エピローグ
視力検査やコンタクトレンズの試着に使用した機材などを片づけながら慶は嘆息した。
りんにくっついて来店した倖を見て、『一目惚れのあの子 = りん』であることにやっと気づいたのかと思ったのだが。
いやはや、いつまでも何やってるんだこいつは、と、いらぬおせっかいまで焼いてしまった。
りんの素顔を確認したあとの挙動不審ぶりときたら、今思い出しても爆笑ものである。
もしこのまま2人がつきあうようなことになった暁には、りんに爆笑ネタとして話してきかせなければならない。
ただ、あとは。
飛び散った水滴をゆっくりとタオルで拭き取っていく。
慶は手を止めて、目を伏せた。
りんがバシャバシャと目を洗ったせいで、派手に水の飛び散った洗面台にタオルを置くと、苦々しげに笑う。
慶が〝おまじない〟をした眼鏡をつけると、りんと母は霊が視えなくなる、らしい。
そして今日。
りんにとって用をなさなくなったその眼鏡を、赤の他人の倖尊がつけると霊が視えた、らしい。
……一体、何の冗談だ。
気味が悪かった。
自身には、それをしているという感覚すらないというのに、この事態。
気味が悪い以外の感想が見当たらない。
慶の得意分野である、勘が鋭い、というものも気味が悪いものだと思っていたが、これはそれ以上だ。
白いボードの上に載せられた、黒い縁取りの眼鏡をチラリと見る。
たとえば。
これをりんに渡すとき、いつものように〝おまじない〟をして効果がなかったら?
そのときのりんの絶望を思うと、眩暈がするようだった。
それに、その問題はりんだけではない。
慶の母親も。
一年分のコンタクトレンズを纏め買いする母にも同じように一年分纏めて〝おまじない〟しているのだが、その度に、効果がなかったらどうしようか、と肝を冷やしていることを母さんもりんも知らない。
それに、そう。
今は実家ぐらしで母もりんも近くにいるからいいのだ。
でも、俺が転勤になったら?
遠くの街に転職したら?
結婚したら?
先に死んでしまったら?
母さんとりんは、どうなるのだろうか。
慶の脳裏に、小学生のりんがこたつに引きずり込まれたときの衝撃的な光景がよぎる。
母さんはうっすらと視えるだけらしいから、大丈夫なはずだ。
だけど、りんは。
……本当に、気休め程度のつもりだったのだ。
その前日にこたつに引き込まれて痣を作ったりんに〝痛いの痛いの飛んでいけ〟を、してやったから。
その真似をしただけだったのに。
何の実感もなく行ったことで、自分は母とりん、そしてりんの両親にひどく感謝されている。
あまりの実感のなさに、みんなして自分を騙しているのではないかと疑ったこともあるが、叔父夫婦と母ならいざ知らず、幼いりんまでもがそれに荷担しているとは到底思えなかった。
ならば、真実、自分がしたことなのだろう。
……せめて自分にもそれが視えていたなら、こんなに不安にならずにすんだのかもしれないのに。
自分にも、視えたなら。
ん?
……そうだ。
倖が言っていたその眼鏡をかけたら、もしかして自分にも視えたりしないか?
唐突に思いついたその案に、慶は目の前にある鏡にパッと向き直った。
しまった。
どうして気づかなかったのか。
次、りんが来店するのは2週間後の眼鏡の受け渡しのときだ。
その時に、試しに貸してもらおうか。
それで視えたなら、この実感もない現象をそこまで気味悪く思わなくともよくなるかもしれない。
そうだ、そうしよう。
肩の力が抜けるような感覚がした。
慶は再度、鏡の中の自分を凝視する。
そこには答えの出ない問いを延々と自問自答しつづけてきた、憂鬱そうな暗い顔の男がうつっている。
閉店までまだあと2時間近くある。
テンションを下げたまま、接客などできない。
気持ちを切り替えなければいけない。
そうしてニコリとわざとらしく仕事用の笑顔を貼りつけながら、無理やりに先ほどの2人のやりとりを思い出す。
一目惚れした女の子がりんであると気づいた倖尊と、全くいつも通りのりん。
2人の、送っていく、いや大丈夫です、という夫婦漫才のような押し問答。
りんから顔を逸らして、赤くなった顔を必死で隠そうとする倖。
そんな倖を、不審者を見るような目で見上げるりん。
それらを思い返すだけで、貼りつけたような笑顔は、自然と堅さがとれて柔らかいものへとなってゆく。
慶は大きくゆっくりと息を吐き出した。
そうして、りんの素顔に気づいたときの倖の表情をまた思い出すと、くっくっくっ、と軽く肩を揺らしながら、手早く片づけを再開する。
次の客へと備えるために。
全く。明日からの学校での2人のやりとりが見れないのが、残念で仕方なかった。




