14(龍動)
嘉永七年(1854年)秋――。
日米和親条約締結の余波がまだ残る江戸で、俺、ジンは着々と次なる布石を打っていた。
神田の屋敷は、もはや単なる工房兼私塾ではなく、日本の未来を左右するであろう計画の司令塔としての色彩を濃くしていた。
この数ヶ月、イギリスをはじめとする欧州列強も日本との条約締結を求めて相次いで来航していたが、俺は事前に勝海舟や福沢諭吉を通じて、幕府の交渉担当者に情報を流していた。
「クリミア戦争で欧州列強は極東に大規模な戦力を割く余裕はない。日米和親条約でアメリカが得られなかった最恵国待遇や領事駐在を、彼らがやすやすと獲得できると思っていないだろう。強気で交渉し、時間稼ぎに徹すべし」
その結果、諸外国との交渉は難航し、日本にとって致命的な不平等条約の締結は今のところ回避されていた。これも、ミネルヴァの正確な国際情勢分析と、俺のささやかな介入の成果と言えるだろう。
今日は神田の屋敷に数ヶ月ぶりに坂本龍馬が顔を見せていた。
夏の初めに初めて接触して以来、何度か会合を重ね、彼は俺の計画に強い興味を示し協力者の一人となっていた。
「ジンさん、ちっくと報告に上がったぜよ」
相変わらず飄々とした様子だが、その目には確かな熱意が宿っている。
「龍馬さん、お待ちしていました。例の件、進展はありましたか?」
俺は彼を奥の間に通した。
例の件とは、龍馬の人脈を使い、吉田松陰や佐久間象山といった先見性のある人物たちに接触し、彼らに俺の存在や未来技術の一端を伝え、協力を取り付けるというものだった。
特に、彼らのような既成概念にとらわれない発想の持ち主には、「人を乗せて空を飛ぶ機械」――つまり、航空機の基礎研究という、この時代では奇想天外とも言えるテーマを与え、その反応を探っていた。
龍馬は苦笑いを浮かべた。
「いやあ、松陰先生も象山先生も、ジンさんの話には度肝を抜かれちょったが、さすがに『空飛ぶからくり』となると、まだ半信半疑のようでな。じゃが、象山先生なんぞは『理屈の上では可能やもしれん』と、まんざらでもないご様子じゃった。もう少し時間はかかりそうじゃが、きっと面白いことになるぜよ」
まだ具体的な成果には至っていないようだが、彼らの知的好奇心を刺激するには十分だったようだ。
ライト兄弟よりも半世紀近く早く日本の空に何かが舞うことになるかもしれない、と考えると胸が躍る。
「焦る必要はありません。彼らのような才能が、我々の側に興味を持ってくれるだけでも大きな前進です。…ところで龍馬さん、あなたに新たにお願いしたいことがあります」
俺は話題を変え、懐から一枚の紙を取り出した。
そこには「橋本左内」という名と、彼に関するミネルヴァからの情報が記されている。
「越前福井藩の橋本左内という人物をご存知ですか?歳は若いが、相当な切れ者だと聞いています。調べでは、今、江戸に遊学中のようです。彼に接触し、我々の仲間に引き入れることはできませんか?」
龍馬は紙を覗き込み、ニヤリと笑った。
「橋本左内…名前は聞いちょる。確か、緒方洪庵先生の適塾でも学んだ俊才じゃったな。ようし、この龍馬に任せちょき!面白い男なら、きっと話も合うはずじゃ」
彼の行動力にはいつもながら期待させられる。こうして、龍馬は新たな任務を帯びて屋敷を後にした。
一方、新選組内部では、夏頃からあえて泳がせていた不穏分子に対する最終的な処断の話し合いのため、土方歳三と近藤勇が厳しい表情で俺の前に座っていた。
「ジンさん、例の者たちの件ですが、ついに尻尾を掴みました。過激な攘夷派と繋がり、我々の情報を流していたばかりか、井伊掃部頭の手の者とも密会を重ねていた証拠も挙がっております。これ以上泳がせては、他の隊士たちへの示しもつきませぬし、忠誠を誓う者たちの中にも動揺が広がりかねません。断を下すべきかと」
土方の言葉には、苦渋と、しかし組織の長としての覚悟が滲んでいた。
俺は静かに頷いた。
「ご苦労だった、土方、近藤。お前たちの判断は正しい。新選組を真に鉄の結束を誇る組織にするために、そして裏切り者にはどのような末路が待っているのかを、全隊士に示す時だ。『局中法度』は飾りではない。処分はお前たちに一任する」
数日後、新選組の屯所の一角で、粛清が行われた。
対象となった数名の隊士は、全隊士が見守る中、局中法度に基づき切腹。
その光景は、若い隊士たちに強烈な印象を刻みつけ、規律の厳格さと裏切りへの不寛容を改めて認識させた。この一件を通じて、新選組は血の結束を固め、ジンの理想を実現するための非情なる実力組織として、さらに一歩前進したのだった。
土方や近藤もまた、この試練を乗り越えることで、指導者としての器を大きくしたように見えた。
そして、この粛清は、井伊直弼に対する俺たちからの明確な警告でもあった。
技術開発も着実に進んでいた。
田中久重の工房では、多くの職人たちの努力の末、ついに反射炉の小型実験炉が完成に近づき、試験的な鉄の溶解に成功した。これは、日本の製鉄技術革新に向けた、小さな、しかし決定的な第一歩だった。
「ジン殿!ついに、ついにやりましたぞ!この鉄があれば、いずれは我らの手で大砲も蒸気機関も…!」
久重は、子供のように目を輝かせ、真っ赤に溶けた鉄を見つめていた。
勝海舟の斡旋により、幕府の小規模な造船所の一部を「研究目的」として使用する許可も得ていた。
ここでは、赤松則良のような若い技術者たちが、ジンの提供した図面やミネルヴァの知識を元に、蒸気機関の試作や、小型蒸気船の設計に着手し始めていた。
一方で、神田の拠点とごく近隣の協力者の屋敷との間で進められていた有線の試験ライン敷設は、絶縁材の確保や、幕府の目を盗んでの秘密裏の作業の困難さに直面していた。技術的な課題は、一つクリアしてもまた次が現れる。道のりはまだ遠い。
そんな俺たちの活動の活発化は、当然ながら幕府保守派、特に大老・井伊直弼の警戒心を極限まで高めていた。
彼にとって、ジンの存在と、その周囲に集まる才能ある若者たちは、幕府の権威を揺るがし、祖法を破壊する元凶としか映らないのだろう。
「ジン様、井伊掃部頭による、ジン様への直接的な排除計画が具体化しつつあります。複数の刺客集団の準備、拠点への夜襲計画、そして新選組内部へのさらなるスパイ潜入の動きが観測されます」
ミネルヴァの報告は、日増しに緊迫度を増している。
江戸の夜空を見上げながら、俺は不敵な笑みを浮かべた。
「面白い。受けて立とうじゃないか、井伊掃部頭。お前が仕掛けてくるなら、こちらも全力で応えてやるまでだ。この国の未来を賭けた勝負、どちらが最後に笑うか、見ものだな」
新たな嵐の予感が、江戸の空気を震わせていた。
【用語解説】
■ クリミア戦争
1853年から1856年にかけて、ロシア帝国とオスマン帝国を中心に、フランス、イギリス、サルデーニャ王国が参戦した戦争。ロシアの南下政策に対抗する形で勃発し、戦場はクリミア半島を中心に広がった。最終的に連合軍が勝利し、パリ条約が締結され、ロシアの黒海進出が制限された。
・戦争の背景:
ロシアは黒海沿岸の支配を強め、地中海への進出を狙っていた。一方、オスマン帝国は領土を守るためにイギリスやフランスと同盟を結び、戦争へと発展した。
・戦争の影響:
ロシアの敗北により、国内改革が進み、農奴解放令などの政策が実施された。また、イギリスとフランスの国際的な影響力が強まり、オスマン帝国の衰退が加速した。
■局中法度
新選組の隊士に課された厳格な規律。文久3年(1863年)に制定されたとされる。
(史実では)以下の五箇条から成り、違反者には切腹が命じられることが多かった。
- 士道に背くことを禁ず
- 隊を脱することを許さず
- 勝手な金策を禁ず
- 訴訟の勝手な取り扱いを禁ず
- 私闘を禁ず
この法度は、新選組の結束を強めるために設けられたが、内部粛清の手段としても用いられた。特に「隊を脱することを許さず」の規定により、脱退を試みた隊士が処刑される例が多かった。
今作ではジンとミネルヴァによって上記とは違った隊規となっているが、「江戸時代」に合わせたものになっているため、問題のあるものは切腹を命じる事となっている。
【人物紹介】
■ 佐久間象山
・史実の生没年: 1811年~1864年
・主な功績:
幕末の思想家・兵学者として開国論を唱え、西洋技術の導入を推進。松代藩士として藩主の海防顧問を務め、蘭学や砲術を学びながら多くの門下生を育てた。勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬らに影響を与えた。京都で尊王攘夷派の浪士により暗殺される。
・その他エピソード:
幼少期から学問に秀で、江戸で佐藤一斎に学び、朱子学や兵学を修めた。西洋技術に関心を持ち、大砲や電信機の製作を試みた。性格は自信家で、時に傲慢と評されることもあったが、門下生には慕われた。
■ 吉田松陰
・史実の生没年: 1830年~1859年
・主な功績:
長州藩士として尊王攘夷思想を広め、松下村塾を開いて多くの志士を育成。伊藤博文や高杉晋作ら明治維新の立役者に思想的影響を与えた。幕府の政策に反対し、安政の大獄で捕らえられ、斬首刑に処される。
・その他エピソード:
幼少期から兵学を学び、9歳で藩校の兵学師範に就任。黒船来航時に海外渡航を試みるも失敗し、投獄される。獄中でも学問を続け、弟子たちに思想を伝えた。行動力と誠実さを重んじた人物だった。
今作では白熱電球で驚くペリー一行を見ているため、黒船に密航する事はなかった。
■ 橋本左内
・史実の生没年: 1834年~1859年
・主な功績:
福井藩士として藩政改革に尽力し、藩主・松平春嶽の側近として幕府の政治改革を推進。一橋慶喜の擁立を支援し、雄藩連合による国政改革を構想したが、安政の大獄で捕らえられ、斬首刑に処される。
・その他エピソード:
幼少期から学問に秀で、15歳で『啓発録』を著し、自らの生き方を定めた。適塾で蘭学を学び、西郷隆盛や藤田東湖らと交流。藩校・明道館の改革を進め、教育の充実を図った。処刑直前には「二十六年夢の如く過ぐ」と詠み、静かに最期を迎えた。
■ 赤松則良
・史実の生没年: 1841年~1920年
・主な功績:
幕末の幕臣として長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸で渡米。その後、幕府の留学生としてオランダへ派遣され、造船技術を学ぶ。帰国後は旧幕府海軍に所属し、明治政府に出仕して海軍中将となり、日本の近代造船の発展に貢献した。
・その他エピソード:
オランダ留学中に開陽丸の建造に関わり、帰国後は横須賀造船所長を務めた。貴族院議員としても活動し、晩年は静岡県磐田市で過ごした。




