恋の始まり
夫が死んだ。
十年連れ添った相手が死んだのに、心は少しも揺れなかった。
お互い三十手前出会い、そのまま結婚。
そして私だけが四十歳を超えた。
近所の公園で、ベンチに座る。
ただ、ぼっとする。
周りからは、夫を亡くしたショックで少し呆けたとでも思われているだろうか。
子供もいない夫婦は、夫が消えれば当然私だけになる。
この半年の間、夫を恋しいと思ったことは無いが、寂しさはそれなりに感じた。
いつものように夫のスマホを覗き込む。
契約はとうに切れていて、連絡などには使えない。
ただ、夫の残した言葉だけが、無機質な記録として残っている。
『彼女が電車から降りた時、僕は世界の時間が止まってしまったのかと思いました』
夫はどうやら作家を気取っていたらしい。
その物語は、すこし世の中を単純に見ている男性が主人公。
善と悪だとか、努力なんて言葉が恥ずかしげもなく羅列している。
でも、わかりやすくて私は好きかも。
『ホームで君を見た僕は、どうしても君を見失いたくなくて、後を付けました』
それにしても、夫の文才は残念ながら大したものではなかったと思う。
リアリティがなく、かと言って幻想的でもない。
ただ、お人好しで夢見がちな主人公がバタバタしているだけ。
『彼女は振り返るなり僕を睨みつけ、変態と叫びました』
主人公が女をこっそりと追いかけて、彼女に見つかるシーン。
どこかで見たことがあるかも。
いかにもありそうな話だし、この単調な物語には必要な要素かもしれない。
『僕が彼女の美しさを必死に語ると、彼女は何故か泣き出してしまい……』
目の前がぼやける。
涙の膜が、視界を遮る。
私は、あの時と同じように嗚咽を耐えて、でも涙の粒は流れるままに任せた。
これは、私達の物語だ。
何一つ自信の持てない無個性な私を、一人の男がどれだけ美しいか語ったのだ。
きっと、見逃して欲しいから嘘をついたのだろうと思っていた。
それなのに泣いてしまった自分が恥ずかしくて、男の顔もろくに見ず走り帰った。
それから一年後、夫に出会った。
電車の中で痴漢に遭っていた時、偶然近くにいた夫が助けてくれたのだ。
夫は私に一目ぼれですと言った。
冗談だと思った。
おもしろい人だと思った。
それに少し、うれしかった。
夫のスマホには、驚いたことに十年分の日記が保存されていた。
毎日、日付と題まで入って。
最終日は、夫の命日、明け方。
題は、彼女が僕の幸せでした。
私は、十年かけて、ハッピーエンドが待つ夫の物語を読もうと思う。
私の恋が……いま始まった。