エピローグ
ずり
……ずり、ぬちゃ
ずり
太陽が西に傾いていく。
辺りの空気が徐々にオレンジ色に染まってゆく。
いつもの学校。
いつもの放課後。
毎日のように繰り返される変わらない日常の風景。
部活をしている生徒は各々の場所で鍛錬に精を出し、用事のない生徒はそそくさと帰路につく。
りんが転校してきたこの高校は運動場を間に挟んで正門と玄関があり、その運動場のど真ん中にサッカーコートがでんと構えていた。
生徒は皆、正門への最短距離を通って帰りたがるが、さすがにサッカー部が走り回っているコートの中を突っ切ってはいけない。ゴールのギリギリ外を、緩くカーブを描くように行くのがこの時間帯の最短ルートとなっていた。
今も何名もの生徒がそのルートで歩いている。
りんはといえば、その最短ルートよりも更に大きく弧を描き、左のブロック塀の花壇そばを1人、歩いていた。
普段ならこんな端っこを通りはしないのだ。ここは正門に行くにはひどく遠回りだし、部活動の生徒のランニングコースでもある。
現につい先ほど、大量の陸上部員のランニングに巻き込まれたばかりだ。
それなのに、ゴールそばの最短ルートをりんが通らなかったのには、理由がある。玄関を出てすぐに、見つけてしまったからだ。
これが、ここを通るのを。
この間は運動場の真ん中を直進していたのに、日によっている場所が違うそれは、ただ時間だけには正確だった。
時刻は16:09分。
だいたい16時くらいから現れるのだが、なぜこの時刻なのか、なぜこの学校の運動場なのか、何もかもわからない。
しかし、毎日この時刻この場所に、これは現れていた。
ずり、ず、ずりゃ
ぬちゃ
ず、ず、
りんの目の前を、赤黒い人間の形をしたものが這いつくばって前に進んでいた。いわゆる匍匐前進に見える。
赤黒く見えるのは皮膚が爛れているからだった。火傷だろうか。それは所々黒く炭化しているように見え、筋肉が露出し、めくれた皮膚がぶら下がり、運動場の土に奇妙な線をつけている。
そう、線を、つけていた。
皆には見えないはず、触れないはず、いるはずのない存在であるはず、の、それは、土に跡をつけているのだ。
現にこの運動場のあちこちには、これの這いつくばった跡がある。大概が体育や部活動で消されてしまうのだが、それでも、人があまり来ない場所には消されずに残っていた。
りんが歩いている、正にこの場所もそうだ。門から塀横を通ると、その先には非常階段しかない。あまり常用するルートではないのだ。
りんはゆっくりと、それの後ろを歩いた。
近づきすぎないように。
追い越してしまわないように。
眼鏡、してるのにな。
ぼんやりと、そう思った。
慶くんに作ってもらった、この眼鏡をしているのに。
玄関を出てすぐに、赤黒く蠢く物に気づいた。驚いて、本当に視えているのか確かめたくて、これのすぐそばまで近づいたのだ。眼鏡を外したりつけたりしてみたが、変わらなかった。
いつもみたいに眼鏡のきれた端にとかではない。眼鏡を通して、視えている。
慶くんの、眼鏡屋さんに行かなきゃ。
なるたけ早く、できれば、今すぐにでも。
ずり、ぬちゃ
ず、ず、ず
べちゃ
目の前のそれが徐に右手を自身の腹につき入れると、何かの臓器を一つ引きずり出し、地面に落とした。
少し黒みがかった赤を纏ったその臓器は、形から何となく、肝臓かな、と当たりをつける。
そう、これの意味の分からないところは、ただ匍匐前進するのではなく、何がしかの臓器を置いていくのだ。自分で引きずり出すのだから、落としていくではなく、置いていくが正しい、と思っている。
毎回全部の臓器を落としていくわけではないとは思う。1個の時もあれば、数個ほど置いていくときもある。
肝臓のある場所で佇んでいるりんの先では、あれが更にいくつかの臓器を置いていた。
そうして正門近くまですすんだそれは、殊更ゆっくりと進み出す。なぜか正門から外に出ると臓器を置いていかなくなるのだ。
置くのは、学校の運動場内だけ。
りんの知る限りは。
目の前には置き土産の肝臓?がテラテラとぬめるように光っていた。
学校を休んでいる篠田さんも今田さんも、この置き土産につまずいて転んだのだ。篠田さんは胃が痛いといって通院中らしいし、りんと倖の後ろで転んだ女子生徒である今田さんは、肺の調子がおかしく精密検査を受けているそうだ。
そう思い巡らしたながら、りんはその臓器の横を通りすぎようと一歩踏み出しかけ、躊躇うように、またピタリと止まった。
このままここに置いておいたら、また、誰か転ぶだろうか?
逡巡したのち、りんはゆっくりとしゃがみ込んだ。
じっくり観察すると、やはりそれは肝臓だった。よくある理科室の人体模型の、あの直角三角形にも似たその独特な形。
模型と違うのはそれがぬたぬたと赤黒く光って見えるところで、実際にそこにあるわけではないとわかってはいるが、肝臓の独特のザラリとした表面の感じや、粘度のある血液がその表面から流れ落ち土にじっとりと染み込むその様は、現実にあるものと何ら見分けがつかず、りんを慄かせた。
大丈夫。
大丈夫。
これは、ここに本当にあるものではない。
だから、大丈夫だ、きっと。
ぎゅっと目を瞑り、りんは大きく深呼吸する。その瞬間錆びた鉄のような、肉が腐ったような独特の腐臭が鼻をついた気がした。
気のせい気のせい、と必死に自分に言い聞かせる。
うっすらと目を開けてみる。もしかしたらそれはなくなっているかもしれない、という淡い期待はテラテラと存在感を主張する肝臓によって裏切られ、りんはため息をついた。
よし。
決意が揺らがないうちに一気にやってしまおう。
震える両手で、目の前に横たわる肝臓をりんは大胆にもわっしと掴んだ。
掴めて、しまった。
感触は、肉そのものだった。
鳥モモ肉を掴んだときのような、いや、それよりも大分柔らかくて崩れそうな感触で。指の間からにゅるりと血液が溢れ伝わっていくのが、ひどく気持ち悪かった。
なぜか温かい気もするその臓器を、りんはすぐ横の花壇のブロックまでそろりと運び、その上にそっと置く。
肝臓はゆっくりと弛緩し赤黒い血がブロックを滴り落ちていった。
りんはくるりと向きを変え、あの赤黒い人のようなものが置いていった物を、今度からは躊躇いもせずに次々とブロックの上へとよけてゆく。花壇のブロックにはあっという間に、等間隔に置かれた気持ちの悪いオブジェが完成した。
振り返ると、運動場の土の上には血液が赤黒いシミを点々とつけている。それが消える様子を全くみせないので、りんは途端に不安になった。
りんの両手は、今し方殺人をおこしてきたかのごとく赤く染まっている。
なんとなく両手をぎゅっと握りしめ、運動場の生徒からは見えない花壇側へと心持ち傾けながら、りんは正門へと歩きだした。
見えていないだろうとわかっていても、血まみれの手を堂々と振って歩くのは勇気がいった。
正門まで来るとあの赤黒い人のようなものが、道路を横断し終わり、角の商店へと入っていく。
それは毎日のルーティンだった。
あれは、学校を出発してあの商店へと帰っていく。
商店の関係者なのか、それともただ単に通り道なのか。
りんにはわからないし、わかろうとも思わなかった。視えるだけで何もできないのだから、何もするべきではないのだ。
たった今臓器を横によけてきたことは棚に上げて、りんは思った。
ふと見ると、さっきまで濡れた感触や臭いまでしっかり感じていたというのに、りんの両手は何事もなかったかのようにきれいになっていた。
運動場はどうだろう、と後ろを振り返ったりんの目に、点々と続く赤いシミと、花壇のブロックにテラテラと光る等間隔に並べられた臓器が目に入る。
視えるだけで何もできないのだから、何もするべきではない。
わかっている。
わかって、いるけど。
けれど篠田さんや今田さんがそうだったように、少しだけ見知った顔の生徒や先生、そしてそう、倖が、もしかしたらあれにつまずいて苦しい思いをするかもしれない。
そう思ったら手を出さずにはいられなかった。
だからといって、この作業を繰り返しできるのかと聞かれれば、無理だと答える。
あれは毎日現れる。
毎日、同じ時間にこんなこと、できるわけがない。おまけにあれはサッカー部が走り回っているコート内にも現れたりするのだ。
倖と一緒に帰る時などは特にそうだ。何やってんだお前、と不審に思われるに違いない。
そうして、はたと気づく。
この先、また前のように、倖と一緒に帰ることがあるのだろうか。
りんのいとこは倖の探していた人物とは違った。違うどころかりんが余りにも斜め上だったせいでひどく落ち込ませてしまった。多分すごく怒ってもいるはずだ。
その証拠に、今日は倖に話しかけられることはなかった。お昼も一緒ではなかったし、ここのところの恒例だった、放課後どこ行く論議もなかった。
連絡先を聞きだす、という関係性が失われてしまったし、倖がこれ以上りんに関わってくるとは、到底思えなかった。
視線を前に戻し、とにもかくにも慶の眼鏡屋へと急いで行かなければならない、と思い直す。
りんは重い足取りで駅のある右手の道路へと歩き出した。
了