9
倖がどこに行くか悩みまくっていた日の、その放課後。
りんが年季の入った木目の下駄箱で靴に履きかえていると、やおらちょいちょいと肩をつつかれた。
肩をつつきあうような友人はいないのに、と恐る恐る振り向くと、なんのことはない。
迫田さんだった。
「りんちゃん今日も倖くんとお出かけ?」
「うん。まだどこに行くかは決めてないけどね。」
「そっか。」
そうして彼女は少し先にいる倖をチラリと見ると、がんばっ、と小声でりんに向けてガッツポーズをした。
なんの応援ですか?
と言いかけて、りんは口をつぐんだ。彼女の背後、しらけた目でこちらを見据えるクラスメイトの女子が2人。
応援されるような何かがあるわけでもないのだが、何度も違うと否定しても、納得し難いのだろう。
迫田さんはともかく彼女たちの白けた視線には冷や汗のでる思いがする。
クラスに馴染みたくてしょうがなかったのは確かだが、何か手を間違えたような。
じゃあ行ってらっしゃーいと屈託なく、ぶんぶんと大きく手を振る迫田さんに気圧されるように、とりあえず小さく手を振った。
「いくぞー」
のんきな声で先に進む倖が呼ぶ。
男の子というのはきっと、こういう女子のあれやこれやなんて全く知るよしもないのだろう。
とっとっと小走りに横にならぶと、倖が意味ありげにチラリとりんに視線をむけてくる。
「なんですか?」
「いや、大丈夫か。」
「なにがですか。」
「あれだよ、さっきみたいな、ああいう陰険なかんじなの。」
「……気づいてたんですか?」
「気づくだろ普通。」
「……陰険て言ってもそこまでひどくはないですよ。まだまだ挽回できます。」
「何を挽回するつもりだ。」
「お友達になることです。幸い迫田さんは話しやすくて優しい感じなので嬉しいです。」
「……ちょっと待て。」
「どうしました?」
唐突にピタリと足を止めると、倖がりんに向き直る。つられてりんの足も止まった。
「あいつらと仲良くなる前に、まず俺からだろ、順番的に。」
りんは軽くため息をついた。
何を言っているのだこの人は。
「はいはい、わかってますよ。連絡先欲しいですもんねー。」
りんは半ば呆れたように倖に答えて、歩みを再開させる。
小馬鹿にしたような言い方をするりんに、倖はむっとして口を開く。
「俺はけっこう仲良くなってるつもりだぞ。」
「……まぁ、そうですね。正直、私も、予想外です。」
「俺も予想外だった。1日で嫌になると思ってたのにな。」
「1日、は早くないですか。」
「1日でももったらいい方なんだよ、俺の場合。耐えられねーもん。」
耐えられないって、何に耐えられないというのか。
「あの、さ、」
追いついてきたりんと並んで歩きながら、倖が躊躇いがちに口を開く。
「さっきも言ったけど、俺、けっこう仲良くなってるつもりなんだよな。……あとどれくらい仲良くなれば、とかちょっと教えてくれたらテンションあがるんだけど。」
真剣な表情の倖に、りんは困惑する。やはり、ここが問題なのだ。
仲良くなる、の線引き。
ただ、これはもう、仲良く、というよりも。
「正直、わたしもけっこう倖くんと仲良くなってきているのかな、と思います。というか、仲良く、という言葉を使うからややこしくなるわけで。倖くんにいとこの連絡先教えても大丈夫だ、と思えるかどうか、だと思うんですけど。」
そう、それは信頼とか信用とか、そういう類のものだ。
「まだ大丈夫だ、とは思えない、と。」
倖が悲しそうな顔で呟くので、りんは慌ててフォローする。
「思えない、とまではいかないんですけど、……うーん、50%くらい、でしょう、か、」
本当は、もう教えてもいい、と思っている。
けれど、まだもう少し友達ごっこをしていたくて慌ててりんは嘘をつく。
「……それって俺のこと50%は信用してくれてるってことか。」
そうとも言いますね、とりんが頷く。
「一週間で50%てことはあと一週間で100%だな?」
「え?……そんな単純計算、されても、」
「なんでだよ。可能性はあるだろ?最短であと一週間って、な。」
倖は明るくそう言うと、よし!と両手を突き上げ、がんばるぞー!と叫んでいる。
「おまえも頑張れよな。他のやつらと話す暇があるんだったら、まず俺と話せ。」
なぜ私が頑張らなきゃいけないのか、と思ったけれど、少し面倒くさくなってきたのでぞんざいに頷き、倖を置いて歩き出した。
「はいはい、ほら行きますよー。」
「あ、面倒くさいって思っただろ今。」
「思いました。」
おまえなー、ぼそりとごちる倖は続けて口を開いた。
「てか、そういやどこ行くんだ、今日。」
俺もうネタ切れだけど、と続ける倖にりんは動きを止める。倖がネタ切れしているのであれば、りんなど言うに及ばずだ。
「一度行ったところでよければ、また本を返したいなーと思ってるんですが。」
「図書館か。」
「倖くんがよければ。」
「別にイヤではない。」
じゃあ、図書館に行くということで、と倖に返事をして、正門に向かって歩く彼をりんはさりげなく右側に誘導する。
「お、なんでこっち寄ってくんだよ。」
「いいじゃないですか別に。」
いつも校庭のど真ん中を占拠して走り回っているサッカー部員は、今日はまだいない。
大きなサッカーコートを真っ直ぐ正門へと突っ切る先には、特に障害物などは見当たらない。
が、若干左に寄ると、あるのだ。
障害物が。
先ほどからチラチラと端から見えていたそれを倖を見る振りをして、再度位置の確認をする。
それとなくは難しいので、嫌がらせのように右に倖を押していった。
「おい、邪魔。」
予想していなかったタイミングで頭を倖に押されて思わずよろける。すると、倖が慌てたようにはっしとりんを支えてくれた。
「ほらな!」
「なにがですか。」
「おまえ、飯食う量が少ないんだって!」
ちょっと押したくらいでフラフラしやがって。
ぶつくさ言いながらもきちんと支えてくれるのだから、まぁ、優しいのだろう。
2人で右に左にとフラフラ歩いているうちに正門まできてしまった。正門を過ぎると左右と前と進む道が分かれる。図書館は駅と同じ方向、右の道に行かなければならない。倖と言い合いながら右に曲がりかけた、その時。
「きゃあっっ!」
すぐ後ろで聞こえた悲鳴に振り向くと、女子生徒が何もないところで派手に転んでいた。迫田さんがしゃがみこんで助けおこしている。
転んだのはりんに白けた視線をとばしていた女子の1人のようだ。
「なんであんなとこで転ぶんだ?」
頭越しに倖がつぶやいた。
「……なんででしょう。」
とりあえず、そう、答えておく。
転んでしまった女子生徒は、てへへと照れ笑いを浮かべ迫田さんの手を借り立ち上がると、スカートについた土を払い、首を傾げながら歩き出した。
彼女たちの周りに、とりあえず、障害物は見当たらなかった。
りんは視線を正門の方へと戻す。
右の道路へと進みかけて止まったままの倖の横、眼鏡から外れたぼやけた視界に赤黒い何かがぞろりと動く。
何かは倖の横をゆっくり進む。
倖は全く気づかずそれと一緒に並んで歩き出した。
りんは、ゴクリ、と生唾を飲み込んだ。冷や汗で手のひらが気持ち悪かった。
精一杯気づかぬフリをして、倖のあとに続いて歩いた。
図書館に行くには右の道に行かなければならない。
あれはきっと、まっすぐ進む。
大丈夫だ。
横目であれがまっすぐ進むのを確認すると、倖のあとを追いかけて、りんは小走りに左へと曲がった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
市立図書館はりんのお気に入りの場所だ。といっても他の場所になど、まだほとんど行ったことはないのだが。
とくに目立った施設があったりイベントをやっていたりするわけではないが、ふんだんに木材が使われていて、とても落ち着くのだ。
席も自習机から1人掛けのテーブル席、あちこちに点在する木製の座り心地の良い椅子、クッション性の高いソファのカップル席などバラエティーに富んでいる。
りんが本の返却作業をカウンターでしている間、倖は以前りんに付き添って来たときと同じように手持ち無沙汰にあちこち眺めていた。
「お待たせしました。今日は何冊か借りようと思っているんですが、いいですか?」
「おう。何借りるんだ?」
「特に決めてはいないんですが、推理小説で面白そうなものがあればと思って。」
「推理小説ねぇ。」
「……倖くんは本とか読みますか?」
「読む。割と好き。」
倖をの返答にりんは素直に驚く。意外だ。
偏見を持っているつもりはなかったのだが、興味なさそう、と決めつけてしまっていたらしい。
「どんな本を?」
「んー、何でも読むけど。」
何でも、とは?
疑問に思っているのが伝わったのか、倖はニヤリと笑いこちらを覗き込む。
「まぁ、エロいのからエロいのまで?」
「そ、そーですか。」
「あ、けっこう時間かかる?」
「……倖くんがいいなら1時間くらいはゆっくり見たいなと思ってるんですが。時間大丈夫ですか?」
「大丈夫ー、おれ、あっちで雑誌読んでるわ。」
終わったらこいよな、と、とっととソファ席の方へ行ってしまった。
はたしてあの場所にエロい雑誌があっただろうか。
雑誌コーナーでしゃがみこむ倖を目で追いながら、りんはいそいそと推理小説コーナーへと足を向けた。
りんが3冊の本を借り、さて倖はどこにいるだろうかかと探していると、少し奥まった場所にあるソファ席で彼は熱心に雑誌に見入っていた。
りんが来ていることにはまったく気づいた様子もない。雑に組んだ足に大きめの雑誌を広げ、倖は文字を追っていた。
ソファの前にあるローテーブルには雑誌が山となっている。
読み終わったのか、それとも今から読むのか。
すぐそばまで近づいても、集中しているのか、倖は一向にりんに気づく気配がない。
そっと彼の手元にある本を覗き込むと、何やら宇宙の絵がダイナミックに画かれている。
どうやらエロい雑誌ではないようだ。
声をかけようか、もう少し待つか、りんは少しだけ迷うと、倖の邪魔をしないようそっと向かいのソファに腰を下ろした。
空調がしっかり効いた図書館は、りんには少し肌寒い。しかし、この席は背後から西日があたり、ぽかぽかとして何とも気持ちがよかった。
これからの太陽の傾きを考えると、この席全体が日差しに包まれてしまうのも時間の問題だろう。そうしたらきっと日の光に当たって倖の髪がキラキラと、きっと綺麗に違いない。
黙々とページを捲る倖を見ながらりんはそう想像し、気持ちのよい暖かさに誘われるように目を閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
眩しい。
俯いていても差しこんでくる強い日射しに、倖は眉をしかめた。紙面も斜めに照らされて白み、ひどく読みにくくなっている。
集中が途切れてため息をつくと、倖は顔をあげた。
目の前にある、一面の掃き出し窓からの西日が、ちょうど倖の顔あたりまでを照らしていた。
まだまだ夏の終わりで日中は暑いが、ここのところ朝晩は冷え込むようになってきている。
斜陽は倖の座る左側を照らしポカポカと暖かかいけれど、これでは眩しくて本を読むどころではない。
窓にはロールカーテンが設置されているが、あれを閉めにいくより横にずれた方がよさそうだ。
ソファはカップル席となっているが、影となっている倖の右となりには誰も座っていない。金髪だと人があまり近寄ってこないが、こういう時にはプラスになる。
ずり、と僅かに横にずれただけで西日がそれ、視界が少しましになる。軽く瞬いて暗さに目を順応させながら雑誌へと視線を落としかけ、倖は驚いて目を見開いた。
倖の目の前にはローテーブルを挟んでもう一つ、ソファのカップル席がある。
そこで、林田りんが寝ていた。
倖からみてソファの左側に座り肘置きに体を預けるようにやや斜めになりながら器用に寝ている。
それはいい。
その横にいる、そう、横にずれたおかげで倖の目の前に座っている、このデブのおっさんは誰だ。
ソファはカップル席だが、そうはいってもある程度のゆとりはある。なのにこのおっさんのりんへの密着ぶりは何だというのか。
おっさんは仕事帰りなのか、背広の上着をりんと自分の膝に半分ずつ(!)にかけ、その上に何かの雑誌を広げている。その白いシャツは空調がきいている室内にいるとはとても思えないほど汗でびっしょりと濡れ。
それはいい。
その状態で林田りんに密着しているだけなら、まだ許せる、セーフ(?)だろう。
しかしあろうことか、膝にかけられた背広の隙間からおっさんの左手がりんの左手と手をつないでいるのが見えてしまった。
右手は背広の中へと消えている。おそらくりんの太ももあたり。
もしかしたら、もっとその先へと。
ガン!!
考えるより先に体が動いていた。
目の前に置かれたテーブルを倖は思い切り蹴りつけていた。
びくり!と身じろぎして固まったおっさんがこちらをそっと伺いみる。その膝の上から背広がぱさりと床へと落ちた。
おっさんの右手はりんのスカートを太もも半ばまでたくしあげ、その先へと消えていた。
瞬間立ち上がって机を乗り越えようとした倖よりも早く、おっさんは上着とカバンをひっつかんでばたばたと逃げていく。
逆光で顔が見えなかった。
ちっ!と大きな舌打ちをして、追いかけるか逡巡するも乱れたままのスカートで爆睡するりんを見て思いとどまる。
何事かと何人かの視線を感じたが、図書館の中でも奥まった席ということもあってか、大きな音を立てたわりには職員もやってこない。
そしてこいつも起きない。
なぜ起きない。
イライラとしたまま雑誌が散らばったテーブルを乗り超えて、どっかとりんの隣に乱暴に座った。
スカートの中に手を突っ込まれてなぜ起きない。
自分など襲われるはずがないとタカをくくっているのか。
それとも今までそんな危機など感じたこともないほどノンキな日常だったのか。
もしくは、両方か。
チラリと下げた視線の先にはりんのふっくらとした太股とソファに投げ出された左手。
たくしあげられたスカートが目に痛く、そっと手を伸ばしておろしてやる。
その時少しだけ触れたりんの太股のヒンヤリとした感触にドキリと胸がざわめいた。
これでは童貞みたいではないか。
女の太ももなんて、飽きるほど触ってきただろう。
倖はその感触を忘れるために、殊更強く手を握りしめフルリと一つ頭を振った。
こいつは林田りんだ。
かわいくないのだ。
それに俺は、あの子のことを。
太ももの色の白さにどきりとしたとか、耳から肩のラインにどきりとしたとか、ヒンヤリとした触り心地の良さそうな肌の感触とか、そういったことはこの際置いておく。
多少どきりとしたのは欲求不満のせいだろう。
ここのところヤってないし。
倖はアホみたいに寝こけるりんを半眼で見下ろす。
いつまで寝る気なんだこいつ。
ちっとも起きる気配のないりんを横目でみながら、叩いて起こすか起きるまで待つか、少し悩んだ後、倖は後者を選んだ。