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戸建ての住宅に引っ越してきてよかった、と思う最大のポイント。
それは、お風呂だった。
広々としたリビングでも、誰に気兼ねすることのない1人部屋でもない。
お風呂なのだ。
最新の、どういう仕組みなのか床があったかく感じたり柔らかかったり滑りにくかったりお湯が勝手にたまったり、そんなお風呂ではない。
りんは後ろで結んだ三つ編みのゴムをほどきながら、ちゃぽんと湯船につかった。
ほぅ、と息を吐きながらゆっくりと顎先まで沈み込むと、眼前に三つ編みのままの黒髪が揺蕩ってそよぐ。
それが上の方まで解ける気配はない。きつく編んでいる上に量も多いので、水に浸かっても一向にほどける様子はなかった。
よくあるユニットバスだ。全体的に薄いベージュで清潔感のある。
以前の住居はアパートだったので、いわゆるトイレがお風呂と合体しているタイプだったのだ。おかげでずいぶんと父親にトイレを我慢してもらった。
仕切りのカーテンはもちろんあったけれど、しかしまぁ、なかなか自分がお風呂に入ってるときにすぐそばで父親に用を足して欲しくはないわけで。
それを考えるとトイレとお風呂が別になって一番喜んでいるのは、父親かもしれない。
りんはメガネが曇るのもそのままに、バスタブの中でゆっくり伸びをした。
トイレ待ちしている父親に気兼して手早く済ます癖がついているので、あまり長湯をする方ではないが、それでも時間を気にせずゆっく入浴できることは嬉しかった。
入浴剤の爽やかな香りを楽しみながら、ふと、暗くなったからと、図書館から自宅まで送ってくれた倖との道々の会話を思い出す。
明日はどこ行くか考えとけよ、と言われたので、また図書館でいいか、と聞けば図書館は嫌だと言う。意外なほど集中して本を読んでいたので、てっきり二つ返事でOKが出るもんだと思っていたのだが、図書館は行かないと頑として譲らなかった。
さらに、お前は図書館でよく寝るのか、と不機嫌そうに聞かれた。引っ越してきてから今日を含めて7回ほど行っているが、そのうちの2回は寝てしまっている。
ソファ席はふかふかゆったりとしていて座り心地ちがいいし、西日が入ってくると更にぽかぽかとしてこれまた気持ちがいいのだ。座ってしまったら、寝ない、ということのほうが難しかった。
図書館では二度と寝るな、とすごまれたのでとりあえず頷いておいたが、なぜそんなことを注意されなきゃいけないのかよくわからなかった。
確かに今日は爆睡してしまって、大分倖を待たせてしまったことは悪かったと思うのだが、あまりにも一方的に言われたためにカチンときてしまった。
じゃあ明日の寄り道は倖くんが決めてください、とつっけんどんに言うと、ものすごく嫌そうかつ死ぬほど面倒くさそうに了承してくれた。
結局倖は自宅前まで送ってくれたのだが、そこで帰宅してきた父親に会ってしまったのは、ちょっと気恥ずかしかった。倖くんは慣れている?のか、スマートに父に挨拶し、暗くなったので、と断りを入れて帰って行った。
そのときの父親の驚きようは、今思い出しても、なんだかやっぱり恥ずかしい。
彼氏か、と聞かれたので、違う、と答えたがはたして信じてくれたかどうか。倖くんが金髪だったことが動揺を大きくしたようで、しばらく挙動不審だった。
彼氏、か。
彼氏ができたら、こんなかんじなんだろうか。
りんがブクブクと鼻下までお湯に浸かると、またすぐに眼鏡が曇って何も見えなくなった。
今まで彼氏ができたことはないけれど、こんな彼氏ができたらいいな、という自分の想像の男性とは、倖はかなりタイプが違う。
違う、けれど、最初の印象とは大きく異なる倖の普段の様子にりんが毎日驚かされているのも、また事実だ。
それに、倖を知れば知るほど、倖にいとこの連絡先を教えない、という理由付けが揺らいで胸が痛かった。
信用度50%くらい、なんて偉そうに倖に言ったのは、つい先日のことだ。
でも。
もう、こんなことは止めにして早く倖に教えるべきなのでは。
後ろめたさも手伝って、ぐるぐると同じことを考え続けている。
連絡を取り合って、それから2人がどうするかなど、2人が決めることだ。
もっと言えばりんは第三者であり、部外者なのだから。
明日、あした。
勇気を出して、みようか。
りんはお湯から顔をだし、大きく息を吸った。
長湯したせいで顔が火照って頭がぼーっとした。これ以上入っていたら、のぼせてしまう。
今日はもう手早く洗って、あがってしまおう。
眼鏡の曇りをキュッと一撫でして取ると、りんはゆっくりと湯船からあがった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「おはよー!りんちゃん!」
教室に入ると、すでに席に着いていた迫田さんが挨拶してきてくれた。
教室内の人はまだ少ない。皆が登校してくるにはまだ少し早い時間だ。
りんは机にカバンを置くと後ろの席の迫田さんへと体を向けた。
「おはよう、迫田さん。早いね。」
「うん。今日一本早いバスに乗ったからさー。」
「あれ?バス通学なんだ?」
「そだよ。おうち市内だし。」
それよりさー、とキラキラした目で迫田さんが切り出してくる。
「昨日、倖くんとどこ行ったの??」
「……あはは、どこってほどでもないんだけど、」
「えー、いーじゃん、教えてよー」
迫田さんは駄々っ子のように体を揺すりながら上目遣いで訴えてくる。人によってはうっとおしいと思われかねない仕草だが、彼女がやるとどうにも微笑ましい。
ショートボブのキレイな髪がサラサラと揺れ、あっけらかんとした物言いは悪気がなく、相手に仕方ないなぁと譲歩させる力がある。
これはきっと彼女の長所だ。
「図書館に。返す本があったから。」
「ん?そんだけー?他は?どこ行ったの?」
「えーと、図書館でだいぶ時間たっちゃって、真っ暗になってたから倖くんにおうちまで送ってもらったくらいで、」
「おうち?え、本当に?」
迫田さんは興味津々といった様子で問い返してくる。
「う、うん。……暗かったしね。大丈夫って言ったんだけど。」
首をかしげて真剣に聞いていた迫田さんが、うーん、と唸り何やらほくほくとした顔でにんまりと笑った。
「それって、何だかさ、愛されちゃってるねー。いいなー。」
いやちょっと待って。愛されてない。
「違う違う!あのさ、迫田さん何か勘違いしてるよ。倖くんとはそんなんじゃなくてね、」
迫田さんはちっちっちっと、人差し指を振り口を尖らせた。
「例えね?今何でもない関係でも、あの!倖くんが!女子をおうちまで送るなんて!」
りんちゃんを特別扱いしてるからに決まってるじゃん!と胸の前で固く手を組みうっとりとする。
いやだから、特別扱いって、特別の種類が、違うんだけれども!
「あ、ねぇ倖くん!」
ぼちぼちと増えてきた生徒の中、一際目立つ金髪が教室内に入ってきたのを目ざとく見つけて迫田さんが叫んだ。
驚いたのは周りのクラスメイトだ。ぎょっとした顔で迫田さんを見て、チラリと倖にも視線を送る。そのままガン見する勇気のあるものはいなかったが、それでも気になるのか皆チラチラと様子を窺う。
当の倖は無表情ですたすたと自分の席まで行くと、カバンを投げ出し机に突っ伏して寝に入った。
……さっき起きたばかりではないのだろうかと不思議に思うが、本人はそのままピクリともしない。
「おーい、倖くーん。」
迫田さんが躊躇することなく再度呼びかける。倖はやはりピクリともしなかった。
「うーん、残念。」
倖くんにも昨日の話聞きたかったのになーと迫田さんが心底残念そうに呟いた。
「なんか、ごめんね、迫田さん。」
りんが謝る義理などないはずなのだが、いたたまれなくなって倖の変わりに謝ってしまう。
「いやいや、無視されるのは何となくわかってたし大丈夫だよー。」
と、迫田さんはあっけらかんと手をひらひらと振った。
「ううん、倖くんの態度が悪いと思う。」
ごめんね、と再度頭を下げたとき。
「何でお前が謝る。」
声に驚いて倖の席を見れば、軽く頭をもたげてしかめ面でこちらを見ていた。
「なんでって、倖くん、謝らないでしょ?」
「何で俺が謝らないといけない。」
「……おちょくってるんですか?」
「うっせー」
そうしてまた机に突っ伏して寝始めた。
りんは動かなくなった倖に見切りをつけ迫田さんへと向きなおる。彼女は倖がひどくぶっきらぼうな対応をしたというのに全く気にした様子もなく、身を乗り出して内緒話をするように口元に手をそえた。
「倖くん、怖いね。」
と、なぜか嬉しそうに。
「そう?」
怖いね、という割にはニコニコとして本気で怖がっているようには見えない。優しそうな外見とは裏腹に意外と神経が図太いのかもしれない。
話題は今日の英語の単語テストのことへと移っていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の昼休み。
日課のようになったお昼を一緒に食べるために、倖がどっかとりんの前の席に陣取る。
後ろむきに座りなおしながらバサバサとこれも見慣れた大量のパンをりんの机に落とした。広げていた弁当を心持ち手前にひきよせながら、りんは緊張にごくりと喉を鳴らす。
何でこんなことで緊張しなければならないんだろう、と思いながら、とりあえずご飯の真ん中の梅干しを一気に口に押し込んだ。
酸っっっぱい。
額に手をあててしかめ面をするりんを不思議そうに見ながら、何やってんだお前、と倖が呟いた。
「なんでもありません。気つけ、みたいなもんです。」
「弁当食うのに気つけがいんのか。」
「いや、弁当じゃなくて。」
りんは大きく深呼吸をすると、倖の目をひたと見つめる。
「な、なんだよ。」
「あの、ですね。あの、ここのところ、ずっと一緒にいたじゃないですか。」
「……おう。」
「倖くんといろんな話して、倖くんの行動とか見るにつけ、私なりに、ですね。倖くんて見た目と違って、すごく真面目なんだなぁ、と思ったわけです。」
「……まじめ?」
倖はなぜか嫌そうにりんの言葉を反芻した。
「まじめです。だって、毎日遅刻しないように学校来るし、体育着は予備まで準備してるし、授業もちゃんと受けてるし、」
「……何が言いたいんだ?」
「つ、つまり、ですね。熟考を重ねた結果ですね、んーと、私の直感もあるんですけど、」
「だから、何が言いたいんだ。」
倖はイライラとした様子を隠しもせずにかぶせてくる。りんは焦って視線を下に落とし蚊の鳴くような声でぼそりと言った。
「だ、だから、いとこの連絡先、教えてもいーかなー、て、」
「……。」
何も返事がないことに不安になりチラリと前を見ると、倖はあんぐりと口を開け手にした焼きそばパンをポトリと落とした。焼きそばがパンからきれいにこぼれ落ち、焼きそばパンは焼きそばとパンになった。
「まじで?」
「まじです。」
りんがコクリと頷く。倖は放心したように前のめりに俯くと再度、まじか、と呟いた。そうしてゆっくり体を起こし、にんまりと嬉しそうに笑った。
「だよな。だーよーな。俺、頑張ってたもんな。」
一週間かかんなかったな、と倖はうんうんと1人頷き、よっしゃっ、と小さくガッツポーズした。
「よく考えたら、私が判断するのもおかしな話だな、と思いまして。」
「うんうん。」
「いとこもいい大人ですし。」
「うんう、うん?大人?……大人?」
「どうしたんですか?」
腕を組んで首を捻ると、倖は渋い顔で黙り込んでしまった。
「うーん、てっきり同い年くらいかと思ってたから。いや、でもまぁ、……お前のいとこが当たりってわけでもなかったしな。ダメ元で聞いてみたわけだし……。」
「ダメ元?」
「そ。探してるのがお前のいとこじゃないかなって目星をつけただけで。」
「じゃあ違う可能性もあるわけですか?」
目を見開いて驚いたようにりんが言った。これだけしつこく連絡先を聞いてきておいて、まさか適当に目星をつけただけとは。
捻った首を逆に倒して、倖は悲しそうに頷いた。
「ま、そうだな。」
だったら、とりんは鞄からスマホを取り出すと勢いよく指をすべらしはじめた。
「何やってんだ。」
「これって、先に写真とか見て確認した方がよくないですか?一緒に撮った覚えがあんまりないので、あるかわからないんですが……。」
スマホ内の写真を真剣に探すりんを、倖は手をあげ制止した。
「いや、いーや。連絡先は教えてくれる気になったんだろ?だったら自分で連絡して実際に会って確認するよ。」
「……そうですか??………母のスマホになら、写真、あると思うんですけど。母から送ってもらってもいいんですよ?」
「いーったら。何つうかほら、今あっさりと答え合わせしたくないっつーか、もう少し希望を持っていたいというか。」
「……希望?」
倖から飛び出した単語にりんは驚く。いや、薄々と、まさか、とは思ったりもしていたのだが。
「希望ってあの、それって、」
「振られんのもショックだけど、またどこの誰かもわからない振り出しに戻るのもショックだしな。」
倖は先ほど落としたバラバラになった焼きそばパンを器用に元の袋に戻しながら、ブツブツと小さく呟く。
「……フ、フラレルってことはですよ、倖くんがいとこに好意を持っていて告白的なことをしたいと、そんなとこですか?まさか?」
汚れた机を拭こうとウェットティッシュを取り出すと、倖も自分の鞄から同じくウェットティッシュを取り出す。りんを制して倖はキュッキュッと机を拭いた。
「まさかって何だ、まさかって。失礼だな。俺が告白したらいけないってのか。」
声を潜めながら、ついでに眉も顰めながら抗議してくる。
「したらいけないとか、そういうことじゃないです!……倖くんのイメージ的には、するよりされる側?的な?それに、まぁ、好みは人それぞれ、ですし……。」
中断していた食事を再開するべく倖はアンパンマンのパンを取り出しかぶりついた。
「珍しいですね。菓子パンなんて。それ、中身何ですか?」
「ん、チョコ。売れ残ってたから。じゃねーよ。聞き捨てならんぞ。好みは人それぞれ?……怖いこと言うなよ。……よし、一個聞いていーか。」
りんもようやくフォークを手に唐揚げを頬るとジェスチャーで、どうぞ、と示す。
「あのさ、お前のいとこって、かわいいよな?」
「かわいい、ですか?……かわいい?うーん、かわいいって、いうよりは、わたしにとっては、かっこいい、の方がしっくりきますかね。」
倖はごくんとアンパンマンパンを飲み込むと不思議そうな顔をした。
「かっこいい?かわいいの間違いじゃないのか?……いやいや、それこそ見る人間によるのかもな。そういうのって。好みの話じゃないが、人それぞれってやつ?」
ソーセージを口に運びながらりんも頷いた。
「……そうですね。そうかもしれません。私は親戚という目で、倖くんは好意を持っている目で見ているわけですからね。お互いにフィルターがかかった状態で見ているのかもしれません。」
「だな。……あー、そういや、その、連絡先ってーのは、いつ教えてもらえるんだ?……今すぐにでもいーぞ、俺は。」
半分になったアンパンマンを両手でもじもじと弄びながら、倖が照れたように言う。
「あ、それなんですけど、ちょっと待ってもらってもいいですか?一応いとこにも教えていいかどうか確認してからにしようかと思って。」
明らかに落胆した表情で倖がこちらを見る。
「まだるっこしいなぁ。ぴゃっと教えてくれりゃーぴゃっと自分で連絡取り合うのに。」
「よく考えたら、教えた後で叱られるのも嫌ですしね。」
「……しゃーねーな。待ってやるよ。」
「ありがとうございます。……ん?何か私がお礼言うのっておかしくないですか?」
機嫌よくパンをがっつきはじめた倖を横目に、りんはご飯をパクリと口に入れる。
「おかしくはない。まぁ、でも、言ってやってもいいぞ。さんきゅっ!」
余程嬉しいのか妙なテンションの倖に眉を顰めながら、どういたしまして、とりんは返した。
「……そうだ。今日はお出かけやめときましょうか。」
「だな!あ、家まで送ってやろか?」
「いえいえ、ちょっと、考え事しながら帰ろうと思うのでひとりで大丈夫です。」
「そうか、でもまぁなるだけ早く帰れよな。何だったら早退してもいーくらいだ。」
「しませんよ、早退なんて。」
りんは口の中のものを飲み込むとパックのオレンジジュースに口をつける。
いとこに何と切り出そうと考えながら、りんは軽くため息をついた。