10
それから2日後の朝、始業30分前の教室で、倖は自分の席で堂々と二度寝をしていた。
電車の時間の都合上、なかなか家の布団で二度寝するわけにはいかないので、学校で二度寝をするのが倖の日課となっている。
倖が教室に入った時りんはすでに着席していて倖に気づくと会釈をしてきた。それに、よっ、と返して寝に入ったのだ。
人がいない教室は寒いが、太陽が一段高い位置に登り、登校してくる生徒が増えてくるつれ空気が徐々に暖められてくる。熱の籠もった空気は苦手ではあるが朝の冷涼とした空気からふんわりと暖かな空気に変わっていくこの過程を、倖は割と気に入っていた。
しばらく機嫌よく微睡んでいると、何かが頭にあたる気配がした。感触があったあたりを机に伏せたままもぞもぞと探り、顔を少しばかりずらして確認すると、ゴミがついている。
なんだ?と思いつつ、後で捨てるか、とポケットに入れた。
その直後。
「いってっ!」
ゴン、とばかりに頭に衝撃があった。
何かあたった、絶対あたった。
頭をなでながらしかめ面で首をもたげると、前方左手の林田りんが視線だけ必死にこちらへと向けていた。
よく見ると机の下あたりで何やら手をパタパタと動かしている。口元はパクパクとして鯉か、ん?
……れた?……で、た。
でた。
出た!
もしかしてワンピースの奴か!
ジェスチャーで胸元で手を垂らしてお化けのポーズをしてみせると、青い顔をして微かにコクコクと頷く。
ということは、あいつのそばに出てるんだよな。
よし、行ってみるか。
倖はガタリと席を立つとずかずかとりんの右手を歩き、いつも通り前の席に陣取った。
「ひっ!」
「なんだ、ひって。」
青ざめた顔で口元を両手で覆っているりんにしかめっ面をしてみせる。
「い、いま、いま、ぶつかりましたよ?ね?大丈夫ですか?」
「……いま?え、そこにいたのか?」
「まだ、……いますよ!」
小声で怒鳴るりんに首を傾げる。
「大丈夫も何も、……大丈夫だよ、ぶつかったかどうかもわっかんねぇもん。」
「そ、そうですか。なら、よかったです。」
ふぅと、額を拭うりんに右手を差し出し、んっ、と催促する。
「なんですか?」
「眼鏡。」
「……本当に視るんですか?」
「そのために呼んだんだろ。」
「もう、知りませんよ、ほんとにぃ……」
「何でおまえが泣きそうなんだ。」
「だって、眼鏡、……リュックに入ってるんですよ。」
だから何だという目で見れば、りんは体を限界まで左に寄せて右手だけをそーっとのばし机の右にかかっているリュックのファスナーをジジジッと開けた。
「そっちに、いんのか。」
「……こっちにいるんですよ、見てください、この鳥肌、とりはだ、とり、」
斜めになってごそごそとリュックを探るりんがブツブツと呟く。そうしてグレーの眼鏡ケースを取り出すと、ほぉ、と一息つき腕まくりをして倖に見せた。
「まぁ、確かに鳥肌すごいけど。……おまえ、運動場の奴のそばにいるときには全然平気そうだったのに。」
りんから眼鏡ケースを受け取り、パカリと開ける。中には黒縁の何の変哲もない眼鏡が入っていた。
「あれは、あんまり怖くなくて。でも、こっちのは、ちょっと無理です。」
と、眼鏡の隙間を埋めるように両手で囲いはじめた。
「つっても、ワンピースが視えるだけなんだろ?何がそんなに怖いんだよ。」
と、眼鏡を目元に近づける。
「いいか?視るぞっと。」
ゆっくりとりんの眼鏡を装着する。
度数の高さにクラクラしながら、思い切り眉間に皺を寄せて耐えた。
最初に視えたのは、白いワンピースだった。
全身に赤いシミが広がっているが、元は白いワンピースで間違いないだろう。
そう断じれるだけの理由が、倖にはあった。
シミは広がる。
今もなお。
ゆらゆらと揺れるのは、白いワンピースの裾だけではなかった。前面に垂れる、黒く長い髪の毛も。
そして首。
だらんと、それが胸の全面に斜めになって垂れて、後頭部が見えている。
それが左右に揺れていた。
うなだれているのではない。
何によってなのか、首の右半分近くが深く抉れている。
繋がっている左半分を起点にぶらぶらとそれは揺れていた。
揺れる首を追いかけて髪もフワリと浮き上がる。
そうして、その抉れた断面から夥しい量の血が吹きだしていた。
眼鏡をかける前には感じなかった、血の臭いがした。
床に落ちる血が、ぴちゃぴちゃと音をたてている。
しゅぅ、という血が吹き出す小さな音までが聞こえる気がした。
床には大きな血だまりができ、刻一刻とその大きさを増してゆく。
周囲に飛沫が飛ぶ。
倖がかけている眼鏡にも細かく飛んで、視界が赤の点で埋め尽くされていく。
見ると、りんは真上からそれを浴びていた。
それはそうだ、真横に立たれているのだから。
目の前で眼鏡の端を手で覆い、りんはアホ面さげて心配そうに首を傾げている。
そのりんの髪が、血を吸って色を変える。
粘度のある雫になって、重そうに机の上にぱたたっと落ちる。
前髪からそのまま流れて額を伝い、りんの顔に幾筋もの赤が走っていた。
なんだ、これ。
口元を手で覆い、ない唾液をゴクンと飲み込んだ。
……そういえば、これはどうして、りんの真横から動かないのか。
どうして。
そうしてふと気づいた。
真横ではない。
りんの席の少し前の右手に立ち、女は立ち尽くしている。
倖からは、後頭部とそこから垂れる髪しか見えないが。
その頭部の角度。
りんを、見ている。
それに気づいた瞬間に、倖は耐えきれず勢いよく眼鏡を外した。
ひどい動悸がした。
今はもう何も視たくなくて、顔の前で指を組んでギュッと強く目を瞑った。
「ゆ、倖くん、大丈夫ですか?」
りんの驚いた声がする。
「……ん、大丈夫。」
「……全っ然、大丈夫そうに見えないんですが。」
「あ、のさ、……お前いっっつもこんなん視てんのか?」
「視てませんよ?」
昔は慶くんの眼鏡なかったから視えてましたけど、そう即答するりんに組んだ指の間から倖が眉間に皺を寄せてりんを見た。
「白いワンピースが視えて怖いっつってたろ。」
「……何を視たのか知りませんけど、わたし眼鏡かけてるので、ホントに端っこにチラッとワンピースが視えるだけなんですよ。」
「全身、視たことないのか?」
「ありませんよ。」
なんだそれ、とガクリと腕を残したまま倖は机の上に沈み込んだ。
「……だぁから、言ったじゃないですか。視ちゃったら怖いんですって。」
視ちゃったら怖い、って。
「んなこと言ったって、視えなくても怖いだろ。」
「視えなかったら何にもわかんないので、存在してない、でいいと思うんです。」
「……おまえ、体調とか悪くないの。」
りんはキョトンとして倖を見返す。
「体調、ですか?……いえ、特には。」
教室には生徒が次々と登校してきている。その中の1人がりんの席の右横を笑いながら歩いて行った。
それを微妙な表情で追いかけると、倖はりんに視線を戻した。
「じゃあ、席、移動させてもらったらどうだ?」
「……何でですか。嫌なこと言わないでくださいよ。……何視たんですか。」
「よく聞いたな、おまえのよ」
「ストーッッップ!!」
りんは渋面で言うと両手で倖の口を押さえた。
「ストップです!聞きたくありませんっ!!」
小声で怒鳴りながら言うりんに、ほはぇんがいぃていたんだぉ?とフガフガと返した倖はりんの両手を口から引っ剥がして再度口にする。
「お前が聞いてきたんだろ?」
「そ、そうですけどっ!さっきも言いましたが、視えなかったら、何も起こってないで済むんです。」
「……そうなのか?」
「そうです。たぶん。」
「精神的に参るぞ。」
「それこそ、慣れてます。」
断言して話しを聞いてくれないりんに、まじか、と倖はげんなりとする。
これを俺1人の胸の内に納めておけってか。
そうしてやおら、りんが右手を差し出してきた。
「それ、返してください。」
それ。
りんの視線の先には、倖が握りしめている眼鏡がある。
「いやだ。」
「返して、ください。」
「いーやーだ。」
と、りんの手が届かないよう大きく手を上に上げて防御する。
「結局、この眼鏡ってなんなんだ。」
半眼になりながら、わかりませんてば、とりんが言ったとき。
「もーらいっ!」
元気な声とともに倖が持っていた眼鏡をスパッと取りあげてゆく人物がいた。
「隙ありぃ。」
先ほどまで倖が持っていた眼鏡を高々と掲げるショートボブの女子がりんに向けてニヤリと笑う。
迫田か。
「だぁめだよ?倖くん。りんちゃん苛めちゃぁ。」
と腰に手を当てて、めっ、とウィンクしてきた。
手をあげた態勢で固まっていた倖は、ゆっくりと手をおろすと半眼になって彼女を睨んだ。
「おい。何すんだ。」
「りんちゃん助けてあげただけー。」
とひらひらと手を振るとりんの後ろの席へと向かい、倖から隠れるようにそそくさと着席した。
「迫田さん、あの、ありがとうございました。」
「いいえぇ、でもま、仲良さそうで良かったよ。これでも心配してたんだかんね?」
眼鏡を手渡しながら、迫田がにこやかにりんに囁いている。
それをりんが、あはは、と笑って誤魔化していると、担任が教室へと入ってきた。
「倖くん、ホームルーム始まっちゃいますよ。」
倖は舌打ちをして、どっこいしょと立ち上がるとりんから見て右手を通りかけて止まった。先ほどのワンピースの女を思い出して躊躇したのだ。
まだそこにいるとは限らないが、あれを視た後だと通りづらい。
非常に通りづらい。
結局りんの左手を通った倖を、りんが呆れたように見ていた。自分の席へと戻り椅子に座ると、机の下にハンカチの固まりが落ちているのを見つけた。怪訝に思い拾って広げてみると、中から大きめの消しゴムが転がり落ちてくる。
さっき頭あたったのってこれか。
こんなもん投げやがって。
倖はそれを丁寧に包み直し、りんの頭めがけて投げつけた。コントロールは良い方なので、しっかりとりんの後頭部に命中する。ハンカチのボールは迫田の席の横をコロコロと転がって止まった。
それを見た迫田が口に手を当て妙に嬉しそうに振り返ってくる。
りんは頭を撫でながら恨みがましく睨んできた。
そんな2人の視線を、倖ははっきりきっぱりと無視して頬杖をついたのだった。




