18(偉材)
安政二年(1855年)十月。
江戸の空は高く澄み渡り、秋の気配が深まっていた。
神田の俺の屋敷では、集った者たちがそれぞれの分野で目覚ましい成果を上げ始め、日本の未来を左右するであろう計画は着実に前進していた。しかし、その穏やかな日々の下に、巨大な災厄の影が静かに迫っていた。
「ジン様、申し上げます。十月二日、夜四半時(午後10時頃)、江戸直下を震源とする震度6強、M7クラスの大地震が発生するとの予測が出ました。広範囲に甚大な被害が予想されます」
数日前、ミネルヴァがもたらした情報は、俺の背筋を凍らせるには十分だった。
安政江戸地震――たしか、前世の東日本大震災や関東大震災の番組で「関東には周期的に大地震が来る」と、その1つとして紹介されていたような気もする。
「…そうか。このタイミングか」
俺は静かに頷いた。
「ミネルヴァ、被害想定の詳細を。そして、この国難を我々が飛躍するための機会に変えるための策を練るぞ」
予知できる以上、座して待つ手はない。
俺は直ちに、土方歳三、近藤勇、田中久重、本木昌造、橋本左内といった核心的メンバーのみを集め、詳細は伏せつつも「近日中に江戸で大規模な火災とそれに伴う大混乱が発生する可能性が高い。我々はそれに備え、人命救助と被害の極小化に全力を挙げる」と伝え、秘密裏に準備を開始させた。
神田の屋敷と工房、特に活版印刷所やエンジン研究施設、備蓄倉庫は、俺がミネルヴァの知識を元に指示した耐震補強(筋交いや基礎の強化、重量物の固定など)が急ピッチで施された。
新選組は、土方の指揮のもと、「市中での大規模火災を想定した特殊訓練」と称し、消火活動、負傷者救護、瓦礫からの人命救助、避難誘導、そして混乱時の治安維持といった実践的な訓練を昼夜分かたず繰り返した。
橋本左内は、消毒用エタノールや医薬品、包帯などの医療品を可能な限り大量に準備。
食料、水、簡易テント、毛布といった救援物資も、坂本龍馬が築いた交易ルートも活用し、秘密裏に屋敷の地下倉庫へと運び込まれた。
そして、安政二年十月二日、夜四半時。
予言は、寸分の狂いもなく現実となった。
突如として江戸の地が裂けるような轟音と共に激しく揺れ動いた。
家屋は飴細工のように倒壊し、土蔵は崩れ、瞬く間に各所で火の手が上がる。
悲鳴、怒号、泣き声――江戸は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
「来たか…!全員、落ち着いて指示通りに動け!」
神田の屋敷は、事前の補強が功を奏し、多少の壁の亀裂や瓦の落下はあったものの、倒壊を免れた。
俺は即座に指揮を執り、負傷者の手当て、そして何よりも初期消火を命じた。
「ミネルヴァ、火災の延焼状況、最も救助を必要としている区域をリアルタイムで把握しろ!」
「承知いたしました!」
「土方、大名屋敷もかなり不味い状況だ。精鋭をそっちに回せ!」
地震発生とほぼ同時に、土方歳三と近藤勇に率いられた新選組の部隊が、神田の屋敷を飛び出していった。
彼らは、事前に定められた担当区域へと統率された動きで散開。
その手には刀ではなく、鳶口とびぐちや鋸のこぎり、水桶みずおけ、そして救護用の担架。
混乱し右往左往する町人たちや、機能不全に陥った幕府の役人たちを尻目に、彼らは倒壊家屋に取り残された人々を次々と救出し、火災現場では命がけで延焼を食い止め、負傷者をジンの屋敷へと搬送していく。
その規律正しさ、迅速さ、そして献身的な活動は、恐怖に打ち震える江戸の庶民にとって、まさに闇夜に差した一筋の光明だった。
神田の屋敷は、さながら野戦病院と化した。
橋本左内、そして彼に指導を受けた数名の者が、次々と運び込まれる負傷者たちに、ジンの指示とエタノール消毒などの当時としては画期的な知識で治療を施していく。
その的確な処置は、多くの命を救った。
福沢諭吉は、冷静に負傷者の情報を記録し、安否確認の拠点としての役割を担う。
本木昌造は、活版印刷所が無事だったことに安堵しつつも、職人たちと共に屋敷の破損箇所の修繕や、救援物資の整理に奔走した。
この未曾有の国難は、最近俺の下に話を聞きに来るようになった「偉材」たちに、真価を示す試練となった。
この件で新たに仲間になったのは3人。大村益次郎、五代友厚、佐野常民だ。
彼らは龍馬に話を聞き、直接話を聞きたいと江戸に来ていた者たちだった。
大村益次郎は、新選組の組織的な救助活動と、混乱の中でも統制を失わないジンの指揮能力に目を見張った。
「これぞ真の軍略…平時のみならず、有事においてこそ、その組織力は試される…!」
と、彼はジンの下で新しい軍隊を作る決意をした。
五代友厚は、救援物資の効率的な配分や、被災者情報の一元管理といったジンの危機管理能力に舌を巻き、経済再建への協力を申し出た。
佐野常民は、自らも負傷者の救護を手伝いながら、ジンの示す人道主義と、それを支える科学的知識の重要性を痛感した。
数日が経過し、地震の最も大きな混乱が収まり始めた頃、江戸の町には一つの噂が広まっていた。
「神田のジン様と新選組の方々のおかげで命拾いした」
「あの方たちがいなければ、今頃どうなっていたか…」
「お侍様よりよほど頼りになる」
幕府の対応の遅れや、藩によっては我先に逃げ出す武士もいた中で、ジンの屋敷を中心とした救援活動は、庶民の心に深く刻まれた。それは、金銭では決して買えない、絶大な信頼と支持だった。
対照的に、幕府の権威は大きく揺らいだ。災害対策の不備、救済の遅れは、民衆の不満を増幅させた。
福沢諭吉は、この状況を克明に記録し、活版印刷された「安政江戸大地震被害報告と神田における救援活動の真実」と題した小冊子を作成。それは、めぐりめぐって京の朝廷関係者にも届けられた。
幕府の失態と、それに代わって民を救うジンの存在は、京の公家たちにも大きな衝撃を与え、ジンの名はその胸に深く刻まれた。
江戸城では、井伊直弼が苦々しい表情で被害報告を受けていた。
神田の一角だけが、まるで奇跡のように被害を抑え、迅速な救援活動を展開している。
そして、そこに集まる民衆の称賛の声。
「ジン…またしてもあの小僧か。民衆の心を掴み、幕府の無能を晒すとは…許しがたい。この混乱が収まり次第、必ずや…いや、この混乱を利用してでも、奴を排除する方策を練らねばならぬ」
彼の胸中には、ジンに対する警戒心と敵意が、怒りの炎となって燃え盛っていた。
彼が権力を完全に掌握した暁には、ジンは真っ先に排除すべき存在として、そのリストの筆頭に記されることになるだろう。
俺は、復興作業が始まった江戸の町を見下ろしていた。
夥しい数の瓦礫、焼け跡、そして仮設の小屋。しかし、その中で、人々は懸命に立ち上がろうとしている。
傍らには新たに仲間になった、大村益次郎、五代友厚、橋本左内、佐野常民…そして、土方歳三、近藤勇、田中久重、福沢諭吉、赤松則良、本木昌造といった、俺の信頼する仲間たちがいた。
「この試練を乗り越え、我々はさらに強くなった」
俺は、集った「偉材」たちの顔を見渡し、静かに、しかし力強く言った。
「そして、この国を、真に民のための、強く豊かな国へと作り変えるぞ」
この国難は、我々の結束を鉄のように鍛え上げた。
【用語解説】
■安政江戸地震
史実でも1855年11月11日(旧暦では作中で書かれている十月二日)に江戸(現在の東京)で発生したM7クラスの直下型地震です。特に隅田川東側(現在の江東区)で強い揺れが観測され、震度6強の揺れが江戸や横浜で記録されました。
- 死者:公式調査では約4,000~10,000人と推定
- 倒壊家屋:14,346戸以上
- 火災:地震直後に発生し、特に新吉原(現在の台東区)では大規模な延焼が起こり、1,000人以上が犠牲になったとされる。
内閣府が出している報告書(平成16年)には「大名屋敷は、266家のうち116家で死者が発生。特に、大名小路(現在の丸の内辺り)にあった55家のほぼ全てが何らかの被害。」と記載されています。
【人物紹介】
■ 大村益次郎
・史実の生没年: 1824年~1869年
・主な功績:
長州藩の軍事改革を推進し、西洋兵学を導入。
戊辰戦争では新政府軍の指揮を執り、上野戦争で旧幕府軍を撃破。
明治政府の兵部大輔として日本陸軍の創設に尽力した。
・その他エピソード:
適塾で蘭学を学び、緒方洪庵の塾頭を務める。
明治2年、京都で襲撃され重傷を負い、大阪で死去した。
■ 佐野常民
・史実の生没年: 1823年~1902年
・主な功績:
佐賀藩士として西洋技術の導入に尽力し、長崎海軍伝習所で学ぶ。
明治維新後は政府に出仕し、大蔵卿や農商務大臣を歴任。
日本赤十字社の創設者として戦場救護活動を推進し、日本の人道支援の礎を築いた。
・その他エピソード:
適塾で学び、大村益次郎らと交流。パリ万博で国際赤十字の活動を知り、日本での導入を決意。
博覧会の開催にも尽力し、日本の産業振興に貢献した。
■ 五代友厚
・史実の生没年: 1836年~1885年
・主な功績:
薩摩藩士として長崎海軍伝習所で学び、ヨーロッパ留学を経験。
明治維新後は大阪経済の発展に尽力し、大阪商法会議所や大阪証券取引所の設立に関与。
日本の近代産業の礎を築いた。
・その他エピソード:
薩英戦争でイギリスの捕虜となるも交渉で解放される。
パリ万博に薩摩藩の代表として参加し、海外の技術を導入。
大阪の経済発展に貢献し、「西の五代」と称された。




