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幕末ブループリント  作者: ブイゼル
第二章(倒幕)
19/65

19(大獄)

18話が安政二年なので、2年後です。

安政四年(1857年)冬


江戸の町は、安政江戸地震の爪痕がまだ生々しく残る中、新たな恐怖に覆われようとしていた。

将軍継嗣問題や外交問題の混乱、そして地震対応における幕府の無力さが露呈したことなどを背景に、ついに井伊直弼が反対派を抑え込み、大老の座に就いたのだ。

その権力基盤を固めるため、そして自らの意に沿わぬ者を排除するため、井伊は苛烈な弾圧の刃を振り下ろそうとしていた。それは史実より1年早い「安政の大獄」の幕開けだった。


井伊直弼は大老就任早々、「国家の秩序を回復し、人心を惑わす不逞の輩を一掃する」と宣言。

その矛先は、まず俺とその協力者たち、そして活版印刷による「風聞流布」に関わる者たちに向けられた。

福沢諭吉や本木昌造といった名前が幕府の捕縛リストの上位に挙がっているという情報が、ミネルヴァからもたらされる。

開明的な思想を持つ学者や藩士、そして一橋派の有力者たちに対する過酷な取り調べや家宅捜索も始まり、江戸市中は息詰まるような恐怖と疑心暗鬼に包まれた。


神田の俺の屋敷は、公然たる監視下に置かれ、井伊派の密偵や与力同心による様々な妨害や挑発が繰り返された。新選組は、土方歳三と近藤勇の指揮のもと、昼夜を問わず屋敷の防衛にあたり、時には市中で井伊派の手先と一触即発の睨み合いを演じることもあった。


「ジンさん、奴ら、いよいよ本気で俺たちを潰しにかかってきましたぜ。だが、この新選組がいる限り、指一本触れさせません!」


土方の言葉には、鉄のような決意が漲みなぎっていた。


しかし、敵は幕府権力そのもの。

このまま江戸で全ての活動を続けるのは危険すぎると判断した俺は、苦渋の決断を下した。


「これ以上の被害拡大を防ぎ、我々の技術開発の火を絶やさないため、主要な人員と設備を安全な場所へ移す」


その避難先こそ、会津藩だった。


2年前の安政江戸地震の際、神田の屋敷の周辺だけでなく、多くの大名屋敷も甚大な被害に見舞われた。

ジンの指示で、土方歳三は新選組の精鋭部隊を率い、特に被害の大きかったいくつかの大名屋敷の救援にも当たっていた。その中には会津藩の江戸藩邸も含まれていた。

震災後、会津藩からは家臣が丁重な礼のために神田の屋敷を訪れた。

その際、ジンは会津藩が長年冷害に苦しんでいることを知り、ミネルヴァの技術で選抜・改良を重ねた極めて優良なイネの種籾(F3世代)を、「これは震災見舞いと、今後の日ノ本を支えるためのささやかな投資です」と言って彼らに持たせて帰らせたのだった。

安政三年(1856年)春に会津で植えられたその稲は、秋には驚異的な収穫をもたらし、続く安政四年(1857年)も同様の豊作となった。二度にわたる未曾有の豊作は、会津藩にとってまさに天佑(てんゆう)であり、藩主松平容保(まつだいらかたもり)をはじめ藩士たちは、ジンに対して言葉では言い尽くせぬ恩義と厚い信頼を寄せるようになっていた。

この絆こそが、今、俺たちの窮地を救う切り札となり得る。


俺は、藩の会津重臣と秘密裏に連絡を取り、事情を説明。

会津藩は、米の恩義と、井伊直弼の強権政治への潜在的な反発、そして何よりもジンの持つ技術力と日本の未来への可能性を信じ、この危険極まりない申し出を受け入れた。

田中久重、本木昌造、福沢諭吉、橋本左内、佐久間象山、吉田松陰といった日本の未来の頭脳とも言える技術者たちと、彼らの研究設備や活版印刷設備一式、貴重な資料の一部などが新選組の精鋭部隊による厳重な護衛のもと、夜陰に紛れて江戸を脱出し、会津藩領内の人里離れた山中に作った工房へと向かった。


俺自身は、新選組の主力と共に江戸に残ることを選んだ。

江戸に居る勝海舟らと連絡を取る必要もあるし、俺が移動しては会津が狙われてしまう。

新選組の足の速いメンバーを、会津との連絡役として中継地点に揃え、山中などの見つかりにくく足場の悪い箇所には単距離ながらも電信を設置した。


そんな国内の混乱の最中、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが、軍艦を伴い下田に来航した。

その目的は、日米修好通商条約の締結。

幕府に対し、江戸への出府と将軍への拝謁、そして条約交渉の本格化を強硬に要求してきた。

井伊直弼は、この外圧を利用し国内の反対派を黙らせ、自らの権力を内外に誇示するためにもアメリカとの条約締結を急ごうとした。

既に幕府内では、ハリスの要求する開港や治外法権といった不平等な内容を受け入れざるを得ないという空気が醸成されつつあった。


「ジン様、ハリスはまもなく井伊と会談し、条約は締結されるでしょう。その内容は、日本にとって極めて不利なものとなります」


ミネルヴァの報告は、冷厳な未来を告げていた。


「…そう簡単にはいかせんさ」


俺は、勝海舟や小栗忠順といった幕府内の数少ない開明派に、極秘裏にハリスに関する情報と、彼への接触の手筈を整えさせた。

そして俺自身も、一介の通詞に成りすまし、厳重な警戒網を潜り抜け下田へと向かった。



下田の仮設応接所。数日にわたる折衝の末、俺はついにハリスと非公式に二人だけで会談する機会を得た。


「ハリス殿、私は貴国に敵意を持つ者ではありません。ただ、真の日米友好のため、一言お伝えしたいことがあるのです」


俺は、ミネルヴァの未来知識に基づき作成した、詳細かつ具体的な「アメリカ合衆国における奴隷制度を巡る深刻な国内対立の分析と、数年以内に勃発するであろう大規模な内戦の勃発時期、主要な指導者、戦いの推移、そしてその帰結を示唆する報告書」を、ハリスの目の前に置いた。


「…これは?」


ハリスは訝しげに目を通し始めたが、読み進めるうちにその表情は驚愕に変わり、やがて蒼白になった。


「馬鹿な…あり得ん…貴殿は一体どこでこんな情報を…!」


「情報源は申し上げられません。ですが、ハリス殿、貴国がこのような国家分裂の危機を目前にしている中で、極東の小国との不平等な条約締結に固執し、国力を割く余裕が本当にあるとお考えですか? もしこの報告書の内容が現実となれば、この条約は反故にされ、日本との友好関係も水泡に帰すことになりかねません。むしろ、今は国力を内政の安定に注力すべき時ではないでしょうか」


俺の言葉は、冷静だったが、有無を言わせぬ確信に満ちていた。

ハリスは、しばし呆然と報告書と俺の顔を見比べていたが、やがて深いため息をついた。


「…ミスター・ジン…いや、何者かは存じませぬが、あなたのその情報は、我が国の将来にとって看過できぬものだ。この条約交渉…一度本国に持ち帰り、国務省と大統領の判断を仰がねばならなくなった」


数日後、ハリスは幕府に対し、「本国政府との間に緊急の協議事項が生じたため」として、条約交渉の無期限延期を申し入れた。そして、複雑な表情で下田を後にした。

井伊直弼の目論見は、完全に打ち砕かれた。

未来予測(チート)という名の刃による、外交的勝利(じかんかせぎ)が成った瞬間であった。



「時間は稼いだ…」


江戸に戻った俺は、神田の屋敷で独りごちた。窓の外では、井伊による「大獄」の嵐が依然として吹き荒れている。


「だが、奴の首に縄をかけるには、もう一押し必要だ。そして、その時は近い…」


俺の脳裏には、次なる一手――京都の朝廷、そして徳川慶喜の姿が浮かんでいた。

ミネルヴァが、静かに告げる。


「全ての条件は整いつつあります、ジン様。徳川家定公の容態も…」


日本の歴史が、来るべき歴史の転換点がカウントダウンを始めた。

今話はジンの影響で歴史が大きく変わっているので、史実との違いを少し解説します。


・安政の大獄

安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて江戸幕府が行った弾圧。

幕府の大老・井伊直弼や老中・間部詮勝らは、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、また将軍継嗣を徳川家茂に決定。

安政の大獄とは、これらの諸策に反対する者たちを弾圧した事件です。

今作では史実よりも早く幕府の支持が離れており、井伊直弼ら強硬派が幕府内で反発した結果、井伊が1年早く大老となった形です。

勿論ジンへの怒りは強く、安政の大獄へと進んでいきます。


・タウンゼント・ハリスの来日

史実では1856年8月21日に下田へ入港しています。

これは日米和親条約でアメリカ側(英文)は領事館を置く事が出来るようになっていたためです。

今作ではジンらの交渉により領事館の明記を延期しているため、来航が1年遅くなっています。


・井伊直弼

史実での彼は、勅許なしの条約調印には反対であったようです。(条約調印はやむを得ないと考えていた)

実際、急ぎ勅許を得る間、調印を引き延ばすようにハリスと交渉するため、井上清直と岩瀬忠震を派遣しています。

その際、井上と岩瀬から「やむを得ない場合は調印していいか」と直弼に尋ねられており、

直弼は「その場合は致し方ないが、できるだけ引き延ばすように(已むを得ざれば、是非に及ばず)」と答えています。

当時幕府は、アロー戦争(1856-1860)が休戦となったことをきっかけに、ハリスから「戦勝の勢いに乗った英仏連合艦隊が日本に来航し、前年に結ばれた下田条約を超える内容の条約を要求してくるであろうから、速やかに米国と条約を締結してこれに備えるべき」といった内容で急かされており、井上や岩瀬は即刻の調印を目指していました。

結局先の言葉で言質を得たと判断した井上と岩瀬はハリスのもとに行ったその日のうちに日米修好通商条約に調印しています。

今作では、まず日米和親条約や日英和親条約に不平等条約が無く、「開国」や「貿易」が実績になる可能性がありました。

そしてアロー戦争も続いており英仏の介入も無く、強硬手段で大老となった直弼には目に見えた「実績」が必要でした。


・数年以内に勃発するであろう大規模な内戦

アメリカ南北戦争の事です。



【用語解説】

・優良なイネの種籾(F3世代)

Fとは異なる品種を交配して作られた雑種の代を表します。ここではF3なので、交雑から3世代たった選抜種です。

第4話で集め(F0)、第9話(1853年)で1度目の収穫(F1)をしています。

ミネルヴァが特に優秀なものを選抜しているので、ここでは「陸羽132号」に近いものが出来ている想定です。

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