「自己嫌悪とSNS依存症」
今回のタイトルは「自己嫌悪とSNS依存症」である。これに関して、「自己嫌悪」という言葉の意味を最初に確認しておこう。
あるインターネット上の辞書を参照すると「自己嫌悪」の言葉の意味は以下の通りである。
「自分に嫌気が差して、自分自身を疎んじること。」
というように書かれてた。これから書く内容に即している内容で、このタイトル設定には安心した。また、今まで執筆してきたエッセイのタイトルにも僕の「自己嫌悪」という部分が表れているだろう。
『「特別」を求めて』
『人生における「攻略サイト」』
『「価値」』
『「drug」』
『「比較」』
『「夢」』
『「カウントダウン」』
ぱっと見で「自己嫌悪」と分かるものもあれば、そうでないものもあるかもしれない。けれども、一連の作品を通して、自分の中にあった「嫌悪感」を曝け出してきたことに関しては、自分としては評価したい。
前置きはここまでにしておいて、今回の本題に入っていこうと思う。今までも書き続けてきた「自己嫌悪」と、ここに「SNS依存症」を付け加えて、それらの関連性を思うがままに書ければと思う。
「自己嫌悪」に関しては、SNSに依存する前から僕の心の中を支配していた。これは事実である。ただ、この支配は曖昧で靄のかかったようで心の全体に広まっていた。その程度であるから、日常生活では作った「笑顔」という「仮面」を綺麗に顔に張り付けることができていた。
ただ、年齢を重ねるにつれ、世間的にも広まっていくSNSの浸透とともに、僕自身もSNSの沼に入り込んでいった。いや、沼ではなかったのかもしれない。深海のように深く、底の見えず、自分のいる方向が分からなくなる場所。それが僕にとってのSNSである。
その深い、深い海の中には、それを知る前には見えなかった怪物たちが住んでいた。あまりにも小さな世界のことしか認識していなかった僕にとって、その場所で生きていくには事前準備が足りなかった。
現実世界での生活で、自分の才能では太刀打ちできないことが多方面にあることは既に知っていた。けれども、子供だったこともあり、そのときの目に映る分野のトップにいたのは、小さな世界におけるトップだと気づいていなかった。もしかしていたら気づいていたのかもしれない。ただ、実感は湧かなかった。
年齢を重ね、物事をより深く考え、客観視する能力が長けてきたことも影響したのだろう。しかし、それと同時に広まるSNS。子供ながらにその流行に乗り遅れないよう見始めた。普段、周りから進められる漫画やアニメは見ないというのに。何故だろう。それは今でも謎のままだ。
見始めたSNS。最初は子供だから娯楽の一環に過ぎなかった。多くの時間を、スマホゲームやその攻略サイトを見漁ること。また、買ってくれないであろうゲームの実況動画。何も自分自身を苦しめるものはなかった。この頃までは。ゲームでトップになろうとなんて思いもしなかったしね。
けれども、状況は変わっていく。年齢の上昇と共に、SNSを通して得たいものが変化した。比較的小さいころでいえば、サッカーが上手くなるための練習法。それを父親と見漁った。
それを実践した。けれども、やり方が悪いのか、才能がないのかうまくならない。ただ、そんな自分を世間は待ってくれない。上達、若しくは技術が身についた前提で、難しくより高度になる練習法。もちろん、最初のほうができない僕はついていけない。けれども、コメント欄には、ついていって、実際にうまくなったというコメントで溢れている。そうかと思えば、そんな練習は簡単すぎるからもっと上位の物を見せろという者まで現れる。その状況に、僕はついていけなかった。
現実的にも、自分が才能の無いことぐらい知っていた。けれども、SNSで知った多くの人がいる中でもどん底に近い位置にいるということに、耐えられなかった。こんな自分だけれど、いっちょ前にプライドだけは高いのだ。
SNSに書いてあることが全てではない。正しいか正しくないかの判断は困難である。比較するだけ無駄だ。そんな大人的な考え方を、そのときも今も胸に「タトゥー」のように刻んでおくことのできたならここまで、自分のことを自分で苦しめることはなかったのであろう。
SNSが当たり前の世の中になり、なんなら情報の源がSNSとなる不思議な世の中になって数年が経った。偏り過ぎたメディアのせいで、自分自身の指針を正すため、SNSで情報を得続けなければならない毎日。そこには、realもfakeも混ざっていることだろう。それでも、そこから情報をひたすらに得て、選択し、自分の中の情報の精度を高めていく。そんな毎日。
この行為は必要不可欠であると僕は思っている。だから、この「SNS依存症」から抜け出すことのできないのかもしれない。もしかしら、世間一般の依存症とは異なるかもしれないが。
そのSNSの中には、メディアの代わりとなるニュース紹介、解説以外にも、様々な有用コンテンツが多数存在する。それを視聴し、技術を得たり、知見を深めたりする時代。ただ、それを紹介する彼らは僕にとっては孤高の存在の人々だ。自分との位置に差が開きすぎている。また、それに付いて行き続ける視聴者も僕にとっては化け物だ。所詮、どこにでもいるような中途半端な男とは違うんだ。
「依存症」の人にそれを辞めろと忠告したところで、それを辞めることのできるような奴は一握りであろう。それを同じように、完璧に見える他者と比較して、自分を落とすような感情になるのを辞めろと僕に言ったところで、改善するのは困難だ。知らない内にルーティンのように続けてきたこの行為は、「タトゥー」よりも深く僕の心に突き刺さって、抜くこともできない。
「自己嫌悪」を辞めることは性格上不可能であろう。また、腐ったメディアのせいで何故か様々な意見が跋扈するSNSで情報を取捨選択し続けなけなればならないため、「SNS依存症」を治すことも不可能であろう。金を稼ぐのを諦めたり、娯楽をそこに求めないのであれば、脱出することができるのかもしれないだろうが。いっそのこと仙人のような生活でも目指してみようか。
そんな、実現しようもないくだらない妄想をしながらも、苦しみながら、今日を生きる。
「自己嫌悪」という常に自分を刺し続けるナイフと「SNS」という諸刃の剣。そんな2本を所持している僕はどう生きていくのが正解なのでしょう。それとも、正解を求めること自体間違っているのでしょうか。