海陵王と先代の奸臣
暴虐な帝王として知られる海陵王。彼がどのような人物だったのか、知られざる一面を『金史』より読み解いていこうと思います。
今回は『金史』巻百二十九 列伝六十七の蕭肄伝の訳です。
なお今回は残虐な描写が含まれるためR15とさせていただきます。
蕭肄はもとは奚人で、熙宗に気に入られ、また悼后にも諂って仕えたので、累進して参知政事となった。
皇統九年四月壬申夜、大風雨があり雷鳴により寝殿の鴟尾が壊れて火が起こり、内寝の幃幔を焼いた。熙宗は別殿に避難すると、「己を罪する詔」を出そうと考え、翰林学士の張鈞に草案を書かせた。張鈞は、天の戒めに答えて深く自分を卑下する内容にしようと考え作成した。その文には「惟徳弗類、上幹天威」、「顧茲寡昧眇予小子」などとあった。蕭肄はこう解釈した。
「弗類とは大無道、寡とは親も子もいないこと、昧とは人を見る目が無い事、眇とは無定見、小子とは乳児の事、この漢人は文字に託して主上を罵っています。」
熙宗は激怒し、衛士に命じて張鈞を殿舎から引きずり出させ、数百回打たせた。それでも死ななかったため、自ら剣で口を切り裂き塩漬けにした。蕭肄には通天犀帯を賜った。
蕭肄は益々気に入られて同僚を見下し、海陵王と険悪な仲となった。
海陵王が即位すると、蕭肄は大臣の官爵を加えられ、定例により銀青光禄大夫の地位も加えられた。数日後、海陵王は蕭肄を召すとこう問い詰めた。
「学士張鈞は何の罪で誅され、お前は何の功で恩賞を受けたのか。」
蕭肄が答えられないでいると、海陵王は言った。
「朕がお前を殺すのはたやすい事、しかしそれでは人々は私が私怨のため殺したと言うだろう。」
蕭肄を官人の籍から除名し、郷里に帰らせて、百里四方から出ることを禁じた。