15
倖とりんが慶に見送られて外に出ると、日は既にとっぷりと暮れていた。
通りには点々と明かりの灯った店が連なっている。
手前にあるラーメン屋からは、豚骨スープのいい匂いが辺りに漂っていた。
「意外と時間かかっちゃいましたね。すみません、倖くん。」
「ん。」
「……怒ってるんですか?」
「何で。」
りんが戸惑ったように倖を覗き込んでくる。
「だってお店にいるときから、ん、しか言わないし。」
「怒ってない。」
「怒ってますよ。だって顔がおかしいですもん。」
「……おまえ、喧嘩売ってんのか。元からこんなんだ。」
りんを見下ろしながら倖がぼそりと言った。
いつも通りのりんだ。
あの子とは、似ても似つかない。
あまりにもいつも通りすぎて、さっきのは目の錯覚か何かだったのではないかとさえ思えてくる。
『顎のラインでそろえられた短めの髪。
その向こうに見える、頬の丸み。』
髪の長さは、もうあの頃とは違う。
でも、確かに。
耳からなだらかに曲線を描く首筋や、ほつれた前髪が僅かにかかる、その頬は。
何で、気づかなかったんだ。
それは、そう。
眼鏡のせいで劇的に印象が違ったからなのだが、それにしても、本当に。
一目惚れしたと大騒ぎするくらいなのだから。
気づいても、よかったはずじゃないか。
視界の大半を占めていたりんが、思い切り眉間に皺をよせる。
眼鏡をかけている限り客観的に見てどうしようもなく可愛くない。
けれど、見慣れたからだろうか。
それか、一目惚れした子だと認識してしまったからだろうか。
それとも、馬鹿な子ほど可愛い理論だろうか。
口を尖らせて伺いみてくる仕草が、死ぬほど可愛くみえた。
倖は衝動的に、りんに顔を近づける。
相手の隙をついてキスをするのは得意だった。
やってしまえ、と胸のうちから声がした。
りんの瞳が、眼鏡の奥で少しだけ大きく見開かれる。
眼鏡、あたる。
早鐘のような鼓動の中、どこか冷静にそう思い角度を変えた、時。
りんの荒れに荒れて血が滲む唇が目に入った。
「……おい。」
「ひ、ひゃい!」
縦に裂けぷっくりとした赤い珠ができている唇に親指を当て、横に滑らせる。
かさついて捲れた白い皮が指の腹にあたり、血で染まった。
「ったいっ!」
りんが一歩飛び退き自身の口に指を当てて、血が出ているのを確認するとより彼女の眉間の皺が深くなった。
「あぁ、もう。血、出ちゃったじゃないですか。」
「あほか、最初から出血してたっつの。てか、おまえ、リップは?」
さすがに荒れすぎだろ、と倖も顔をしかめた。
まぁ、でも。
血で染まる唇ってのも、なかなか。
これはこれで、そそるかも。
倖が思わずゴクリと喉をならす。
「俺があげたリップはどうした。使ってないのか?」
りんはうろうろと視線を彷徨わすと、おうちにあります、と呟いた。
倖が半眼になり、なんで、と問う。
「初めて、と、友達から貰ったものなので、開けるのが何か、勿体なくて。」
飾ってたら持ってくるの忘れてしまいました、と照れて笑うりんに、友達、ね、と倖が視線を逸らした。
そうしてポケットから使いかけのリップを取り出すと、やるから使え、とりんの手を取り押しつけた。
りんはギョッとして慌ててそれを倖に突き返す。
「そういう意味じゃありません!ちゃんとお家にあるの開けますから、それは倖くんが使って下さい。」
「んじゃあ、とりあえず、今使え。」
「結構です。」
「つ、か、え!」
「だ、大丈夫です!」
「あぁもう、うるさい。よし俺がつけちゃる。」
と、倖がリップを構えると、りんは2、3歩先まで走って逃げる。
「……おい。」
これだけ嫌がられると地味に傷つく。
「ち、血が、ついちゃうから、」
だから大丈夫です、と困ったように小さく言った。
「……血、ついてもいいから、つけろ。」
そう言うなり倖はりんにリップを放った。
キャッチし損ねて転がるそれを、りんはラーメン屋の看板の前でやっと捕まえる。
しゃがんだまま手にしたリップを見つめるりんに再度倖が、つけろ、と凄んだ。
わかりました、と観念したように立ち上がるとペロリとりんが唇を、舐めた。
おさげの眼鏡の女子高生が制服で。
伏し目がちに唇を舐める。
指で何度も出血を確認しながら。
ラーメン屋の赤い提灯に照らされた、その朱色の舌が、とても綺麗だった。
血を舐めとっているのはわかるが、そういう仕草が男にとって扇情的にうつることもあると、りんは知っているだろうか。
知らないだろうな。
きっと、それを見ている倖がどんな気持ちでそれを眺めているかなんて、思いもしないはずだ。
できれば至近距離で眺めたい、と倖は心中で呟いた。
りんは更にハンカチで念入りに血を拭き取ると躊躇うことなく、キュッとリップを唇にのせた。
そのハンカチでリップの頭をキュッキュッと拭き上げると蓋を閉め倖に差し出してくる。
「毎度毎度すみません、倖くん。ありがとうございました。」
そのリップを受け取りながら、躊躇いもなく塗りやがって、と倖はじっとりとりんを睨みつける。
普通こういう場合、やぁだ間接キスになっちゃうじゃん、とか。
頬を赤らめ照れながら、躊躇いつつもゆっくりとリップを使う、とか。
女子の一般的な反応といったら、こうじゃないのか。
前回といい今回といい。
全く男として意識されていないんじゃないか、俺。
「な、なんですか?本当におかしいですよ?」
「……なんでもねぇよ。」
ブスッと不機嫌そうな顔を隠しもせずに言うと、りんはまたもや困惑したように眉間に皺をよせた。
リップをリュックに仕舞う倖のそばを、早めの夕飯を終えた若いカップルがラーメン屋から出てきた。
扉の隙間から、豚骨のおいしそうな匂いが通りに強く漂う。
「……腹、減ったな。」
小さく倖が言うと、そうですね、とりんも応じる。
そうしてハッとしたようにりんが倖ににじり寄ってきた。
「ゆ、倖くん!お礼!お礼させてください!スイーツとかリップとか友達になってくれたこととか、沢山!沢山あるんです!よければ奢らせてください!」
「お、おう。いいけど。……おまえ、家大丈夫なのか?」
「連絡すれば大丈夫だと思います!」
そそくさとスマホに指を滑らせながら、りんが客の邪魔にならないように脇によける。
その時だった。
りんのスカートがラーメン屋の看板に、ふわりと当たった。
カツンッ!と堅い物がぶつかる音が、辺りに響く。
「ポケットに何か入ってんのか?」
倖がりんに問うと、何も入ってませんよ?と訝しげにりんが答えた。
んなわけないだろ、と言いかけたが、りんがスマホで話し始めたので慌てて口を噤んだ。
外食してくる旨を電話先に伝えるりんの後頭部をぼんやりと見ながら、外で一緒に飯食うの初めてだな、と素直に喜んだ。
さっき、キスしないでよかった。
未遂で終わって、本当によかった。
倖は心底ほっとして、胸をなで下ろした。
落ち着いて考えてみると、りんの性格からして彼氏でもないヤツとキスなんぞしてしまった後、普通にお友達できるわけがない。
いつものお遊びじゃない。
手順をしっかりと踏まなければならない。
それでも、おそらく一緒に行動する限り先ほどのような衝動はきっと日常的にあるだろう。
自戒しなければ。
ふぅ、と自身を落ち着かせるように細く、息を吐く。
ふと見ると、右手の親指に微かに赤いものがこびりついていた。
さっき拭った、りんの血だ。
何となく指の腹をこすり合わせてみるが、血は乾いてしまって落ちなかった。
りんがスマホから顔を離すと、嬉しそうに倖を振り返る。
お許しが出たのか、と倖も笑いかけながら、さり気なく親指を口に運んだ。
微かに感じる鉄の味をチロリと舌先で舐め取りながら、促されてラーメン屋ののれんをくぐる。
張り切って店内の空いてる席を探すりんに苦笑する。
しかし、これでは柴田に変態だの何だの文句言えないな、と倖は思った。
俺も大概、変態気質だ。
きっと、ラーメンを食べたらリップは落ちてしまうだろう。
そうしたらまた、貸してやらないと、な。




