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本当に、こいつなのか。
ナナメ前に座るおさげの後ろ姿を睨みながら倖は自問自答を繰り返していた。
本当の本当に、こいつなのか?
俄には信じられなかったし、正直言えば信じたくもなかった。
今朝の自分に言ってやりたい。数時間後には絶望を味わうことになると。真実は残酷なだけでしかなく、いっそ何も知らぬまま淡い恋心を胸に秘め、諦め、そして次の恋への一歩を踏み出すべきなのだと。
余計なことはするなと。
倖はギリリと歯噛みする。数年分の彼女への想いと見つけられなかった期間の切ない気持ちと探しまわった苦労とを思うと、握りしめた拳にも力が入る。
睨みつけていた転校生の後ろ姿から机に視線を落とすと、彼はぎゅっと眉根に皺をよせ、目をつむった。
ことは、昨日の朝に遡る。
昨日、日曜日の朝。
倖はうかれていた。
通学で使ういつもの電車で友人の柴田の家へと向かう途中だった。普段とは違う時間帯だったからか、日曜だというのに車内は驚くほどすいていて。
だから、見つけるのになんの苦労もしなかった。
9ヶ月前に見かけたきりだった〝あの彼女〟を。
彼女は私服だった。
それでも見間違うはずがないのだ。
間違いなく、あの子だった。
やっぱり、かわいい。
白いTシャツに、ふんわりとしたオレンジのスカート、黒のリュックを背負い、吊革につかまっている。
電車が止まるたびに少しよろけはするが、3年前にあったときのような危なっかしさはなくなっていた。きっと本当に電車に乗り慣れていなかっただけなのだろう。
そうして、声をかけることもできないまま、しばらくぶりの彼女にボケッとみとれていたのだ。
そのあとの行動を倖は今更ながらに後悔する。
あんなことしなけりゃよかったと。
電車を降りる彼女のあとをつけていく、なんて。
彼女は倖の家から学校を挟み反対方向の二つ目の駅に降りた。
木造の小さな駅舎と小さな商店街をぬけて、閑静な住宅街へと彼女は歩いていく。その10m程後ろを倖はひたひたとつけていった。
やってしまってから言うのも何だが、なんというか、これではまるでストーカーのようではないだろうか。
倖は咄嗟に取ってしまった自分の後ろ暗い行動に多少戦慄を覚えた。
いや、仕方ない、仕方ないんだ。
今日は彼女に声をかけられるような格好はしていないのだから。
彼女のために真面目な格好をするようになった倖だったが、2度目の失敗からは自棄になり、ピアスと頭だけは元に戻してしまっていた。
だからといって、このまま逃がせば(?)次またいつ会えるかわかったもんじゃない。それこそ去年の夏のような後悔をすることになる。
そんな事態だけは避けなければならない。
つかず離れず。
彼女のあとをついて行き、自宅を把握する。そうして頃合いをみて、ばったりと出会い、連絡先を交換するのだ。
そのためには、多少のストーキングもいた仕方ない。
そう己に言い聞かせていたとき。
ピーロリローリロ ♪
ひどく場違いな楽しげなスマホの着信音が鳴り響いた。
びくぅぅうっっ!
倖は黒のスラックスの尻ポケットに刺さっている携帯に手をあてた。
音量でか……!
彼女がチラリとこちらを振り向く素振りを見せる。
慌てるな、慌てるな、おちつけ俺……!
自分自身に声援を送りながら、高らかに鳴り響く画面に指をすべらせた。
するとすぐに、柴田のぶち切れ気味の声が耳に届く。
『倖さ、何時くらいに来るわけ?』
「どこに」
彼女はすでに前を向いて歩いている。どうやら怪しまれることはなかったようだ。
『はぁ?どこって、僕んち。来るんでしょ?今日。来るって言ったよね?』
「あ、行けなくなった。またな。」
倖はためらうことなく通話を切った。間髪入れずに再度着信音が鳴り響く。サイレントにする暇も何もあったもんじゃない。倖はイライラと通話へとスライドさせると早口でまくしたてた。
「あのな俺いま忙しんだよ。」
『忙しいって何やってるの?母ちゃん倖が来るからって大量にカレー作ってるんだけど。』
「まじで?あー、今日は無理、かも。」
『だから、なんで。』
柴田にぞんざいに返事を返しつつも、視線の先では彼女が住宅街にある小さな十字路を右に曲がっていく。
倖は見失わないように小走りで角まで行くと貼り込みの警察官よろしくベタリとブロック塀に張りつき通話口に囁いた。
「彼女に会った。今つけてる。」
『……つけてるの?ストーキングってやつね!』
「そうだけど、違う!」
『違わないでしょ。というかさ、そんなことしなくていいからとっとと声かければいんじゃない?』
「今日の俺の髪の毛、紫。」
『だーかーらー、何度も言ってるじゃん!んなこと気にするなって!』
「うっさい!あーもう見失うだろ!切るぞ!」
『しょうがないなぁもう。母ちゃんにもそう言っとくわ。ま、頑張れ』
「だから……っ!」
母ちゃんに言うって、何て言う気だ。通報されたらどーすんだよ。倖のこめかみをたらりと冷や汗が流れおちた。
いや、ここは柴田の母ちゃんを信じよう。
あいつは、拡散してたら殺す。携帯を握りしめて倖はそうひとりごちる。
そうこうしているうちに彼女は右手にある小さな一軒家に入っていく。駐車場には黒の乗用車が一台止まっていた。表札は〝HAYASHIDA〟となっている。
はやしだ、林田さん、だろうか。
怪しまれないように一度通り過ぎ、すぐのT字路の角に身を隠した。時刻は夕方6時をまわったところだった。
犬の散歩をしている学生やら買い物帰りのばあさんなどが通りすぎていくのを横目で見ながらスマホをいじる振りをする。
自宅はつきとめた。
にやける口元を隠しつつこれからのことを思案する。
さて、どうやって接触しようか。
欲を言えば自宅付近で出会いを装うより、彼女の学校、例えば通学途中で出会ったほうが自然な気がする。
高校生だろうか、中学生だろうか。
高校生だったらいいな。
……どこの学校に通っているのだろうか。
ブロック塀から覗き見ながら、あれこれと策を練るがどれもイマイチだった。
手っ取り早く通っている学校を知るには。
この手しかない。
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「おはようございまーす!」
倖は早朝にジョギングしている元気のよいおじさんに元気よく声をかけられ、びくっとしつつ会釈を返した。
スポーツウェアに身をつつみ爽やかに走り去ってゆくおじさんの背中を注視しながら倖は大きくため息をついた。
これで何人目だ。
朝5時に林田家に到着してから、すでに数人のジョガーに挨拶されている。こういう場合、声もかけずに素通りするのが普通なのではないだろうか。
たとえ相手がブロック塀のそばに立ち尽くしている明らかな不審者であろうとも。この地域の挨拶運動と防犯意識の高さには驚かされる。
彼女が出てくる前に通報されるかもしれない。
冷や汗を垂らしながら、早く出てこい、と玄関先を睨んだ。
時間は6時30分をまわっている。
そろそろ出てくるのではないか。否が応にも高なる鼓動。心臓が痛いくらいだ。
2人目に声をかけられた人の良さそうなおばあさんに、倖は林田家のことをそれとなく聞いて身辺調査はすんでいる。
先週越してきたばかりの3人家族。
両親と、高校生の女の子が1人。
女の子が1人。
よし、わかりやすい。
年の近いよく似た姉妹とかだったら、どっちが彼女かわかるだろうか、と心配していたのだ。さすがに母親と間違うことはないだろう。
まだかまだかとやきもきしながら待っていると、がちゃりと扉の開く音がした。
来た!
慌ててブロック塀に身を隠す。駅に向かうなら、こちらに来る。
トコトコと軽い足音が聞こえ、すぐに彼女は角から姿をあらわした。
顔は見えなかったけれど、その制服は。
見覚えのあるシャツと紺のチェックのヒダスカート、エンジと紺の縞模様が入ったリボンが風に揺れる。彼女が着ているその制服は、そう、倖の通う学校の制服だったのだから。




