5
辺りを包む空気はカラカラと一気に乾燥してきていた。
りんは倖について歩きながらかさつく唇をペロリと舐める。毎年のことだが、冬になると表皮が捲れて唇がピリリと避けるのだ。リップで保湿してもなかなか追いつかないので冬は憂鬱だ。
唇を指でなぞると表皮が捲れたその下にはパツンと張った薄皮が顔を出している。裂けて血が出るのも時間の問題かな、と諦め半分、けれど半分はやはり諦めきれずリュックの中のリップを後ろ手でごそごそと探した。
倖の家はりんの家とは反対方向で、5つ目の駅を降りたところだった。改札を出るとすぐに右に折れ、しばらく歩くぞ、と言うなりすたすたと倖は先に行ってしまう。
銀杏の並木が綺麗な通りだった。
まだ完全に色づいてはいなかったけれど、それでも特有の爽やかな緑のトンネルは目にも鮮やかだ。所々色味が薄くなってグラデーションを作っている。それが黄金色に染まるのも、そんなに時間はかからないだろう。秋も徐々に深まりつつあった。
ふと、前を行く倖が金色に色づいた通りを歩く姿を想像する。
さらさらの金髪と整った容姿の青年が色づいてハラハラと落葉する銀杏並木をいく。
きっと、とても絵になるだろう。
手探りでがさごそとリュックの中身を漁りながら、ほぅ、とりんは感嘆のため息をついた。
金色の銀杏並木ではないが、緑萌える銀杏並木を歩く倖もまた、とても様になっていた。
まぁ、それはさておき。
ない。リップが。
ないとなると、余計に唇が乾く気がする。
りんは立ち止まりリュックを降ろすとガバリと口を大きく広げ、目当てのものを探そうと手を突っ込んだ。
「おい。」
真上で聞こえた声にびくりとしてそっと見上げると、無表情で見下ろす倖と目が合った。
「おまえな、立ち止まるなら止まると一声かけろ。」
知らない奴に話しかけて恥ずかしかっただろ、とぼやいてくる。
「すみません、すぐ走って追いかけるつもりだったんで。」
そう言い訳しながら、それにしてもキレイだ、と目を細める。
下から見上げると倖の背後に銀杏の緑が広がっている。零れ落ちる金髪に暗く陰った、倖の顔。
「何がキレイって?」
思わず口に出していたらしい心の声を倖に指摘され、りんは素直に答えた。
「倖くんが、ですよ。銀杏の緑色した三角の葉っぱの背景に、とてもよく合っててキレイだなぁて。」
言いながら、リュックに視線を落とす。
倖は呆気に取られたようにりんを見下ろしていたが、ぐっと口を引結んでりんの隣にしゃがみこんだ。
「座り込んで何探してたんだよ。」
リュックを覗き込んできた倖に、リップです、と答えて隣をみると倖の耳がやたらと赤いのが目に入った。
「耳、赤いですけど、そんなに恥ずかしかったんですか?」
知らない人に話しかけちゃったの、とりんが呆れぎみに言う。それを無視して、リップ、と倖は呟いた。
そうして徐にりんの唇をつんとつつくと、荒れてんな、と首を傾けた。
寒いからだろうか。倖の頬も少しだけ色づいてみえた。
「リップ、ないのか?」
言われてリュックの中を手でかき回して探すもやはり見つからない。
「いつも横のあみあみに入れてて、すぐ取れるようにしてるんですけど、定位置になくて。」
落としたのかな?と諦めてリュックの口を閉めるりんに、ん、と倖がリップを差し出してきた。
「使え。」
「……いいんですか?」
「別にいい。」
りんは躊躇いつつそれを受け取り、唇にのせる。油脂分がしっとりと唇を潤し、蜂蜜の甘い香りがふわりと香った。
「これ、蜂蜜入ってるんですね。」
「いいぞ、それ。」
ほらいくぞ、と立ち上がり倖が先へとりんを促す。
りんは慌ててリュックを背負い、倖にリップを手渡した。
「確かにすごいねっちりしてます。保湿されてる感じが、いつも使ってるものよりいいですね。」
「ちと割高だけどな。」
りんが唇をんぱっと合わせるのを倖はチラリと見下ろしながら、うち銀杏並木のすぐ先だから、と今度はゆっくりと、りんに並んで歩き出した。
◇◇◇◇◇◇
銀杏並木を抜けて、すぐ左手にあった大きい一軒家が倖の家だった。
赤い屋根の、少しメルヘンチックな。
かわいいお家ですね、と感想を言えば、親父の趣味だ、と苦々しげに言われた。
男の子のおうちにお邪魔するのは初めてのことだったので、恐る恐る玄関をくぐる。
すると木目調の靴箱が左手に、あがってすぐのところに2階へと続く階段があった。その階段しかり、廊下しかり、どれもが優しい風合いの木で作られておりメルヘンチックな外観とも相まってとても可愛らしい。
「……すごい、可愛いおうちですね。木目ってやっぱ落ち着きます。」
お邪魔します、と靴を揃えながらりんが感動したように言うと、親父の趣味だ、とまた苦い顔をされた。
2階の倖の部屋に促されて入ると、真正面に青い猫が鎮座していた。
「威圧感がすごいですね……。」
三段ボックスの上、窮屈そうに座らされた猫は笑顔で出迎えてくれたが、倖の部屋であるということを考えるとその笑顔もやたらと胡散臭く感じられた。
リュックをベッドに投げだすと、倖は憮然とした表情でりんを振り返った。
ベッドの枕元にはリラックスしたクマがやる気なさそうに壁に寄りかかり、キレイに整えられた掛け布団からはエロいお姉ちゃんが顔を出していた。
「……一緒に寝てるんですか?」
「抱き枕なんだから当たり前だろ。」
抱いて寝てるさ、と腕組みをした。
「さすがに、倖くんが使ってる抱き枕をおうちに持ち帰って使う気にはなれません。」
「なんだと。」
ちゃんと洗ってんぞ、と言う倖に、イヤです、と即答しておいた。
「……話し合いが必要だな。茶ぁでも持ってくっから座って待ってろ。」
「え、」
すぐお暇するつもりだったのに、とりんが狼狽えているうちに倖はりんの横をすり抜けて階下へと行ってしまった。
……座ってって、どこに。
6畳ほどのフローリングの室内は青で統一されていた。
右奥にはベッド、真正面にはベランダがありその前に置かれた机と椅子。壁紙は紺色で落ち着いた雰囲気で、レースカーテンは縦の青のグラデーション。カーテンは端にまとめられているが上4/5が青灰色で下部は鮮やかな青だった。見れば布団も真っ青だ。
よほど青が好きらしい。
さすがにベッドに腰掛けるわけにはいかないし、かといって勉強机の椅子に座っとくのもおかしい気がする。
部屋の真ん中には丸い濃紺のラグが置かれているが、人1人が座れる程度で座卓らしきものもない。
消去法でいくとラグ一択かな、とそっとラグに座り込んだ。リュックを脇に降ろすのと同時に倖がドアを開けて入ってくる。
右手に湯飲み茶碗や急須、菓子を載せた盆を持ち、左手には丸テーブルを器用に抱えていた。
「ん。」
盆を取れ、と差しだされたので受け取ると、倖はテーブルの脚をだしセッティングする。そのままどっかりとフローリングに座り込んだ。
りんは受け取ったお盆ごとテーブルへと載せると倖と自分の元に湯飲みを置き、急須から熱いお茶を注ぐ。2人してずずっと一口啜ると、ほぉ、と息を吐いた。
「暖まりますね。」
「暖まるな。」
そう和みながらもう一口啜る。チラリと倖に視線をやると、りんは徐に口を開いた。
「私、どれか一つ持って帰るなら抱き枕を、と思ってたんですが。」
「抱き枕を持って帰ってもいいが、ぬいぐるみも一つ持って帰れ。」
「いえ、さっきも言いましたが抱き枕はもういりません。」
「……じゃあ、ぬいぐるみ持って帰れ。」
倖は湯飲み片手に盆の上のクッキーをぽいと口に放り込む。りんもそれにならって一つ手にした。
「私、実を言うとぬいぐるみってすごく苦手なんですよね……。」
さくりとクッキーを口にすれば、いくつでも食べられてしまいそうなほど軽い口当たりのクッキーだった。
「おいし。このクッキーすごくおいしいですね。」
「おぅ。親父が作った。」
「……そうですか。」
「ぬいぐるみが苦手って、じゃあ何でこんなに捕ったんだ。」
「そこに捕れそうなぬいぐるみがあったからです。」
「……おまえな。」
倖が呆れ顔でりんを見た。
筐体の森の中にいるときは多少興奮して、必要でないものも捕ってしまいがちなのは反省すべきところではある、と、わかってはいるのだけど。
捕れるものは捕れるときに捕ってしまう、というのがりんのUFOキャッチャーにおける信条だ。
「ぬいぐるみって、目があるじゃないですか。あと鼻と口も。手足もあるし。」
だから苦手なんです、とりんが困ったように茶を啜った。
「おまえは何を言ってるんだ。」
倖は心底理解できないと言った体で頭を抱えた。
「でも1つは持って帰れ。定員オーバーだ。」
と、机の下に置いてある灰色の巨大なビニール袋を指差した。
何ですかあれ、の意で倖に視線を返すと、顎で取れと促される。ごそごそと這ってビニール袋を掴み中をのぞき込む。
白と黒の毛並みが見えた。
「あれ?これ、倖くんにも捕れそうと勧めたパンダじゃないですか?」
「そ。」
「すごい。捕れたんですね。ちなみに何回で?」
「……一回だ。」
「一回で、ですか。……それは本当にすごい。あの位置から一回で捕るとしたら、やっぱりちゃぶ台返しですか?」
「……おまえ、ホントに何言ってんのかわっかんね。」
倖は瞳を閉じて唸り、また茶を一口啜った。
「それ、持って帰れ。」
「これを、ですか。」
袋から出してみると、思った以上に大きい。座ったりんよりも頭1つ飛び出している。デザインとしてはオーソドックスで、可愛らしいというよりは写実的なパンダだ。
「そいつだけ異様に大きいんだよ。」
眼鏡仲間ということで連れて帰れ、と倖が凄んだ。
眼鏡仲間。
確かに目の周りの黒縁は眼鏡みたいだけど。さわりと撫でると肌にとても心地よい。
「さわり心地いいだろ。連れて帰れ。」
再度凄まれて、ため息をこぼす。
最近はあまりないが、人の形をしたものは色々と、少し怖いのだが。
しかし、まぁ、仕方ない。
「これ1つ連れて帰ったら他のは引き取ってもらえますか?」
じゃないとイヤです、とりんも凄んでみた。
「……頃合いを見てクマも連れて帰ったらどうだ。同じ熊系だし。」
クマというのはあのリラックスしたクマのことを言っているのだろうか。
りんはチラリとベッドに視線をやると、結構です、と即断した。
りんがこれ以上譲る気がないとみた倖は、しゃあねぇなぁ、と頭をかいて折れてくれた。
その様子にほっと息をつき、クッキーをまた一枚口に運ぶ。
「あからさまにほっとすんなよな。」
倖がやはり憮然とした顔で言う。
りんはバツが悪そうに、お茶でクッキーを流し込み話題を変えた。
「それにしても倖くんのお父さんて、すごいですね。もしかしてこの部屋もお父さんの趣味ですか?」
倖は顰めっ面で、なんでだよ、と返した。
「俺の部屋のインテリアは俺の趣味で決定してるに決まってんだろ。」
あいつの趣味で出来上がった部屋なんて冗談じゃねぇ、とザクザクとクッキーを噛み砕く。
「お父さんて、可愛いものが好きなんですか?もしかして。」
「少女趣味っていうのか?なんか、フリフリとかそういう方面に走ってんな。」
と、大きくため息をついてみせた。
「お前の親父さんは普通だったよな。」
羨ましいぞ、とぼそりと付けたしてくる。
「そうですね。普通のおじさんだと思います。」
そういえば、以前父と倖は顔を合わせたことがあるんだったか、と、その時の父の挙動不審ぶりを思い出してりんは思わず笑った。
それからしばらくはとりとめもない話をして、ふとりんは先ほどよりもオレンジ色が強くなった窓の外へと視線を向けた。
それを目を細めて見ていた倖はドアの上部にある時計に目をやると、残っていたクッキーをビニール袋に入れ始める。
「最近、日が暮れるの早いしもう帰れ。これやるから。」
駅まで送る、と言いながら透明なビニール袋に入ったクッキーを手渡された。
わかりました、と素直に受け取りリュックを背負い直し立ち上がると、倖がブフッと吹き出す。なんですか、と胡乱げに見ればこちらを指差してまた吹きだした。
「だってお前、巨大なパンダ右手に抱えて左手にはお菓子の袋下げて、リュックって小学生みた、、ぶっくっく、」
笑い続ける倖を後目にパンダを元々入っていた灰色の大きなビニール袋に押しこみ抱えなおす。クッキーは割れないようにリュックの脇のポケットにしまい込んだ。
すると倖が、あ、と急に思い出したように机の引き出しをゴソゴソと探りだした。ほれ、と渡してくれたものは先程借りた物と同じ種類のリップ、の新品だった。
「やる。保湿しろ。あと、ちゃんと水飲め。水分不足でもかさつくんだぞ。」
「あり、がとうございます。……ホントにもらっていいんですか?」
ん、とぶっきらぼうに頷いてさっさと部屋を出る倖に、ゆっくりと続く。そのまま駅までパンダを持つという倖に、銀杏並木をゆっくり見ながら帰りたいから、と見送りを丁重に断って倖の家を出た。
通りの銀杏はまだまだ緑が眩しい。しかし所々に黄色く色づく葉っぱがちらほらと散見する。その色の移りゆく様子が秋の訪れを感じさせて、じっくりと見上げながら帰りたかった。
りんはかさばる灰色のビニール袋を、よいしょ、と抱え直す。
リュックの側面を探るとまだ開封されていないリップが手に触れた。初めて友達から貰い物をしたかもしれない。
友達、で、いいんだよね。
友達関係がこのまま続いていくのか不安ではあるけど、気軽に物をあげたりもらったりというのは、胸がこそばゆくなるくらい嬉しいものだった。
何かお返しが出来ないだろうか。
こういう場合何を返せばよいのか、さっぱり思い浮かばない。
お母さんに聞いてみようかな。
りんは銀杏を見上げて、その三角の葉っぱの一つ一つを視線で辿りながら、ふと、気づいた。
そういえば、倖の口から母親の話は、結局一つたりとも出てこなかったのだ、ということに。
後ろを振り返ると、銀杏並木の端にあの可愛らしいお家がまだ、チラリと顔をのぞかせていた。




