プロローグ
ガタン。
所々に錆の浮く、緑色した古びた鈍行列車。
毎日毎朝たくさんの乗客を乗せて住宅街をガトゴトと走り抜ける。
カーブにさしかかると、ギギィと車体ごと軋みながら傾いた。
次々と移り変わる車窓からは屋根に反射した日差しが目に痛かった。
萌えるような緑の木々と家家と、変わりばえのしない景色が延々と流れている。
そうしてレールの継ぎ目で電車は大きく揺れた。
ガタン、タン。
車両が再度、大きく揺れた。
適度に混み合う車内では、皆、何でもないことのように器用にその揺れを相殺している。
その中にあって、セーラー服の少女だけがひどく目立っていた。
白いセーラーに身を包んだ彼女は大袈裟によろけてポールをつかむ。電車に乗り慣れていないのか、はたまた恐ろしくバランス感覚が悪いのか。ちょっとした揺れですぐによろよろとたたらを踏む。
だから、というわけではないけれど。
倖尊は、そんな彼女から目をはなすことができなかった。
白いセーラー服。
襟の縁取りとスカートはグレー。
彼女がむこうを向いているので、残念ながら見えないけれど、もしかしたらリボンもグレーなのかもしれない。
顎のラインでそろえられた短めの髪。
その向こうに見える、頬の丸み。
目がはなせない理由は、その制服がここらへんの学校のものではないのが物珍しかったわけでも、その子がよろよろとよたついて危なっかしくて仕方なかったわけでも。
そのどちらでもなかった。
一瞬。
つい10分ほど前の、電車が大きく揺れてよろけた彼女がこちらに向けた、顔、その表情。
その一瞬で、目がはなせなくなった。
こんなに儚げでかわいらしい子に出会ったのは初めてだった。
その証拠に。
彼女の2,3m前にたむろしている男子高校生達がチラチラと彼女を見ては盛り上がっているし、隣に立つ背の高いハゲ親父も、胸が見えてしまうのでは、という角度で彼女を見下ろしている。
男たちの視線の中心でよろける彼女は驚くほど無防備で、また違う意味で倖には危なっかしくみえた。
彼らがそのうちよろけた彼女に手をかすのではと、お門違いの焦りさえ覚える。
そのくせ、倖自身の手を差しのべることはどうしてもできないでいた。
差しのべたい気持ちは強い。
強いけれど。
倖はだらしなく開けっぴろげた自分の学生シャツの胸元を、右手でぐしゃりとかきあわせる。
その下に着ているのは派手な赤のTシャツ。
学生ズボンは限界までさげて、いや、トランクスが見えているのは、限界を超えているか。
中学に入ってすぐにあけたピアス。
2年にあがる頃に染めた金色の髪。
わかりやすい、これ以上ないくらい、わかりやすい格好だ。
そうして彼女の隣にはあまりにも似つかわしくない格好だった。
電車が少しずつスピードを落としていく。次の駅の名前がアナウンスされると、彼女は倖の方へと顔を向けた。
いや、倖のむこう、車窓に流れこんでくる駅舎を確認しているのだろう。
その、表情。
先ほども見た。
彼女の顔。
眉根をよせた、少し辛そうな、悲しそうな表情。
どんな出来事があったら、そんな表情ができるのだろう?
電車がゆっくりとプラットフォームに停車した。
彼女は人波をよけて少しずつドアの方に移動しながら、リュックから眼鏡を取り出して、かけた、ようだ。
降り口はむこう。
彼女の側。
眼鏡をかけるとどういう風に変わるのだろう、と興味はあったが、見える位置に移動することはできなかった。
こちらから視認できるということは、彼女が倖に気づく可能性があるということだ。
彼女は背中を向けて、人込みに紛れるように降りていく。
追いかけようと思えばできた。
追いかけるべきだった。
でもできなかった。
理由は簡単だ。
格好いいと思い好き勝手にしていた身なりが、それまで、誰に恥じることもなかったこの身なりが。
彼女に見られると思ったとたん、急に恥ずかしくて仕方なくなったのだ。
だからひたすらにプラットフォームに降りてしまった彼女のことを視線で追いかける。
彼女はしばらくキョロキョロとしていたようだが、やがて改札の方へと歩いていく。
当たり前だが、こちらを振り返ることは一度もなかった。
その翌年の夏。
ニュースでは連日最高気温の更新が叫ばれ、それを実感を持って肌で感じるようなじりじりとした暑さの朝。
倖は中学3年生になっていた。
あれから1年。
金髪はやめた。
ピアスも取った。
穴ももう塞がっている。
服装も、中学3年生然とした、正しい着こなしを心がけている。トランクスももちろん、はみ出ていない。
いつ、出会ってもいいように。
そう、今ならすぐに声をかけるのに。
けれど、あれからどれだけ探しても彼女はみつからなかった。
同じ電車の車両の隅から隅まで見てまわった。
時間をずらして様々な路線に乗り込んでみた。
付近の学校の制服を調べて見にいったりもした。
それでも、彼女の影どころか同じ制服を着た子さえも見つけることができなかった。
しかしそれも今日でおしまいだ。
探しても探してもこの1年間全く見つからなかった彼女が、今、目の前にいる。
倖は跳ねる鼓動を押さえようと、知らず胸に手を押し当てていた。
視線は5つ先の座席に釘付けになっている。
向こうをむいて座っている、白いセーラーの女の子。
襟の縁取りはグレー。
きっとスカートも。
髪は少し伸びて、肩よりも長く。
眼鏡は、かけていないようにみえる。
よし。
倖は心の中で気合いをいれた。
行くしかない。
今日を逃せば、またいつ会えるのかわかったものじゃない。
声をかけてからもたつかないようカバンの中にあるはずのマホを探す。
話しかけて、友達からでっということで、すかさずLINEを交換するために。
が、見つからない。
手の届くところのポケットに放り込んだはずなのに。
一分ほどだろうか、彼女から目をはなしたのは。
やっとスマホを見つけて顔をあげたときには、先ほどの席に彼女の姿はなかった。
うそだろ。
倖は慌てて周囲をキョロキョロと探した。電車はいつのまにか停車している。車内にドアへとむかう人の波がおこる。その中にいないかと目を皿のようにして探すが見当たらない。
去年、彼女が下車した駅は確かまだだいぶ先だからと油断していた。
こんなことなら先に声をかけとくんだったと、後悔が押し寄せる。
まさか、降りてないよな。
倖は車窓にへばりつくようにして小さな駅舎を確認しはじめる。
……いた。
彼女は駅舎を見上げるようにしながら改札口へと歩いていた。
なんてこった!
ジリリリと鳴り響く発車ベルに、倖はガバッと身を起こし窓から飛び退くと一目散にドアへと走った。数瞬間に合わず、数歩先で閉まったドアを倖はダン!と力任せに叩いた。
ガタン、と電車が動き出した。
彼女がいた駅は、あっという間に後ろへと遠ざかっていく。
うそだ。
一年どんだけ探したと思って。
先に、声さえかけとけば。
自分の不甲斐なさに腹が立った。
思わず手に持っていたカバンをドア同様に力いっぱい床に投げつけた。
肩で息をしながらも周囲の乗客が驚いて一歩下がったのがわかった。遠巻きにチラチラと視線を受けながら、カッコ悪り、と自嘲気味に呟く。
投げつけたものは、拾わなければならない。目を閉じてから、ゆっくりとカバンを拾った。
周囲の乗客がドン引きしているのが手に取るようにわかり、倖はげんなりとした。他人の視線とかどう見られているのかとか、そんなものは倖にとってどうでもいい類のものではあるが。
まじでかっこ悪すぎる。
今回の失態は自分でもしばらく許せそうにない。
次に会えるのは‥‥。
また一年後か?
電車はスピードにのって走り出す。
その振動に身を任せながら、倖は大きな溜め息をついた。