常世ノ村ヘ
鳥居を潜るとき、鋼太郎はなんの違和感も覚えなかった。
景色もほとんど変化がない。
が、よくよく見れば、周囲を囲む熊野杉の幹周りが、さきほどよりも遥かに太くなっている。
それに、さきほどまで、〝常世からの襲撃〟に備えて陣地作成に取り組んでいた工作兵の姿が消えている。
また、くぐり抜けた石の鳥居のコケのつき方も違う。
やはり、ここはさきほどまでいた現世ではないのだ。
鋼太郎の二の腕が静かに泡立った。
指揮官の牧が、丸眼鏡のブリッジを中指で押した。
「ふむ、何も変わらんではないか。滑川博士、どうなっているのかな?」
帝大生物学者の滑川が米国人のように肩をすくめる。
「少佐、すべてが変わってますよ。たしかに、おおまかな地形は現世と同じです。しかし、木を見てください。この馬鹿げた太さ。一本一本が名のある御神木かと思うほどです。こちらの世界では、木こりたちに切られることがなかったんでしょう」
「む、木か。それくらいは気づいていた! さあ、さっさと村とやらに案内しろ!」
滑川は猟師と顔を見合わせると、黙って先に立った。
大阪毎朝新聞の女性記者、花鳥飛鳥が鋼太郎に顔を寄せて囁く。
「ねえ、中尉。少佐は本当に気づいていたと思います?」
彼女は整った顔立ちに、グラマラスな肉体の持ち主だ。超マル秘の常世のことを嗅ぎつけてきたのだから、記者としての腕もある。
彼女は、陸軍のお偉いさんと交渉して、公表を控える代わりに、この偵察隊への同行を勝ち得たのだ。現世に戻れば、日本を震撼させる大ニュースを独占できる。新聞もさぞかし売れるだろう。
「彼がそういうのなら、そうなのでは?」
「またまた、そんな心にもないことを。牧少佐がどういう人かよくご存知のくせに。上海支局のものから、中尉が海軍に転籍した経緯を聞いたんですよ?」
「わたしが知ってるのは過去の彼です。いまの彼じゃない」
「ご立派」
しかし、ぺちゃくちゃ喋っていた飛鳥も、下りの行軍が一時間も続いた頃には、疲労のせいかむっつりと押し黙っていた。
石段を踏み締めながら不機嫌そうに呟く。
「いったい、いつになったら、その村とやらにつくの?」
「この道は、現世で登ってきた山道とそっくりだ。現世と違い、敷石はなく、荒れ果てていますがね。となれば、降り切るまでには、おそらく現世で登ったのと同じだけの距離を歩かなければならないということです」
じっさい、行軍は、さらに一時間に及んだ。
飛鳥はくたびれきってしまい、最後は若い陸軍兵たちに背負ってもらうハメになった。
鋼太郎も背嚢の重さを感じ始めた頃、森が開け、海が見えた。思っていた通り、海岸線の形も現世にそっくりだ。
観光名所である〝神武の二柱〟まである。これは、海の中に突き出した巨大な二つの大岩、いや、山である。ただし、常世では、岩と岩の間、およそ百メートルの空間に、途方もなく長い〝しめ縄〟が繋がれていた。
目線を下に向ける。現世で熊野村があったはずの場所は、荒れた草むらとなっていた。そのはしに、痩せた畑に囲まれた、ひなびた村があった。家屋の数はおよそ十五軒、人口は五十人というところか。
通りにいた子供たちが、こちらを指差して騒いでいるのが見えた。
滑川が大きく手を振ると、向こうも振り返した。
滑川がいう。
「みなさん。あれこそが、常世の村、皇族の血を引く人々が生きる場です」
牧が落胆したようにいう。
「あれがか?」
と、子供たちが右往左往し始めた。
男が一人、村の中央にそびえる櫓に登り、潘璋を激しくかき鳴らす。
「なんだ?」と牧少佐。
鋼太郎は目を細めた。
「あそこです。村の西の川」
彼の目は、女性におどりかかる人影を捉えていた。距離があるので、はっきりとは見えないが、人影は身長百センチほど。一見子供のようだが、よほど力が強いのか、やすやすと女性を地面に押し倒した。そのざんばらの髪の毛からは、〝角〟らしきものが突き出している。
猟師がぶるりと震えた。
「小鬼じゃ。あれは、わしのじいさまのいうとった小鬼じゃ!」