16(反撃)
安政二年(1855年)初春。
江戸の空気は、表面上の穏やかさとは裏腹に、水面下で激しくせめぎ合う幾つもの思惑で張り詰めていた。
大老・井伊直弼の強権的な手法に対する不満がくすぶり始め、俺はその流れを加速させるべく、確実な布石を打ち続けていた。
まず俺が仕掛けたのは、情報による井伊包囲網の形成だった。
「福沢、頼みがある」
俺は、神田の屋敷に福沢諭吉を呼び、一枚の紙片を手渡した。
そこには、ミネルヴァが収集した井伊直弼の政策の矛盾点や、彼の取り巻きによる利益誘導を匂わせる風聞、そして民衆が抱えるであろう不満を、巧みに刺激するような風刺文の骨子が記されていた。
「これを元に、民衆にも分かりやすく、しかし直接的な名指しは避け、現在の幕政の歪みを風刺する読み物を書いてほしい。そして、信頼できる瓦版問屋を通じて江戸市中に流布させるんだ」
「…これは、かなり大胆な。しかし、先生の意図は理解できます。お任せください」
福沢は一瞬眉をひそめたが、すぐにその鋭い目で意図を汲み取り、力強く頷いた。
彼の筆は、やがて江戸の民の心を静かに揺さぶり始めることになる。
並行して、俺は新選組の諜報部隊を使い、井伊直弼と対立する一橋派の有力幕臣や、井伊の独断専行に不満を抱く他の譜代大名の側近たちへ、匿名の書状を届けさせた。
そこには、井伊の政策決定の不透明さや、特定の派閥への利益誘導を示唆する情報が記されていた。
この書状は直接的な行動を促すものではない。
だが、疑心暗鬼という種を蒔くには十分だった。
これらの「反撃」の準備と並行し、俺は未来への布石も着々と打っていた。
その一つが、橋本左内との本格的な連携だ。
坂本龍馬の手引きで、俺はついに江戸の左内の逗留先で彼と直接会見する機会を得た。
歳は二十歳を少し過ぎたばかりだというのに、その眼光の鋭さ、理路整然とした思考、そして何よりも日本の将来を深く憂う真摯な姿勢は、俺に強い感銘を与えた。
「ジン殿…あなた様の噂は龍馬殿から伺っております。にわかには信じ難い話も多いですが、この国の現状を憂い、具体的な変革を志しておられる熱意は十分に伝わりました」
左内は、冷静な口調ながらも、その瞳の奥には強い探求心と期待を宿している。
俺は単刀直入に切り出した。
「左内殿、あなたの医学と蘭学の知識、そしてその類いまれな分析力と実行力を見込んでお願いがある。我が国の医療水準を飛躍的に向上させたい。そのため、まずは質の高い消毒用アルコール――エタノールの製造技術を確立し、国内に普及させていただきたい。これは、負傷者の救命率を上げるだけでなく、将来、新たな動力源の燃料ともなり得る、極めて重要な物質だ」
俺は、ミネルヴァから得たエタノールの効率的な発酵・蒸留技術の改良案や、その多様な用途に関する資料を左内に示した。
左内は、食い入るように資料に目を通し、時折鋭い質問を挟みながらも、みるみるその顔を興奮で紅潮させていく。
「…これは…素晴らしい!このような精製法があったとは…!そして燃料にまで!?ジン殿、あなた様の知識の深淵には驚嘆するばかりです。微力ながら、この左内、日本の未来のため、この研究開発にお力添えいたしましょう!」
左内は固く協力を約束してくれた。
彼は早速、江戸詰めの藩医仲間や蘭学者たちの中から信頼できる少数を集め、俺が提供した資金と資料を元に、小規模ながらも高純度エタノール製造の秘密実験に着手することになった。
そして、そのエタノール製造に不可欠な原料調達という新たな任務を、俺は坂本龍馬に託した。
「龍馬さん、左内先生の研究には、大量のサツマイモや糖蜜といった原料が継続的に必要になる。これを安定的に、かつ安価に調達するルートを確保してほしい。西国諸藩の産物と江戸・大坂の需要を結びつけ、我々独自の輸送・交易組織を築き上げるんだ。これは、単なる物資調達に留まらない。いずれ我々が日本の海を掌握するための、海軍の基礎ともなる一大事業だ」
俺は、ミネルヴァが集めた各地の産物の相場情報、協力者となり得る商人や各藩の勘定方のリスト、そして潤沢な初期活動資金を龍馬に提供した。
「おお、こりゃまた壮大な話じゃのう!陸の次は海か!ジンさんの考えることは、まっこと桁が違うぜよ!ようし、この坂本龍馬、一世一代の大仕事として、必ずや成功させてみせる!」
龍馬は目を子供のように輝かせ、意気揚々と江戸を後にした。彼が各地で同志を募り、舟を買い集め、やがて「海援隊」の原型となる組織を作り上げていくのは、そう遠い未来の話ではない。
技術開発の現場も活気に満ちていた。
田中久重は、俺が提示した「内燃機関」の基本原理と設計図に、まさに寝食を忘れて没頭していた。
「ジン殿、この『気筒』の中で燃料を爆発させ、その力で『円盤』を回すとは…!まさに神業の発想!しかも燃料も手配頂いたとか。いつも話が早くて助かりますぞ」
彼の工房では、反射炉で生み出された良質な鉄を使い、シリンダーやピストンの試作が始まっていた。
佐久間象山と吉田松陰が進める航空機研究についても、新選組隊士経由で胸躍る報告がもたらされた。
「象山先生が、有人での滑空に成功したそうです。落ちるのではなく、空を滑るように飛んで行ったと。試作機で何度か落ちたようですが、今回出来た新型は安定しているようです。次はこれに動力を載せる算段だと、松陰先生も息巻いておりました」
有人での安定した滑空の成功は、大きな進歩だ。
しかし、試作機の段階で何度も落ちたようだが象山も無茶をする。
これに久重の作る軽量高出力エンジンが組み合わされば、歴史を数十年単位で飛び越える「翼」が、この日本で生まれるだろう。
江戸市中では、福沢諭吉が手掛けた風刺文が、じわじわと民衆の間に浸透し始めていた。「近頃、お上は一部の者の言いなりらしい」「年貢は重くなるばかりなのに、武士は贅沢三昧か」といった噂が、井戸端会議や酒席で囁かれ、それはやがて幕政への不満という名の小さな渦となり、少しずつ大きくなろうとしていた。
俺が流した情報を受け取った一橋派の幕臣たちも、井伊直弼の強引な手法に対する警戒感を強め、水面下で反井伊派の諸大名との連携を模索し始めている気配があった。
だがこれらはまだ、井伊直弼の政治基盤を揺るがす下地作りで、ほんのジャブのようなものだ。
「ジン様、井伊派による新たな動きです。我々の活動資金源の調査を本格化させると共に、ジン様に協力的な商人や藩士に対し、圧力をかけ始めた模様です」
ミネルヴァの報告が、敵もまたこちらの動きに気づき、反撃に転じようとしていることを示していた。
「フン、ようやくこちらの仕掛けに気づいたか、井伊掃部頭」
俺は、神田の屋敷から、眼下に広がる江戸の町を見下ろした。その先には、井伊直弼のいる江戸城がある。
「だが、もう流れは止められんぞ。俺たちを攻撃するとどうなるか、身をもって思い知ると良い」
俺の口元には、新たな策謀を練る者の、冷徹な笑みが浮かんでいた。
・エタノールの燃料化
エタノールは内燃機関の燃料として一応、使えるようです。
実際、初期の自動車や航空機の燃料としても研究・使用されていました。
現在アメリカやブラジルなどでもバイオエタノールとガソリンを混ぜたものを車の燃料としているところもあるみたいです。




