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翌日、倖は朝からりんに声をかけるタイミングをはかりかねていた。話しかけると覚悟を決めたはいいが、いざとなると後込みしてしまうのだ。
今朝登校すると既にりんは着席していた。ここのところ毎朝早くに学校にきて、予習をしているようだ。定期テストも近くもないのにどういう訳かは知らないが熱心なことだ。
一週間程前は美術の教科書を出していて困惑したが、今日は違うようだ。
遠目にチラリと見た限りでは数学の教科書がでているようだったが、開いているページはその特徴的な図から随分前に習ったところだ。
眼鏡は頭が良いとの相場だが、こいつはどうなのだろうか。ちょっとよくわからない。
そして一限目の数学の授業中。
倖は、少し前に座るりんをぼんやりと見ていた。
柴田はああいっていたが、実際のところあいつがあの彼女だという可能性は限りなく0に近いと思うのだ。
限りなく0に近い、ということは0ではないということだから、可能性がある、ということなのだが、だからといって似てる箇所があるわけでもなし。
ふむ。
倖はふんぞり返って腕組みをし、じっくりとりんを背後から観察してみた。
似てる箇所、似てる箇所ねぇ。
背格好は似てるかな。
髪もおろせば、そんな感じに見えるかも。
栗色の髪色はそっくりだと思う。
少し丸みを帯びた、なで肩風なところとか。
あとは座りかたとか。
んー?と、倖は首を傾げる。
けっこう似てんな。
後ろから見ると8割方は似てっかも。
前から見た、後の2割が致命的なだけで。
でもなぁ。後ろからだったら、このクラスにも似てるところがある奴もけっこういそうだし。
やっぱ顔だな。顔、見ないと。
うーむ。
倖が思考に没頭しているその先で、りんは真面目に授業を受けている。いつものことだが、りんの授業態度はいたって良好だ。
今も数学の教師が黒板に書く公式をノートに書き写しているのか、しきりに黒板とノートを見比べながら右手を動かしている。そうして最終的に小首をかしげて止まった。
眼鏡で真面目ななりをしているのに案外バカなのかもしれない。
倖はりんの耳から顎にかけてのラインを眺める。
ここからのこの角度から見る頬の丸みとか、耳からうなじにかけての感じとかはそっくりなんだけどなー。
でもなー。
と、答えの出ない問いに思いを 巡らせていると、ふいに教師がこちらを見た。今日の数学の教師は普段あまり関わり合いのない大人しそうな金沢だ。金沢はしばし無表情でこちらを伺う。
腕組みを解除するべきか、否か。
逡巡したあとゆっくりと手を机の上に戻す。
机の上には何も乗っていなかった。
やべ。教科書だすの忘れてた。
授業は始まって30分以上すぎている。
いつも数学を担当しているハイテンションのポロシャツデブの中野を倖は思い浮かべた。中野だったらどういう対応にでるか、わかるんだけどな。
金沢はいまだにじっとこちらを見ているばかりで何か言うわけでもない。が、その不自然な沈黙に、ちらちらと教室の視線が集まり始めた。
そんな周囲の視線に軽く睨みをきかせていた倖の視界にふと、りんの姿がうつった。
ドキリと、心臓が大きく鼓動する。
右手に、眼鏡を持っている。
少しうつむくようにして頭が小刻みに揺れているのは、目に何か入ったのだろうか、左手の甲で目を擦っているようだった。
今、こっち振りむけば。
顔が見える。
思った瞬間倖は行動にうつしていた。
「先生!教科書忘れました!!」
ガタン!と、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり倖はピシリと挙手をして叫んだ。
突然のことに、びくぅっ、と教壇の上で縮こまる金沢は一顧だにせず、ひたすらにりんのおさげ頭を凝視する。
倖の叫び声に彼女もびくっと、肩を震わせていた。
こっちむけぇぇっ!
怨念にも似た思いが通じたのか、りんがゆっくりと倖の方へと体をひねる。
いや、ひねりつつ流れるような動作で眼鏡を装着した。
ちっ!
教室中に、倖の舌打ちが響き渡った。
振り向いたりんは眼鏡をしっかりかけて、怪訝そうに首を傾げている。目を合わせないように若干ずらしながら、倖は、でも、と思った。
眼鏡をかけるまでの数瞬。
似ている気がした。
彼女に。
あくまで、気がしただけだが。
うーん。
やっぱりはっきりきっぱり真正面から直視しないと納得できないな。
倖が挙手したまま考えこんでいると金沢がおずおずと口を開く。
「……倖くん。教科書は、隣の子に見せてもらって……。」
どう扱えば正解なのかよくわからない挙動不審な生徒を前にして、金沢がそれだけようやく絞り出すように呟くと、座っていいよ、と小声で伝えてきた。
クラス中の視線が痛いので、金沢の勧めに従い素直に着席する。
両隣の女子が、隣ってどっち、とわたわたしているのが視界に入ったが無視をした。
あと少しで、眼鏡なし林田りんが見れたのに。
惜しかった。
非常に惜しかった。
が、可能性はあるのかもしれない。
あとは、どうやって眼鏡をとってもらうかだ。
とりあえず普通に、取ってみ、とお願い?してみるか。
金沢が黒板に向き直り授業を再開する。倖のことはとりあえずスルーすることに決めたらしい。
りんも前を向き再びノートを取り始める。
両隣の子はいまだチラチラと倖の様子を盗み見ている。
クラスの中で、忘れ物を自己申告して隣の奴に見せてもらえと提案されたのに、微動だにしない倖に触れることのできる勇気のあるやつは、授業終了するまで結局一人もいなかった。
◇◇◇◇◇◇
りんは既視感に襲われていた。
目の前にぶちまけられた、総菜パン。その数7個。
りんが大失態を冒したあの放課後から、すでに一週間以上がすぎている。あれ以来、倖から声をかけられることも、目が合うこともなかったのに。
迫田さんからは、倖とケンカしたのか、と定期的に問われ。正直に話せば彼の名誉に関わると思い、あいまいに誤魔化していたのだが、早く仲直りした方がいいと心配そうに勧められた。
その迫田さんに、倖にはもうかなり嫌われてしまっているはずだからこれ以上仲良くなることはないと思う、と話していたのに。
なのに。
何事もなかったかのように前の席にどっかりと座り込み、倖は無言で焼きそばパンの袋を破る。そしてなぜか睨みつけるようにりんを凝視しながら、器用に焼きそばパンにかぶりついた。
「飯、食わねーの?」
睨みつけながら、そう聞いてくる。
食べづらいことこの上ない。
飯を食えと強要されたので、いただきます、とぽそりと呟き、弁当箱の片隅に入っていた焼きそばを一本、箸で器用に摘まんでちゅると口に入れれば、もうちょっと勢いよく食え、と文句を言われた。
「前も思ったんたけど、よくそんだけで足りるよな。」
母渾身の力作、キティちゃんのキャラ弁を見ながら倖が言う。まぁ、確かに彼に比べたら、とんでもなく少ない量ではあるけど。
「そうですか?」
「うまそーではあるが、5分で腹へりそ。」
なんと、5分で。
「小さい頃から、食が細かったみたいで、これで丁度いいくらいです。」
倖はもぐもぐと勢いよく、次々と惣菜パンを平らげていく。細身の体のどこで消費されているのか、不思議ではある。
「胃が小せぇだけじゃねーの?無理して詰め込んでれば広がって食えるようになるって。」
「胃を広げる…?いや、私そこまでしなくても今で充分な量のエネルギー確保できてますよ。」
「そうか?」
倖が眉根を寄せて不思議そうに言う。そうしてまた、パンの袋をバリッと破り口へと運んだ。
その様子をりんは惚けたように見る。
「倖くんは、相変わらずよく食べますね。」
「ん。」
「パン、好きなんですか?」
「んー、米のほうが好き。」
「ではどうして、パンを?」
「安井パンがさ、閉店間際に脅威の7割引きセールするもんだから、親父が仕事帰りに大量に買ってくんだよな。」
これ、全部で300円。
と、少し得意気に言う。
倖が指し示す机上には総菜パンがずらりと並んでいる。それは正規の値段で買えば1000円以上するはずだ。
それを考えると、確かに、まあ、脅威だ。
そうしてしばし沈黙が落ちる。
りんはもそもそと箸を動かすのを再開しながら、黙々とパンを平らげていく倖をチラリと伺い見た。
正直に言うと、倖と一緒に昼食をとることに慣れつつあったので、またこうして一緒にお昼できるのは、嬉しい。ただ、あの件でものすごく迷惑をかけてしまったのと、一週間近く目を合わすこともなかったので、多少居心地が悪いのも確かだ。
あの時あの駅で軽く謝っただけで、しっかりと謝罪はしていない。帰りの道々に何度か口を開こうとしたのだが、倖の纏う空気の重苦しさに負けて、結局お互いに一言も喋ることはなかったのだ。
そしてそれからの一週間は言わずもがな。
きっと、今がチャンスだ。
りんは意を決して倖に向き直った。
「あ、あの!」
「ん?」
「あの、先日は、私が勘違いしたばっかりにご迷惑をおか」
「いやいいからそれはもう。」
途端に倖はぴしゃりとりんを遮り早口でまくしたてると、ギンと一際強くりんを睨んだ。倖が右手に持っていたツナマヨパンが軽くひしゃげた。
「いいんですか?ホントに?それって、だって、」
それは、いいってことは許してくれるって、ことなのだろうか。りんは倖をひたと見つめる。
倖はゴックンとパンを飲み込むと少し怯んだようにりんを見返してきた。
この人の行動と考えていることがよめない。あんな事があったのだから、怒って当然だ。そうしてここ最近の倖の態度から怒っていると思っていたし、だから、わかりやすく避けられているのだと思った。
それならそれで、また以前と同じ状態に戻るだけ。
それでよかった、のだけれど。
倖はまたこうしてりんの目の前でパンを食べている。
もう、怒っていないのだろうか?それともまたなにか、聞きたいことやしてほしいことがあるのだろうか?もやもやすることこの上ない。
りんは再度、口をひらいた。
「あの、怒ってないんですか?」
「あん?」
「怒ってしまったから、この一週間わたしを避けてたんですよね?」
「……怒ってはないけど、お前見る度に多少はむかついてたから、まぁ、……確かに避けてたかな。」
「……その節は、本当に申し訳ありませんでし」
「だっからいいってそれはもう!」
がしがしと頭をかきむしりながら倖が言った。
「あー、ほら、あれだよ、俺も若いからっつうか、なんていうか、……ここんとこ、無視してて悪かったな。……ムカついたからといって、取っていい態度じゃなかった。」
思いがけず倖の謝罪を受けて、りんはそっぽを向いている倖をあんぐりと凝視した。
箸の間からポロリとじゃがいもが落ちる。
「い、いえいえ!私も悪かったわけですから!」
「だよな。」
りんが慌てて言えば、すかさず倖が肯定する。
自分の口から出た言葉だったが、即頷かれると多少ムッとする。
「だから、まぁ、相子ってことで。」
これからもよろしくぅ、と倖は右手をさし出してくる。りんは箸を置くと、こちらこそ、と、とりあえず握手した。
そういえば、前にもこんなことあったな、とぼんやりと思いだしながら、落ちたじゃがいもをティッシュにくるんだ。
その様子をパンを食べながら見ていた倖は、やおら咳払いをすると、それはそうと、とあからさまに不自然な話題転換をしてきた。してきたくせに、なかなかその先を話そうとしない。
倖はしばし視線をうろうろと彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。
「あ、のさ、おまえ、ちょっと、眼鏡取ってみ。」
「え?」
予想外にして唐突すぎる倖の頼みにりんは目を丸くした。
「眼鏡、ですか?」
「そう、眼鏡。」
パンを握りしめたまま身を乗り出してくる倖にたじろぎつつ、めがね、と口の中でつぶやく。
「眼鏡、って、私のめがねですか。」
「おまえの鼻にかかってる眼鏡以外の眼鏡をお前に外してくれと頼むわけないだろ。」
「……。」
またどうして急に眼鏡の話しになるのか。流れからしても少し飛躍しすぎではないか、と思ったとき、もしかして、とりんは閃く。
「……急にまたお昼ご飯一緒に食べようとしてきたのって、眼鏡取らせることが目的ですか。」
「……んなわけないだろ。」
「目そらして言ったって説得力ありませんよ。」
りんはその倖の様子にため息をついた。
前回は想い人の捜索のために、今はりんに眼鏡をとらせるために話しかけてきたというわけだ。
特に今回は理由が全く意味不明で、気味が悪い。
……いや、前回の連絡先騒動のときも意味不明で気味が悪かったが。
「眼鏡、あんまり取りたくないんですよね。」
倖はギュッと眉根に皺をよせて黙り込む。
「理由はなんですか。また言いたくないとか言いませんよね?……もしかして人捜しの延長ですか?」
「……延長といえば、延長なんだけどな。あー、のだな、彼女が、お前の家に入っていったのは、間違いないんだよ。」
「その件については、知らないって、」
「まぁ、聞けって。だからさ、ということは、その彼女がお前じゃないかって、柴田が言うから。念の為素顔を見とこうかと。」
何だ、そんなことか、とりんは大いに脱力した。
「残念ながら、倖くん。ありえません。」
「うん俺もそう思う。」
「……怒りますよ。」
倖はわたわたと手を振って、違う、と付け足した。
「99パーないと思うんだけど、可能性を一個一個潰してるというか、何というか、ほら、お前のいとこも違ったし……他に、もう、できることもないし。」
りんは腕組みをして倖を凝視した。藁にもすがる、というやつだろうか。できれば協力してあげたいが、よりにもよって眼鏡を外せ、とは。
頭が痛い。
「……できれば、外してあげたいところなんですが、無理です。」
「なんで。ちょちょいと外すだけじゃん。」
「……いやです。」
「変な顔でも笑わんから。」
「怒りますよ。」
りんは俯くと箸を手にとり食事を再開する。
「かわいくないのは、自分でよくわかってます。」
そう、前の学校でも散々からかわれてきたのだから。
「あほか。自分の顔に満足しているやつなんてそうそういないぞ。俺から見たら意外とマシかもしんないから、取ってみったら。」
「マシって?何がですか?」
「いや、だから、人並みくらいには見れんじゃねーかって、……あれ、怒った??」
負の感情はあまり表に出さないようにしているが、それでもこの怒気は倖に伝わったらしい。
「……ごちそうさまでした。」
1/3程残った弁当箱に蓋をして後片付けを始めたりんを見て、倖がギョッとしたようにその手を掴んだ。
「ま、まてまてまて!もう言わねー!眼鏡取れって言わねーから!」
りんは掴まれた腕をグッと引き寄せて臨戦態勢を取り、じっとりと倖を睨みつけた。
「本、当、ですか?」
「ほんとーほんとー、だから、飯はちゃんと食え。」
俺も大人しくパン食うから、そう言うと、残りの総菜パンに手を伸ばした。
「まぁ、なんだ、もう眼鏡取れとは言わないから、まぁ、仲良くしよう。」
もぐもぐと口を動かしながら、総菜パンでべとついた右手でまた握手を求めてくる。
どうせ、仲良くしたいのもあわよくば眼鏡を取るチャンスを窺いたいだけのくせに、と口を尖らせた。
目の前の倖の右手を、この場合の握手はなんの意味があるのか、ともやもやした気持ちになりながら、それでも倖が切羽詰まってそうな顔をしていたのでとりあえず握手しておく。
「そうだ、とりあえずお前今日うちに来い。」
「はい?」
倖はぶんぶんと握手したままの手を振りながら言った。
「そろそろちったぁ片づいただろ?部屋。」
全部じゃなくていいから、ぬいぐるみ、今日回収していけ、と倖が凄む。りんはその倖の勢いに怯んで手を振りほどくと、フルフルと首を横にふる。
「理由を言え。」
「まだあんまり片づいてないです。」
「行き先、お前ん家に変更な。」
「え!やですよ!」
「やじゃねぇよ。俺が片づけてやる。」
「……えー……一匹、だけだったら。」
「よし。学校終わったら俺ん家いくぞ。」
「……今日は図書館も行きたかったんですけど。」
倖は最後のパンを咀嚼しながら、いけばいーだろ、ともごもごと言う。
「ちゃっちゃと本返してこい。借りるのは明日にしろ。」
倖はパックのコーヒーを丁寧に崩しながらずびびと飲み干すと、ごっそさん、とガタガタと椅子を戻す。そうしてテンションが些か低くなったりんを残し、さっさと教室を出ていった。
ぬぅ。
断る隙さえなかった。
しかし。
倖がまた声をかけてきてくれたことを嬉しく思うのも事実で。例え、これが眼鏡を取れという要求を通すための手段だとしても。
ということは、眼鏡取ったらまた倖は離れていくのだろうか?
……元々取る気はなかったけれど、絶対取らないでおこう。
せっかく戻ってきてくれた、お友達1号なのだから。
それが、なんちゃってお友達だったとしても。
うんうんと1人頷きながら、りんは少しだけ残った弁当箱の中身を平らげるために箸を動かし始めた。




