6
学校の屋上は、抜けるような青空が目に眩しく、痛いくらいだった。
倖の自宅からパンダを引き取った数日後。
りんは倖から、放課後屋上に来い、という果たし状のような内容の誘いを受け、そこへ続く階段を上っていた。
屋上に続く階段は少し薄暗い。気味が悪いというだけでなく、いろんな意味でびくつきながらりんは無意識に眼鏡を押さえた。そうして恐る恐る登りきるとシルバーの大きめの両開きのドアがでんと構えている。
普通の学校だと屋上へは出入り禁止であることが多い気がするが、この学校は特にそういったものはないのだろうか。付近に注意書きらしきものは見当たらない。
取っ手をひねり扉を軽く押すと、ぐっと向こう側から押される感触があり、扉はびくともしなかった。
もう一度、すこし強く押すと、中央に隙間が少し開くので鍵はされていないとわかる。
気圧かな、と肩を押し当て更に力を込める。
ごぉっという音とともに風が吹き込みスカートと髪がバタバタと騒ぐ。扉は大きく外へと開いた。
快晴だった。
風も吹いているが今日はさほど寒くもない。
扉を開けたときのような暴風は外に出てしまえば全くなく、薄めの青い空が頭上いっぱいに広がっている。教室の窓や運動場から見る空とは違う開放感に、りんは大きく深呼吸した。
屋上は、とても気持ちがよかった。
そのまま中央付近まで歩み出て、りんは呼び出した張本人の倖を探した。屋上は広いが、さして視界を遮る物があるわけでもない。しかし周囲に倖が見あたらなかったので、仕方なく今しがた出てきた塔屋をぐるりとする。それでもやはりいない。
彼はHRが終わるとすぐに教室を出て行ったので、てっきり先に来て待っているものだと思っていたのだが。
りんは端をぐるりと囲むフェンスに近づき、金網越しに運動場を見下ろした。
スマホを確認すると16時00分をまわっている。時間的に見れば、今日もこの運動場のどこかであれが這いつくばっている頃合いだ。
まぁ、眼鏡を外してどこにいるか視てみようなどとは決して思わないが。
することもないので、見るともなしに右往左往するサッカー部員を眺めていると、そのコート内を正門の方から真っ直ぐに突っ切って走る、見慣れた金髪の男子生徒をりんは見つけた。
倖だ。
急いで教室を出ていったのは校外に出るためだったのだろうか。
部員が縦横無尽に走り回るその空間を倖は何の問題もなく突っ切って抜けると、あっという間に校舎内へと消えていった。
しばらくして塔屋のドアがガチャリと開いて、息を切らせた倖が現れた。
「わり、待たせたか?」
「大丈夫です。そんなに待ってませんよ。外に行ってたんですか?」
「ん、ほれ。」
そうして倖が差し出してきたのはコンビニの袋だった。中を覗くと多種多様のコンビニスイーツが入っている。
脈絡のないスイーツ祭りに驚いていると、倖がりんの頭をポンと一つ叩き、詫び、とフェンスに寄りかかるようにどっかりと座り込んだ。
「詫び、って、」
りんが戸惑いながらも倖の傍に座ると、一週間無視した詫び、とそっぽを向いてぼそりと言う。
「……そ、それを言ったら私こそ何かお詫びの品を渡さなきゃいけなかったのに、」
「いーから、コーヒーとお茶とどっちがいい。」
「……お茶で。」
ん、と差し出してくる倖に、ありがとうございます、と礼をしてりんはそれを受け取った。
何というか、マメというか、律儀というか。
一緒にいればいるほど、その端々から倖の誠実さを感じずにはいられない。友達づきあいとはこうあるべきなんだな、と1人納得し、脳内にメモを取る。
「たくさんありますね。……倖くんのお友達も来るんですか?」
「柴田か?あいつは最近彼女とデートで忙しいらしい。」
「彼女さんと。いいなぁ。柴田くんて爽やかな感じの方でしたよね?」
倖はりんのその感想に袋から顔をあげ、げんなりとしてみせる。
「爽やかって。おまえ、あいつは筋金入りの変態だぞ。」
「へ、へんたい?」
「ん。近づくなよ。」
りんに釘をさすと、俺はこれ、とティラミスを手元に引き寄せて開け始めた。
変態ってどの程度の、とりんは暫くぐるぐると考えていたが、新商品と書かれたクリームたっぷりプリンを見つけると、食べたかったやつだ、といそいそとスプーンを手にとった。
うまっ、と向かいで舌鼓をうつ倖にならってプリンをパクリと口に入れた。クリームがとろけ、ついでにプリンまで蕩ける。
ぬぅ、惜しい。プリンはもうちょいしっかりしてても良かったのに、と思いながら二口目を口に運んだ。
「なんだ?まずかったのか?」
りんの微妙な表情を読み取り、倖が怪訝そうに聞いてきた。
「まさか!おいしいですよ。ただ、もうちょっとプリン固めでもよかったかなぁて、」
りんが言い終わらないうちに、どら、と倖が手を伸ばして一掬い持って行った。
「んー、これはこれで、俺は好きかな。」
プリンを堪能したあと、ティラミスを差し出してくるので、一口頂く。
「……これ、めちゃくちゃおいしいですね。」
「だろ?もうやらねーぞ。」
倖が意地悪く言うが、りんの顔を見て眉をしかめた。
「なんでそんなニヤニヤしてんだ?」
「だって、倖くん。色々買って半分こずつなんて、友達みたいじゃないですか。」
こういうの、してみたかったんですよね、とりんはニンマリと嬉しそうに笑った。
「……よかったな。」
はい!とりんが元気よく返事をして顔をあげると、なぜか倖は運動場の方を必死に見ている。何かあるのだろうかと釣られて見ても、相変わらずサッカー部が走り回っているだけで特段目新しい物もない。
倖に視線を戻すと、微かに耳も赤くなっている。もう大分寒いが蚊にでも刺されたのだろうか、と首を傾げた。
「倖くん?」
「あー、えーと、そうだ、そういえばお前、毎日毎日運動場で何拾ってたんだ?」
倖は慌てたようにスプーンでりんを指して、わざとらしく別の話題を振ってきた。
「拾う?」
「拾ってただろ?で、何かあっちの花壇のブロック塀に置いてた。」
りんを指していたスプーンで今度は左手奥の花壇を倖は指し示す。
りんは驚いて、思わず持っていたスプーンを取り落とした。
「え?見てたんですか?どこから?」
「こっから。」
「……。」
りんは倖にならって運動場を見下ろした。
3階建ての校舎からはサッカー部員が所狭しと走り回っている。走り回っているのは見えるが、ここから個人を特定するには少々遠い気がする。
「それ、本当に私でした?」
「おまえだって。三つ編みとスカートが見えた。」
三つ編みはともかく、スカート?とりんは呟く。
「だっておまえスカート膝丈じゃん。」
言われて視線を膝に落とす。確かに膝丈だが屋上から見てスカートの丈なんて分かるもんだろうか。
いや、しかし。
「……ご、ごみ拾い、です。」
りんは不自然極まりない答えを倖に差し出しながらスプーンを拾う。倖が新しいスプーンを渡してくれたので有りがたく受け取った。落ちてしまったスプーンをコンビニの袋に入れたいところだが、それにはスイーツがまだたくさん入っている。りんは自分のリュックからゴミ袋用の小さなビニール袋を取り出すとゴミとなってしまったスプーンを入れた。
すると倖は鬼の首でも取ったかのような顔で、輪の鼻先へとスプーンをつきつけた。
「ほらな。」
「なにがですか。」
「ごみ拾ったら、お前、持ち歩いてるビニール袋に入れるだろ。」
「……。」
「拾ったごみ、おまえが花壇のブロック塀に置くとかありえんと思うんだが。」
何隠してんだ、と倖が目を細める。
「な、何も隠してませんよ!」
動揺するりんに倖は前傾姿勢でにじりよってくる。
「ごみはもちろん、ビニール袋に入れました、よ?ここからじゃぁ遠くて見えなかったかもしれませんけど……花壇は、はな、花が、キレイだなーて、」
「……ほう。」
コーヒーを、くびっと飲みながらも倖は視線を外してくれない。堪えきれず、りんの方がぷいっとそっぽを向いた。
「……じゃ、ま、いいや。」
倖はそう言うと2個目のデザートへと手をのばす。
それを見て、意外とすんなり諦めてくれたことに胸をなで下ろした。しつこく問いただされたら、何と言って誤魔化せばよいのかわからない。
まさか、幽霊の臓器を拾っていました、などと言うわけにもいかない。
しばらくモグモグとコンビニスイーツを消化するだけの時間がすぎていった。
「そういや、眼鏡変えたんだな?」
「はい。……あの、気づいてたんですか?」
「気づくだろう普通。」
そういえば、眼鏡のことなど今の今まで忘れていた。ドキンと跳ね上がる鼓動に胸を押さえながら、似合いませんかね?とりんは小さな声で聞いた。
すると倖はギュッと眉根を寄せてりんを睨んでくる。
「俺、似合わないなんて言ったか?」
「言ってませんけど。何か自分で見てもあんまりピンとこなくて。似合わないかなぁと、」
「大丈夫。似合ってる。」
睨みつけたまま倖が誉めてくれた。
「よかった、です。」
先ほどのゴミ拾いの下りのやり取りで妙に緊張していたりんは、ほっとして2個目の白玉団子のパッケージを開け、一つ口に入れた。
「なんで変えたわけ?目ぇ悪くなったのか?」
「いえ、えーと、……そんな感じ、です。」
「ふーん、ま、前のも似合ってたけどな。」
倖がパクリとクレープにかぶりついてそう言ったので、りんは赤くなって俯いた。
漠然と思っていたことだが、たまに、たまぁに、ではあるが、倖はごくごく自然にりんを誉めてくることがある。
おかしい。
眼鏡かけてて可愛くないから倖の好きな女性ではないと断じられたり、眼鏡とったらちょっとはマシじゃないのかと揶揄されたり。
倖は結構はっきりと思ったことを口にするタイプだ。だから、こういう矛盾する意見を堂々と口にできるタイプではないと思っていたのに。
本人に誉めたおしている意識はないと思うが、慣れていない身としてはボディブロー並みの破壊力がある。
いや、でも。
〝似合っている〟とは言われたものの〝かわいい〟とは言われてないので、もしかしたら倖の中では全く矛盾はないのかもしれない。
それでも。
おそらく彼にとっては社交辞令に毛が生えた程度のものなのだとわかっていても、ポーカーフェイスを保つことができなかった。
りんは暑くもないのに右手でパタパタと頬に風を送ると、どもりながら話を続けた。
「あ、で、でも、また、変えようかなぁとは思ってます。この眼鏡、あんまり合ってないみたいで。」
「合ってないって、度数が?」
「いえ、度数は合ってるんですが、……何か、フレームががたつく、というか。」
「ん?デザイン変えるってことか?」
「そうですね、慶くんに相談したら、気になるんだったら早めにおいでと言ってくれたので。」
ふーん、と面白くなさそうな顔で相槌をうつ倖に、りんは冷や汗をかきながら説明を終える。
端から幽霊視えるから、などと言えるわけもない。
「お前コンタクトにしないの?」
眼鏡ってすげー邪魔くさそう、と倖が残りのクレープを口に放り込む。
「……コンタクトは、痛くて無理でした。」
「そんだけ?」
「それ以外に何かありますか?」
「……何でもないでーす。」
コンタクトにかこつけて眼鏡取らそうったってそうはいきませんよ、とりんは白玉に先割れスプーンを突き立てた。
「そういや、俺、眼鏡ってかけたことないかも。」
「サングラスとかでもですか?倖くんはどんなデザインでも似合いそうですよね。」
慶くんはよく伊達眼鏡かけてますよ、とりんが言うと、あいつのは職業柄じゃねぇの、と倖が言った。
「サングラスも伊達も、かけたことないかな。」
倖の言葉に、あ、とりんが声を漏らしカバンをごそごそと探り出した。
「前の眼鏡、予備で持ってきてるんですよね。かけてみますか?」
「お、かける。」
幅が合うかわからないんですが、と黒縁の眼鏡をりんは差し出した。倖は、ちょっとまて、とスマホでインカメラを起動すると鏡代わりに持ち、りんの眼鏡をかけた。
「うぉぉっ!!」
その途端ギュッと目を閉じて眉間に手を当て倖は悶えはじめた。
「どうしました?大丈……あ!」
「め、目が潰れる……!」
「お、大げさですね。でもそういえば度入りでした。すみません、倖くん、外してください。」
「いやまて、頑張る。」
そんなこと頑張らなくていいのでは、と口から出かかったが頑張って目を開けようとしているので倖の好きにさせてみる。
「うーん、何も見えん。」
倖は顰めっ面をしながら薄目でスマホの画面を睨みつけているが、どうやらぼやけて見えないらしい。
「倖くん、視力いくつですか?」
「両目とも2.0。」
「めちゃくちゃいいですね。私ド近なんで、その眼鏡の度数かなり強いですよ。」
目悪くなっちゃいますから、と外すように促すが、倖はふいに運動場に視線を移すと、そのまま動かなくなった。
何を見てるのだろうかと同じように見下ろしてみるが、相変わらずサッカー部が走り回っているだけだ。
「どうしました?」
「……何だあれ。」
気持ちわる、と倖は口を手で覆うと座ったままフェンスの方にズリズリと近寄り金網に顔をくっつけた。
何がそんなに気持ち悪いのかとりんもフェンスにくっついて目を皿のようにして茶色い地面を見下ろすが、特に変わったものは見えない。
「どれですか?」
「……頼むから、俺にしか見えないとか言うなよな。何か、赤いのが花壇の横のとこ、這いつくばってんじゃん。」
「……え?」
「え、じゃねーよ。……ていうか、何であの赤いのだけはっきり見えんだよ。」
気持ちわりぃ、と倖は蒼白な顔で再度そう言った。
赤い、這いつくばってるのって、まさか。
まさか、と何度も頭の中で繰り返しながら金網にすがりつき、りんは眼鏡を少し上にずらしてみた。
いわゆる強度近視というやつで、間近にいる人間の輪郭さえ覚束ないような視力だ。屋上から下を見下ろしたところで、茶色い地面にぼやけた何かが右往左往しているようにしか見えないはずなのだ。
しかし、それは、それだけは、やはりはっきりとりんの視界にうつった。
倖の言うとおり、それは花壇横にいた。
そして今まさに自らの腹に手を突っ込み臓器を引っ張り出そうとしているところだった。
「うっげぇっ……」
えげつな、と震える声で倖は言う。
明らかに同じものを、倖が視ている。
どうして突然倖にあれが視えてしまったのか。
理由は一つしか思い当たらなかった。
「倖くん、眼鏡、返してください。」
「あ?」
倖が強張った顔でこちらを見る。
「いいから、返してください。」
半ば強引に倖の顔から黒縁の眼鏡をひっぺがして取り返した。
「いてっ!……何だ急に。」
「視えますか?倖くん。さっきのグロいの。まだ、視えます?」
真剣な顔で問うりんに、倖は目を瞬いて運動場へと視線を落とした。
「……あれ?……いない。」
それを聞き、りんはほっと胸をなで下ろした。
いったいどういうカラクリになっているのかわからないが、倖はこの眼鏡をかけることによって、アレが視えてしまったらしい。
それがこの一回きりなのか、これからも倖がこの眼鏡をかければ視えるものなのかは分からないが、試してみようとは思わなかった。
そそくさと眼鏡をケースにしまうりんを見て、倖がとっさにその手首を掴んだ。
「な、なんですか?」
「なんですかじゃないだろ。さっきのってまさか、その眼鏡のせいで視えたのか?」
「い、いや、えっと、」
「どんな仕掛けになってんだ?AR的な何かか?」
「え、えーあーる?」
「拡張現実。ちなみにVRが仮想現実。」
「えーっと、」
倖が何やら現実的な方向で誤解してくれているようなので、それでどうにか押し通したいが言っていることがさっぱり意味がわからない。
「違うのか?」
「く、詳しいことは、わたし、からっきしで……、あは、えーあーるって何でしたっけ?」
「……ARってのは、んー、ポケルンGOわかるか?簡単に言うと、あれだ。」
「……はぁ。」
「VRてのは、よくテレビでやってんだろ。ゴーグルみたいのかけたらヴァーチャルで、まだ建ててもいない家の設計した内装が見れまっせー、てな感じのCM。」
「あぁ!それならわかります。……そうそう、それです!それなんですよ!私の眼鏡ちょっと特殊で……。」
あはは、と笑って誤魔化したが、一転、倖は半眼になってこちらに近づいてくる。
「んなわけねーだろ。お前の眼鏡どう見ても普通のめがねだし、あんなグロいのをお前がAR用のデバイス購入してまで視たがるとも思えん。」
「あ、はは、は……。」
「何なんだあれ?……俺まだ何にも説明してなかったのに、お前が〝グロいの〟って先に言ったんだからな。お前にも視えてる、ってことだよな?」
「え、えーと、」
どう話を反らすか思い巡らしていると、倖がやおらりんの掴んでいた手の中から眼鏡をむしり取ろうとしてきた。
「ちょっ、倖くん!」
慌てて眼鏡を上にあげ倖から遠ざける。すると倖は更に身を乗り出して手を伸ばしてきた。
取られてなるものかと思い切り後ろに手をのばし、ふと、眼前にある倖の顔に気づいた。倖はムッとした表情でりんに思い切り近づいて上へと伸び上がっている。眉間に皺を寄せて眼鏡だけを睨みつけていた。
近い。
近すぎる。
鼻が触れそう。
吐息が、かかる。
シャンプーの香りだろうか。
倖からいい匂いがフワリと香った。
りんの視線に気づいた倖が、りんを見た。
至近距離で倖と目が合い動揺したりんが、更に後ろへと仰け反る。そうしてそのままバランスを崩してゆっくりと後ろへと倒れ込んだ。
頭、打つ、かも、とギュッとりんは目をつむった。
「……っぶね、」
倒れ込んだ衝撃はあったが大してどこも痛くなかった。うっすらと目を開けてみれば、金色の髪がりんの頬をくすぐり、すぐ横に広がっているのが見えた。
頭も背中も痛みはそうない。
それもそのはずだ。
後頭部は倖の右手が。
背中には左手がまわっている。
つまり、りんは押し倒されたような体勢で倖にがっちりと抱きかかえられていた。
声を上げかけて、視界が歪んでいるのに気づき、わたわたとずれ落ちかかっている眼鏡を正しく装着した。
「あ、あぶっ、な」
思わず声に出して呻く。
危なかった。
眼鏡を両手で囲いながら、ほぅ、と安堵の吐息を漏らすと、顔をあげた倖と視線が合った。
両手でしっかりホールドされたままなので、やはりかなり近い距離で。
倖はしごく真面目な顔でりんを見ていたかと思うと、やおら顔を逸らし舌打ちをしてりんを起こしてくれた。
りんは慌てて眼鏡から手を離すと、自分の力で体勢を立て直し衣服の乱れを整える。そうして離れた倖をじっとりと見返した。
「……倖くん、眼鏡ずれたとこ見逃した、とか思ってますね?」
「何言ってんだ思ってねぇよ。」
「でも、まぁ、あの、……ありがとうございました。」
そう、ぼそぼそと呟いて礼を言った。顔が赤くなっている自覚があるので、自然と俯いてしまうのは仕方がない。
異性と至近距離で相対することなどこれまでなかった。そもそもそういったことに関しての免疫というものがないのだ。
倖はといえば、ん、と軽く返事を返してそそくさと立ち上がりフェンスへと近寄っていく。俯いたりんの視界にもチラリとその様子が見える。どうしたのかと顔をあげれば、彼はいそいそと黒縁の眼鏡をかけようとしていた。
「あ、」
そういえば、胸キュンシーンの原因となったのは眼鏡の争奪戦であった。唖然としているりんの目の前で、眼鏡は素早く倖の目に装着されてしまった。
「……いた、」
倖が指差した方向は正門のほう。正門を出たらおそらく、いつも通り向かいの個人商店へと入っていくはずだ。
「……なぁ、お前さぁ、前に聞いたことあったよな。あの商店に買い物行ったことがあるかって。」
「へ?そう、でしたっけ?……えっと、」
また慌てて誤魔化そうとするが、倖の視線からそれが既に手遅れであることを悟った。
りんは観念して細く息を吐くと金網に近づき、真横で同じように金網にひっついている倖をチラリと見あげた。
「……もう、商店の中に入っていきました?」
倖が驚いたようにりんを見て、頷いた。
「あぁ。……何?もう、誤魔化すの諦めたのか?」
「……諦めました。」
倖は眼鏡を取るとりんに差し出し、金網に寄りかかって口を開いた。
「あれ、何?」
直球で質問をぶつけてくる倖に、どう答えたものか、と視線を彷徨わす。
「何、と聞かれると正直困るんですが、ゆ、幽霊、なのかな?」
たぶん、とりんは自信なさげに答える。
「……俺、幽霊視たの初めて。」
「なんでちょっと嬉しそうなんですか。」
「ていうか、本当にあれ、幽霊なのか?」
「……たぶん。」
「なんださっきから。たぶんたぶん、て。」
「わ、わかんないですよ、自分が視てるあれが、本当はなんなのか、なんて、」
りんはうろたえて俯いた。
「……幽霊的なものだとは思うんですけど。あ、倖くんが、おんなじものを視たってことは、幽霊てことで間違いないのかな?」
「いまいちよくわからんな。んー、お前がかけてる新しい眼鏡でも視えるのか?」
「……視えません。というより、」
倖から返された眼鏡を手の中でギュッと握りしめる。
小学校高学年から使っている黒縁の眼鏡はあちこち傷もついているが、いつもりんを守ってくれた、大切なものだった。
「私がこの眼鏡をかけてるのは、ああいうのが視えないようにするためです。」
「……視るためじゃないのか?」
「あんなの視るための眼鏡なんて、わざわざかけませんよ。裸眼とか普通の眼鏡とかだと、ああいうのがそこら辺にチョコチョコと視えて、ちょっとキツいので。」
倖は不思議そうにりんを見ながら、スイーツが散乱している場所に戻ると、よっこらせ、と座りこんだ。
「でも、俺、それかけたときに視えたぞ。」
「……なんででしょうね?正直、本当にわかりません。でも、私が眼鏡買い換えようと思ったのは、この眼鏡をかけていてもあれが視えるようになってしまったからです。」
りんが大きなため息をついた。
「意味がわからんな。……でも、その眼鏡でも視えないようにできてるんだったら、何でまた新しくしようとしてんだ。」
言われてりんは今かけている眼鏡の縁をつぃとなでた。
「これ、縁がないぶん視えなくできる範囲が狭くなってしまって。……前のに比べて、やたら端っこからチラチラと視えて嫌なんです。」
「てことは、縁ありに変えるってことか?」
「そうしようかな、て思ってます。」
「ふーん。……その眼鏡買うのって、こないだ会ったお前の従兄弟の眼鏡屋?」
倖がやや不機嫌そうに首を傾げた。
「そうです。慶くんが勤めてる眼鏡屋さんです。」
「てことは、その慶くんがこれを作ってくれてる、てことか?」
「そう、なんですかね?たぶん。」
「……お前、わからないことだらけじゃね?」
倖が呆れたように言うので、だって、とりんは反論する。
「いろいろ聞いても誰もはっきりとは説明してくれないし、というか、みんなもわからないから説明できない、とか言われるし、」
「……みんなって、具体的には誰だ。」
「両親と叔母さんと、その息子の慶くん、です。」
「なるほど。……おまえんちって、みんな幽霊視えるの?」
「……視えません。視えるのは私と叔母さんだけです。」
「ん?慶くんてのは視えないのか?」
「視えない、て言ってましたね。」
「ふーん。あ、もう1個きいていいか?そういうのが視えるってことはさ、ほら、よく漫画とかであるじゃん。陰陽師とか、除霊ものとか、さ。もしかしてお前もそんなん出来たりするのか?」
どこかワクワクしたような声音でそう問われ、りんはげんなりとした。
除霊。
そんなこどが出来たら、どんなにいいか。
「出来ませんよ、そんなこと。」
「そうなのか?うーん、……ひたすらあんなのが視えるだけって言うのも中々ツラいな。」
辛い。
改めて倖にそんな風に声に出されると、小学生の頃のことを思い出し不覚にも目頭が熱くなる。俯くと涙がこぼれそうだったが、顔を上げてその表情を倖に見られるのがイヤで必死で瞬きした。
彼は話をしながらも食べかけのスイーツを手口に運びあっという間にペロリと平らげ、また袋の中に手を伸ばした。
「……倖くん、何個目ですか。」
「ん?ん~と、……5個目。お前は?」
「私は今やっと2個ですね。これ全部食べきれないんじゃ?」
「残ったらお前持って帰れ。」
詫びの品だし、とスプーンを咥えたままもごもごと倖は言った。
袋の中を見てみると、まだ3個ある。
「買いすぎですよ。」
「1人5個計算だから買いすぎではない。」
そうして倖は美味しそうにマロンシュークリームにかぶりつく。
倖くんを見てるだけで胸焼けがしてきそう、とまだ三分の一ほど残っている白玉のあんこクリームにりんは視線を落とした。
せめてこれだけは食べないと。
せっかく倖が買ってきてくれたのだし。
これ以上、何も聞かれませんように、とりんは憂鬱な気持ちで白玉を口に入れるのだった。




