神武東征伝説
「見間違えに決まってますよ、八咫烏なんているはずがないんです」
紀州熊野山中にて、帝大生物学専攻助手の滑川慎一郎がいった。
巨木生い茂る深山とはいえ、三十度を超える真夏日である。ぬぐってもぬぐっても、額や首元から汗が吹き出す。
「だいたい、足が三本ですよ? 生物学的にありえないんです。おえらいさんは進化論というものを知らんのですかね」
ぼやきが、木々の合間にこだました。
先を行く軍人の耳に入ったか、軍人は右手を軍刀に添えてギロリと睨みつけてきた。
「滑川くん、まずいよ」
そういったのは帝大民俗学教授の鉢金剛三だ。名前負けせぬ偉丈夫で、細身の滑川と並ぶとまるで熊だが、気が小さく、学長にあまりに忠実なので、帝大生たちからは「ハチ公」とあだ名されている。
「これは皇紀二千六百年記念事業団の後援を受けた正式調査なんだよ。じつに光栄で身が引き締まる話じゃないか。ね」
軍人がもっともだというように、小さく頷いた。
滑川は首を横に振った。
「鉢金先生は人格者ですね」
「はは、別にそういうわけじゃないさ。ぼくは本当に喜んでここに来ただけだよ。なんといっても、神武東征の伝説の地だからね。高天ヶ原に降臨した神武天皇陛下は海を渡り、ここ熊野に到着した。そして八咫烏に案内されて奈良盆地に抜け、大和王権を築いたんだ」
鉢金がうっそうとした杉林を指す。
「見てごらん、この幹の太さ、樹齢千年以上はありそうな古木ばかりだ。このあたりは杉の自生地だからね。きっと、神武天皇陛下の頃からこんな景色だったんだよ。ぼくたちは彼の偉大な御聖道を辿っているときうわけだ」
「聖なる地の割には、あまり手入れがされてませんね。ま、失われた支道ということですが」
彼らの足元には、ボロボロの石畳があった。ひび割れ、苔むし、いまにも崩れそうだ。
鉢金の少し後ろで、案内人を務める地元集落の木こりがいった。
「ここいらは牛鬼が出ますんで、誰も近づきたがらんのです」
「牛鬼?」と滑川。
「田辺市上戸川付近に伝わる妖魔だよ」鉢金がいう。「頭は牛、身体は蜘蛛、毒気を発し、影を舐められたものは死ぬという。興味深いね。田辺と新宮ではずいぶんと距離があるのに、共通する民話があるとは」
しかし、農民は本気で怯えているらしい。キョロキョロと落ち着きがなく、案内人だというのに、さきほどから集団の真ん中に隠れるようにしている。
滑川がいう。
「そんなに心配することはないよ。ご覧の通り、軍人さんたちがこんなにいるんだからね。たとえ龍が出てもなんのそのさ」
調査には深山陸軍基地の一分隊が同行していた。先頭を行く隊長のほか、五人の歩兵が周囲に散開し、八咫烏を捜索している。捕獲用の網を握りしめているが、背にはきちんとライフルを担いでいる。
農民が日焼けした二の腕をこすった。
「恐ろしいことです。恐ろしいことです。龍が出たらみんな死にます」
滑川が笑った。
「おいおい、まさか君は八咫烏だけでなく、牛鬼や龍まで見たことがあるというのかい?」
農民がかぶりをふる。
「わしが見たのは八咫烏だけです。牛鬼と龍を見て生きて村に帰り着いたものはおりません。はい」
「おいおい、みんな死んだなら、誰がどうやって相手が龍だと伝えるんだよ」
「死体です。六十年ほど前になりますが、わたしの曽祖父が山に入って帰ってこんくなりました。三日後、村のもんが、ここから一里ほどの場所で焼け死んどる曽祖父を見つけたそうです。曽祖父の周りだけ、物凄い火に炙られたらしく、木が立木のまま炭になっとったそうです。みな、龍にやられたんじゃいうとりました」
「勘弁してくれ。火を吐く龍だなんて。いいかい? たしかに世の中には奇怪な生物はいる。南米あまぞんには電気を生み出すナマズがいるし、北極圏には列車ほどもある真っ白な熊もいる。しかし、火を吐く生き物はいないんだ。同じように三本足の烏だっているはずがないんだ」
「しかし、うちの娘はたしかに見たというとりました」
「だから、それは一種の集団ヒステリーというものだよ。きっと君の曽祖父は落雷にあったんだよ。それを君たちは龍によるものと誤解し、村人全員に伝説の生き物がいると刷り込まれた。だから、君の娘さんも山鳥を三本足の烏と見間違えたんだ。だいたい、烏というものは人里に生きる鳥だよ。こんな山奥にーー」
滑川の言葉が途絶えた。
彼の視線は農民が通り過ぎ、その背後にある巨木の根元に落ちていた。
小さなひこばえの隣に、烏がいたのだ。足は三本、二本の足で立ち、真ん中の三本目で喉のあたりをかいている。
滑川の異変に気づいた鉢金が視線を追いかけ、同じように息を呑む。兵隊たちに呼びかけたいが、「あ、あ、あ」と掠れ声しかでない。
そうこうする間に、八咫烏の方が「かあ!」と一鳴きした。
兵隊たちが一斉に彼らの方を見た。
鉢金がようやく大声を出した。
「や、や、八咫烏!八咫烏です!」
八咫烏は翼を広げて飛び立った。
兵のひとりが咄嗟に網を投げたが、するりとかわし、木々の間をすり抜けながら、森のさらに奥へと飛んでいく。
「ばかもの!」隊長が怒鳴りながら八咫烏が消えた方に駆け出した。
ほかの兵隊、二人の学者、農民も続く。
烏は、どこかに案内するかのように、ときおり木の枝に止まり、彼らが追いつくとまた飛び立つということを繰り返した。
追跡をはじめてから二時間、一向はこけむした小さな社を目の前にしていた。
いや、社本体は既に朽ち果て、わずかな木材の残骸があり重なっているだけだ。かろうじて残っているのは、石造の鳥居だけ。八咫烏はその鳥居の上に止まっていた。
兵隊たちは、万一にも逃さぬよう社を囲うように円陣を作る。
隊長の掛け声と共に、一斉に網を投げる。
八咫烏はひょいと飛び上がると、くるりと宙返りして鳥居を潜り、消えた。
網がばさりと鳥居にかかる。
八咫烏の姿はない。
兵士たちが騒ぎ始めた。
「消えた!」
「消えたぞ!たしかに捉えたと思ったのに!」
「霊獣だ!天界に登ったんだ!」
滑川は、強行軍で息も絶え絶えだったが、頭はまだ働いていた。
「鳥居です。烏は鳥居を潜った瞬間に消えた」
鉢金が小さく頷く。
「伏見稲荷神社の伝承に、逢魔が刻にとある鳥居を潜ると神隠しに遭うというものがあります。寛永四年、材木町の佐々木甚五郎なる男が姿を消し、四日後に虫の息の姿で境内に倒れているのが見つかりました。甚五郎が今際の際に語ったところによれば、彼は奇怪な土地に迷い込み、小鬼に襲われたのだといいます」
鉢金は興奮を抑えきれない様子で、すばやく網を潜り、鳥居に近づいた。
「鉢金先生」滑川が声をかけると、鉢金はにっこり笑って鳥居を潜り、消えた。