赤とんぼ
なんだか意識の奥から、歌声が聞こえる…あれは『赤とんぼ』だろうか。なんだか幼い声で――「……ん?」
ふいに意識が覚醒する。
どうやらうたた寝をしていたらしい。
「あー」
まだ眠気が残っていたのか、瞼をこすりながら上半身を起こす。
そして――
「あれ?カレンダーの日付が…9月?――あれ、年も違っている」カレンダーには2016年と記されており、今いる部屋の様子にも見覚えがない。
「ここはどこだ?私はなんでこんなところに……」
混乱した頭を抱えて記憶を呼び起こす。
(確か私は……)そうだ、私はいつものように家でくつろいでいたはずだ。
すると急に頭が痛みだし――そこから先の記憶が一切ない。
思い出そうとすると頭痛が増すような感覚を覚えながらもなんとか記憶を掘り返すと、やがて一つの答えに行き着いた。
「そうか……私は交通事故に遭ったんだな」
どうやら自分はあの時、車に轢かれて死んでしまったようだ。
だがそうなるとおかしいことがある。
「しかしそれなら私はどうしてここにいるんだ?」
この部屋は明らかに病院といった場所ではない。それに死んだはずの自分がこうして思考できていることがまず理解できない。「死後の世界……というわけでもなさそうだし」
もしここが死後の世界だとしたら目の前にあるパソコンはなんだという話になる。
「これは一体どういうことなんだ……?」
いくら考えても一向に答えが出ることはなく、ただ時間だけが過ぎていく。
やがて、考えることに疲れてしまった私は気分転換を兼ねて部屋の外に出ることにした。
ガチャリと扉を開けるとそこはどこかの建物の一室だった。
外に出ると思ったより薄暗く、壁は土壁のようなもので作られていることから恐らく地下であると思われた。
「とりあえず上へ上がってみるか」
建物の中を歩いていると、階段を見つけたので上へと登っていく。
階段を登り切るとそこには鉄格子のような扉があり、その先に通路が続いていた。
私は恐る恐る扉を開き、その先の光景を見て思わず息を飲む。
「こ、これは……!」
目の前に広がるのは広大な草原であった。草木はその背丈を高く伸ばし、太陽の光を浴びて輝いているように見える。さらに遠くの方には森も見え、まるで映画のワンシーンのようであった。
あたりには誰もいない。それはすなわち私だけしかいないということになる。
「なぜ私がこんな場所にいるのかはまだ分からないけど……」
ここで一人、生きていくことを決意した私は荷物をまとめ始める。幸いなことに服装は普段から家にいる時のものだったため着替えなどの準備は特に必要なかった。
一通り準備を終えた私は改めて周囲を観察してみた。
「やはり誰もいないか」
試しに何度か声を出してみたが反応はなく、しばらく歩き回ってみてもこの広い空間に生きている生物らしきものはいなかった。
「これからどうしようかな」
ふいに出た言葉だったのだが、それが私の現状を表すのにこれ以上無いほど最適な表現であった。私は今どこにいるかも分からず、誰とも会うことができないのだ。
不安に押しつぶされそうになる気持ちを抑え、どうにかこの状況を脱する方法を考える。
まず考えるべきなのはこの場所がどこかということだろう。もしも仮に地球上のどこかだとすれば人がいる可能性はあるかもしれない。だが仮に外国だとしても英語すら話せない私にとっては何の意味もない。
次にこの場所についてだが、この建物が地上にあったということは少なくとも空が見えるはずなのだが、辺りを見渡しても青い空などは一切見当たらなかった。
考えられるとすればここは地球ではない別の惑星ということだ。
「異世界転移……まさかそんなことがあり得るなんて」自分で言っておきながら信じられないような出来事であるが、実際にこうしてあり得ないような現象が起こってしまっている以上受け入れるしかない。
しかしそうなると気になることが出てくる。そもそもどうして異世界に来てしまったのか、だ。
「何か特別なことをした覚えはないんだけどなぁ」
普通に生活していただけだ。それもいつものように、服を着替えて、買い物でもしながら街を練り歩き…いや、あの日は確かいつもとは違う道を歩いていたな。そういえばその時……! そこまで考えたところでハッとする。あの日に限っていつもとは違った道を選んだ理由、それは……
「あそこでトラックに轢かれたのか」
そう思った瞬間、ふいにあの時の光景がフラッシュバックする。
(確かあのとき、何か見たことないような生物が浮いているのを見かけたんだ。…あれはセミ?いや、もっと大きい。でも、体は細かったはずだ)
思考を深めていくうちに、一つの特徴を思い出した。
「あれは…羽が生えていた。しかも真っ赤な赤色をしていた……」
私は、それを追いかけていたのだ。そしてそのまま轢かれて……
「あの時に死んだってわけか……ついてないな、私」あの時見たものは恐らく妖精か何かだと思う。それなら死んだ後にここに来たというのも一応説明がつく。
「だけどどうして私なんだ?他に同じ境遇になった人はいなかったのか?」
そう思い、周囲を見てみるが人影は全くと言っていいほど見当たらない。
「どうやら本当に私だけみたいだな……」
自分の置かれた状況を理解すると途端に絶望感に襲われてくる。
「このままじゃ死ぬな……なんとかしないと」
どうやらここでは食料を確保することすらままならないようだ。水については雨水などを利用すれば良いが、問題は食べ物だ。
「とりあえず食べられるものがないか探してみよう」
しかし探せど探せど食べられそうなものは何も見つからない。
「これはもう本格的にまずいな……」
そろそろ限界を感じ始めた頃、遠くの方から地響きのような音が聞こえてきた。
「なんだ!?」
咄嵯に身を隠し、様子を伺うと目の前に突如として巨大な生き物が現れた。
「あれは……もしかして!」
それは、あの轢かれる直前にみた赤い妖精のような何かだった。しかし、あの時の何十倍もの大きさで、全身には炎を纏っている。
「おいおい、嘘だろ」
あんなのが相手では勝ち目があるわけがない。仮に私が人間だとしてもだ。
その時、赤い妖精が、口を開いた。言語能力を持っているらしい。「聞く。お前はいま、どこにいると思う」
「異世界…ではないでしょうか」
「あながち間違ってはいない。ここは、お前のいた世界とは異なる場所だからな」
やっぱり、そういうことだったのか。この世界に私が飛ばされたのは偶然ではなく必然だったということだ。
「それで、私はどうなるんですか」
「殺す。邪魔だからな」
「待って。私を殺すことに何の意味があるの。私は、トラックに轢かれて、意味の分からない世界に飛ばされて…。ねぇ、こんなことをして、何が楽しいの」
「じゃあ聞くが、お前は俺をあの場所で、あの道で見かけたときに何をしたと思う?」
「えっ……」
突然、謎の生物が発した言葉に思わず動揺してしまう。
「答えは簡単だ。あの時、お前は笑っていたんだよ。それも、心の底からの笑顔だった。楽しそうに笑いながら俺のことを見ていた。その顔が、ずっと忘れられなかった。なぜそんなにも幸せそうに笑うことができるのか知りたかった。その感情がなんなのか、それが一体どういうものなのか、俺は知りたい。それだけが、俺の生きる理由だ。だから殺す。ただ、それだけだ」
「つまり、私が憎くて殺しているわけではない、ということですか」
「もちろんだ。…お前は俺の正体がわかるか。分かってたらすまないが、ただの赤とんぼだ。生まれてきたら、ただ生殖活動をするために生き、そして他の生物に喰い殺されるか、衰弱死するかのどちらかの道を選ぶ。そんなちっぽけな一生で、最期に見かけたのが、お前だ」「……私は」
「何も言わなくていい。ただ一つだけ教えてくれ。お前は何にそこまで満たされているんだ」
「私の、大切な人たちのことです」
「大切……とは」
「私のことをいつも大切に思ってくれる家族や友人、それにお世話になっている会社の方々や上司。みんなのおかげで今の私がいる。だからこそ、彼らに報いなければならない。その気持ちはきっとあなた、赤とんぼさんも同じだと思いますよ」
「そう、か」
そう言うと赤とんぼはこちらに向かって突進してきた。あまりの速さに反応が遅れる。
「ぐぅ……!!」
「『彼らに報いなければならない』…か。いや、俺はそう思っても、そうすることはできない。昆虫には、仲間なんてものはないのだ。家族の顔も知らないし、友達なんてものもいない。だって、生殖活動をするために生まれた短い命なのだから。報おうと思っても、その報う相手に出会えないのだ。お前は…いいよな。自分を生かしてくれる人たちを報うために生きる、そんな生き方ができる。だがな…お前はもう、死んでしまっているのだ」
「え…」
言葉すら出なかった。
赤とんぼは、一度後退した後、もう一度突進してきた。
「俺は…そんなお前を報おうと思ったのだ」
私はここで死ぬのか。赤とんぼは、今度こそ私を仕留めるため、全力で向かってきている。
「今お前が家族にできる最大の報いとは…安らかに死ぬことだ。笑え。あの時俺を見つけたときのように、笑ってくれ。いいか、お前はもう二度と目を覚まさない。死ぬ未来しかないんだ。お前が今笑って死ねば――俺がお前を笑った状態で殺せば、現実のお前も安らかに死ぬ。お前が安らかに死んでいるのを見て、家族は安心こそしないだろうが、よく頑張ったね、と温かい言葉をかけてくれるはずだ。お前が苦なくしてこの世を去ることが、今の家族の喜びだろう」
目の前には、もうすでに赤とんぼの顔があった。言葉を理解した私は、力を抜いた。そして、軽く微笑んだ。同時に、強い衝撃をうけた。そして、意識が遠のいていくのを感じながら、目をつむった。
「えー、今から、火葬に移らさせていただきます」
今日は、妹の葬式だった。こないだのトラックの事故で、しばらく意識不明の重体であり、命はとりとめていたのだが…ついに。
「待って、最後に顔だけみさせて。このままお別れなんて…つらいよ」
「かしこまりました。では、最後に一回だけ、どうぞ」
私は、係員の開いた棺の中を覗きこんだ。その顔は、搬送されてきたときよりも、顔が緩んでいるように見えた。最期に、死ぬ間際に、いい夢でも見たのであろうか。
「…もうそろそろ、お別れの時間でございます。棺を閉じさせていただいてもよろしいでしょうか」
「…待って」
私は、棺の中に一匹の昆虫の死骸が落ちているのを見つけた。
「昆虫が入ってる。これじゃ、葬式が台無し。最後ぐらい、綺麗に燃やしてあげよう」
「申し訳ございません!私が確認したときは大丈夫だったはずなのですが…私が責任をもって捨てさせていただきます」
係員は、慌ててその昆虫を捨てに隣の部屋へ入っていった。
「あの昆虫は…」
赤い体。黒い羽根。その元気に羽を伸ばしたまま意識を失っていた昆虫は、間違いなく、赤とんぼだった。