実用化に至っていないため、色付きの煙玉や手旗信号といった原始的な方法で)伝達すること。
そして何よりも、その存在自体が、江戸の民衆や敵対勢力に計り知れない衝撃と畏怖を与えた。
さらに、航空機からは、本木昌造の活版印刷所で大量に印刷されたビラが、まるで雪のように江戸市中に撒かれた。そこには、ジンの大義名分、井伊直弼の罪状、そして新しい日本の夜明けを告げる力強い言葉が記されていた。それは、旧体制の終焉と新時代の到来を、最も劇的な形で江戸の民に知らしめる「空からの檄文」だった。
主要拠点が次々と陥落し、江戸城も包囲され、そして空からは得体の知れない「飛ぶ船」が自らの罪を告発するビラを撒き散らす――。
大老・井伊直弼は、自らの屋敷でその報告を受け、顔面を蒼白にさせていた。もはや江戸市中に、彼の味方をする者はいない。最後の望みを託し、手勢の精鋭(彦根藩士を中心とした約五百)を集め、江戸城へ向かい幕府の権威を盾に徹底抗戦の構えを見せるべく、桜田門外に布陣した。橋の上や塀の上からの銃撃という地の利を活かした、まさに背水の陣だった。
「報告!井伊掃部頭、手勢五百を率い、桜田門外に布陣!我らの進撃を待ち構えております!」
航空機と地上の諜報網からの報は、ほぼ同時だった。
「…面白い。最後の最後まで悪足掻きをするか、井伊直弼。望み通り、ここで決着をつけてやる」
俺は、朝廷より下賜された名刀「小狐丸」の柄を握りしめた。
「土方、近藤、そして新選組の精鋭たちよ!大老の首を獲り、新しい時代の扉をこじ開けるぞ!」
轟音と白煙が、江戸城桜田門外を包み込む。
菊章旗を背に、先頭に立つ俺――ジンの号令一下、黒い隊服に身を包んだ新選組二百余名が、鉄製の盾を前面に押し立て前進を開始した。
対するは、井伊直弼を守護すべく集結した彦根藩兵を中心とする幕府軍約五百。橋の上や、塀の上からの銃撃という地の利を活かした堅固な布陣だ。
「撃てぇっ!一歩たりとも通すな!」
幕府軍の指揮官が怒声を上げる。
火縄銃とゲベール銃が一斉に火を噴き、鉛玉が雨霰と新選組の盾に降り注ぐ。
バチバチと激しい音を立てて弾丸が弾かれ、盾の隙間を狙った銃弾が時折火花を散らした。
「怯むな!盾を信じろ!距離を詰め、こちらも撃ち返すぞ!」
土方歳三の檄が飛ぶ。新選組隊士たちは、シールドで身を守りながらも、巧みに隊列を組み替え、回転式拳銃で応戦。
しかし、堀の上や門の櫓といった高所を押さえた敵の射撃は正確かつ執拗で、数でも劣る新選組はじりじりと押され、容易には前進できない。
シールドの隙間を縫って飛び込んできた流れ弾が、数名の隊士の肩や足を掠め、うめき声が上がる。
(…このままでは、こちらの被害も増える。短期決戦でケリをつけるには、やはり俺が出るしかないか)
俺は舌打ちし、ミネルヴァに意識を集中する。
「ミネルヴァ、最大出力だ。あの男の首を、この手で獲る!」
「承知いたしました、ジン様。全戦闘補助システム、リミッター解除。あなたの望むままに!」
瞬間、全身の細胞が沸騰するような凄まじい昂揚感と共に、世界の動きがスローモーションのように感じられた。
五感が極限まで研ぎ澄まされ、筋肉の隅々まで力が漲る。
ミネルヴァから流れ込む膨大な戦闘データと、エルフとしての身体能力、そしてゲームキャラクターとしての規格外のステータスが、今、完全に一つになった。
敵兵の銃口の向き、弾道の予測、風の流れまでもが手に取るようにわかる。
俺は、腰に佩いた名刀「小狐丸」の柄を握りしめた。
「土方、近藤!俺が中央をこじ開ける!!俺に続けぇぇええ!!!!」
叫ぶと同時に、俺はシールドの壁から単身躍り出た。
「ジンさん!?」
土方の驚愕の声が、もはや遠くに聞こえる。
「突出したぞ!あの小僧だ!狙え、撃ち殺せ!」
幕府軍の指揮官が狂ったように叫び、銃口が一斉に俺に向けられる。
数十、いや百を超える銃弾が、死の嵐となって俺に殺到する。
だが――
「――遅い」
金属同士が激しくぶつかり合う甲高い音が連続し、俺の周囲に火花が乱れ飛ぶ。
飛来する鉛玉の軌道を完璧に見切り、そのことごとくを小狐丸の刀身で弾き、あるいは切り裂いていく。
常人には目で追うことすら不可能な神速の剣技。
銃弾の雨を突破した俺は、恐怖に顔を引きつらせる鉄砲兵たちの懐に、文字通り瞬時に飛び込んだ。
「ひ、ひぃぃっ!」
「ば、化け物だ!」
小狐丸が一閃する。薙ぎ払われた銃身が宙を舞い、返す刀が兵士の喉を切り裂く。
鮮血が噴き上がり、断末魔の叫びが上がる間もなく、次の獲物へ。
一人、二人、三人――俺の剣の軌跡上にいた者たちは、抵抗する間もなく次々と紅蓮の華を咲かせ、崩れ落ちていく。
「うおおおおおっ!ジンさんに続けぇぇぇっ!」
俺が敵陣の一角を食い破ったのを見て、土方歳三と近藤勇が、鬼神の如き形相で新選組の精鋭たちと共に突撃を開始した。
防護盾を前面に、回転式拳銃を撃ちまくりながら、彼らは俺がこじ開けた突破口から雪崩れ込む。
「新選組の力、思い知れぃ!」
永倉新八が、原田左之助が、そして若き沖田総司までもが、その卓越した剣技で敵兵を薙ぎ倒していく。
混乱の中、俺の目はただ一点、幕府軍本陣の奥、厳重な警護に固められた一際大きな駕籠――その傍らに立つ、威圧的な気を放つ一人の男を見据えていた。
大老・井伊直弼。彼こそが、この国の変革を阻む最大の壁。
「井伊掃部頭、お命、頂戴仕る!」
俺は、血路を開きながら、井伊直弼へと迫る。
その前に、十数名の屈強な武士たちが立ちはだかった。
いずれも一騎当千の猛者といった風情で、その殺気は尋常ではない。
彦根藩の精鋭、井伊の直属の護衛たちだろう。
「大老に指一本触れさせんぞ、若造が!」
彼らは、ジンの超人的な動きに怯むことなく、死に物狂いで斬りかかってくる。その太刀筋は鋭く、連携も取れている。
だが、今の俺の敵ではない。
ミネルヴァから流れ込む古今東西の剣術の知識、太刀筋の予測、そして敵の僅かな呼吸の乱れさえも読み取り、小狐丸が流麗な軌跡を描く。
一人目の太刀を受け流し、体勢を崩したところに斬り上げ、二人目の突きを紙一重で躱し、その腕を切り裂く。
三人目、四人目が同時に左右から襲い掛かるが、俺は独楽のように回転し、その双方の攻撃をいなしつつ反撃。
鮮血が舞い、肉を断つ鈍い音と、短い悲鳴が交錯する。
一人、また一人と、彼らは死力を尽くして抵抗するも、俺の剣の前に次々と地に伏していく。ジンの周囲には、瞬く間に屍の山が築かれようとしていた。
そして、ついに俺は、最後の護衛たちをなぎ倒し、本陣の奥で仁王立ちする男の前に到達した。
緋色の具足を纏い、鋭い眼光で俺を睨みつけるその男こそ、大老・井伊直弼。
彼は、周囲の惨状を見ても臆することなく、静かに腰の刀に手をかけていた。その佇まいは、武人としての確かな修練と、そして何よりも強靭な精神力を感じさせる。
「…見事なものよ、ジンとやら。まるで巷説に聞く鬼神の如き戦いぶり。だが、この井伊直弼、武門の意地にかけて、貴様のような得体の知れぬ者に、この国を好きにはさせん!」
井伊直弼は、ゆっくりと抜刀の構えをとる。新心新流居合術の創始者。その剣技は、決して侮れるものではない。
「武士の時代は終わりだ、井伊直弼。その首、この俺が貰い受ける!」
俺もまた、小狐丸を中段に構え、井伊と対峙する。
一瞬の静寂。
風が、血の匂いを運んでくる。
先に動いたのは井伊だった。
「ぬぅん!」
気合一閃、踏み込みと同時に放たれる居合の斬撃は、まさに神速。常人ならば目で捉えることすらできぬであろう一撃が、俺の首筋を狙う。
だが――
俺の小狐丸が、それを紙一重で受け止める。激しい金属音。
ミネルヴァのバフは、俺の動体視力と反射神経を、既に人間の限界を超えた領域へと押し上げていた。
井伊の顔に、初めて驚愕の色が浮かぶ。
間髪入れず、井伊は第二、第三の斬撃を繰り出す。流れるような剣技、変幻自在の太刀筋。まさしく達人の域。
しかし、その全てを俺は冷静に見切り、小狐丸で捌き、受け流し、そして弾き返す。
剣と剣がぶつかり合う甲高い音が、桜田門外に響き渡る。
数十合打ち合っただろうか。
井伊の額には汗が滲み、その呼吸は徐々に乱れ始めていた。
対する俺は、涼しい顔のまま、一切の隙を見せない。力の差は、もはや歴然だった。
「こ、この化け物が…!だが、この国のため、ここで死ぬわけにはいかんのだ!」
井伊は最後の力を振り絞り、捨て身の突進と共に渾身の一撃を放ってきた。
だが、その一撃は、俺の小狐丸によって虚しく空を切る。
体勢を崩した井伊の胴に、俺の小狐丸が、吸い込まれるように深々と突き刺さった。
「ぐ…あ……」
井伊の目が見開かれ、その口から夥しい量の血が溢れ出す。
彼は、信じられないものを見るかのように俺の顔を見つめ、そして、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
その巨体が、音を立てて地面に倒れる。
大老・井伊直弼、ここに斃れる。
周囲の戦闘は、この瞬間、まるで時が止まったかのように静まり返った。
幕府軍の兵士たちは、総大将の死を目の当たりにし、戦意を完全に喪失した。
俺は、血振り一つし、小狐丸を鞘に納めた。
そして、天を仰ぎ、腹の底から雄叫びを上げた。
「勝鬨を上げよ!!我らの勝利だ!!!」
その声に呼応し、土方歳三が、近藤勇が、そして新選組の隊士たちが、一斉に鬨の声を上げる。
「「「うおおおおおおおおおおっ!!!」」」
その鬨の声は、旧時代の終焉と、新しい時代の幕開けを告げるかのように、夏の江戸の空に高らかに響き渡った。
井伊直弼の死により、江戸城内の抵抗勢力は完全に戦意を喪失。
徳川慶喜が城内に入り、ジンの意向と朝廷の勅命を伝え、残る幕閣や旗本たちに新体制への協力を説得。江戸城は大きな戦闘なしに開城された。
数日後、俺は錦の御旗を高く掲げ、徳川慶喜を伴い、江戸城本丸へと入った。
集まった諸侯や、遠巻きに見守る江戸の民衆に対し、俺は天皇の勅命に基づき、井伊直弼の罪を断じ、旧幕府体制の終焉と、自らが「総攬」として全権を掌握し、新政府「総攬府」を樹立することを、高らかに宣言した。




