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「比較」

 SNSの普及により、今まで以上多くの人が意見を発信することのできる世の中になっただろう。それとともに、自然に生きていれば限定されていた情報が、スマホという物質を介することにより、多様な情報を得ることが容易くなった。その変化による功罪には様々なものがあるだろう。

 テレビや新聞といったオールドメディアと呼ばれるものによって、「正しい」とされていた情報の答え合わせが多様な背景を持つ人間によって行われるようになった。しかし、彼らが答え合わせを行うことによって起きる事象の責任を持つこともほぼないだろうし、その答え合わせ後が正しいとも限らない。勿論、オールドメディアによる情報の提供によって引き起こされる事象について、彼らは責任を取ってこなかったと思うが。

 一見隠されていた、または統制されていた情報を、誰かが制御できるような時代は終わりを告げた。そうして、始まったのは多くの人々にとって処理することが困難な真偽不能の情報過多の時代である。

 そんな時代に生まれ、ひょんなことから文章を書き始めた僕だが、例にも漏れず、その情報の海に溺れて抜け出せなくなっている。

 自分自身が何者かと日常的に思っている自分にとって、情報の海の中にある自分を導いてくれそうなものは僕を虜にさせる。飛びつき、信じ、勝手に頼る。顔も知らない、見たこともない、誰かが発した情報に心躍らされ、揺さぶられ。

 そうして、自分の中には、本来あった自分発の価値観とどこの誰かからかも分からない価値観が混雑し、より深いところにあった、自分本来の価値の核にまで届きそうだ。

 何度も書くが、僕は平凡である。そして、影響の受けやすい人間でもある。さらに、人を何の根拠もなく、ただ感じた印象だけで判断し、信じてしまう人間である。

 そんな、3点セットが揃った僕が、有象無象の蔓延るSNS時代を平和に生きていくことは困難なのかもしれない。

 僕は、こうしてエッセイのようなものを書き、それを一応世に出すまで、自分から発信するということをしたことが無かった。

 だから、数多のSNSで受け手となるだけであった。ただ、そこにあるのはおびただしい量の情報。そして、人々にピックアップされるのは、突出した人々による意見や行動。そこに「普通」は無かった。

 いや、もしかしたらそれが「普通」であったのかもしれない。人間不信気味になっていた僕にとって、現実社会で知っている世界というのは、多くの人にとって、もの凄く狭い世界を見続けていたのかもしれない。

 それにより、急激に変化した自分の中の評価の物差し。それが及ぼすのは、「普通」だと思っていた自分と、SNSの中に蔓延る「普通」の意見、価値観との乖離。そして、案外、「普通」よりも少し優れているのではないだろうかと慢心している僕が届きそうだと思っていた「トップ層」、「上位層」との距離。

 その距離が正しく測られているのかは自分では分からない。所詮、現実世界の中では測ったことのなく、SNSという、自分の中では空想とも思える世界で測った距離であるのだから。

 自分は自分。他人は他人。そう思いこめば、どれほど楽だっただろうか。他人と自分を安易に「比較」しなければ、どれほど精神的に平和に暮らして生きていただろうか。

 そう嘆いたところで無情にも世界は変わらない。今の日本に競争が足りない。若者はもっと競い合え。なんて叫ぶお偉いさんもいる。何か活力が足りないのであろう。それは理解している。また、その言葉が自分だけに振りかけられたわけではないことも、頭の中では理解しているつもりだ。

 でも、できていない。ただでさえ、他者評価により振り回される現実社会で生きている僕達。十分競争しているのではないか。日常生活、勝手に「比較」してばっかりだぞ。そんなことしても何にもならないというのに。

 

 分かっている。自分の思っている努力が人にとって努力と受け取られないことぐらい。

 

 分かっている。自分が書いていることが、現実社会について行けていないことの言い訳ぐらい。

 

 だから、精神が擦り切れようと、「比較」することを辞められない、止められない。まるで、某お菓子のキャッチフレーズのように。

 すでに壊れてしまっているかもしれない精神が本来「比較」するべき対象と「比較」していないからかもしれないが、深い穴に落ちてゆくようだ。もう、小学校の頃のような、何が起きても好きなことが起きれば、すぐ笑顔になる、あの頃のようなメンタルには戻れないのだろう。純粋に感じ、それを表現する頃には。


 もう、「比較」は懲り懲りなのだろう。だから、競争したくないのだろう。戦う前から逃亡を図るのだろう。もしかしたら勝てるかもしれないのに。ただ、勝ったところで上には上がいる。それを現実社会で理解する前に、SNSを見てると自ずと理解してしまう。それが嘘か誠かは分からずとも。

 そして、自己嫌悪に陥る。どれだけこれを繰り返したことだろう。

 だから、何かに「依存」したいんだ。ただ、それがSNSをインターネットを介してでなければ得られない物なら、その何かに辿り着く前にまた、「比較」対象を見つけて自己嫌悪に陥るのだろう。だから、SNSを介するものに「依存」しようと考えるのは辞めた。

 ただ、これからの時代を生きる僕としてSNSから決別することはできないだろう。それはエンターテインメントの面もある。その他には、様々な角度から情報源を集め、「比較」することにより、その情報の正確さを測らなければならない時代だからだ。

 あれ?僕も、自分以外の対象を「比較」しているじゃないか。自然と。僕はもう戻れないのかもしれない。

 「比較」という自傷行為に「依存」しながらも、今日を生きる。

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