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お嬢様は平穏無事な日常をお望みです  作者:
第一章 春休み
8/79

7 お嬢様、胸キュンする


 財布とエコバッグを持って買い物に行った凌久を見送り、ドアに鍵をかけると、改めて『愛されて胸キュン』というふざけたタイトルの漫画を手に取った。


 漫画、というものは前世に存在していなかった。

 パラパラと捲る。

 全ページに絵がある。豪華だ。


 本は貴重だった。大変高価なものだったから、上流階級の者しか滅多に手にできない。公爵家には立派な図書室もあったが、全ページに絵が描かれているものは少なかった。学術的な図鑑くらいだ。小説は好きだったし、たくさん読んでいたけれど、こんな本は読んだことがない。

 ただ、読み始めると円華の記憶のおかげで、するすると読めた。

 あっという間に内容を思い出す。

 でも、まるで初めて読んだかのように――実際、私はそうなんだけれど――どきどきしながら読んだ。

 最終巻は六年くらい前に出ている。途中、休載を挟んで、十五年近く連載していたようだ。最終巻が出る頃に実写化されたらしい。そんなことが、最終巻に書かれていた。

 内容は、こうだ。


 まず、主人公の庶民の娘の父が借金をして、会社もクビになってしまう。高校進学も危うくなった主人公は、有名私立学校、栄華学園の奨学金制度を知る。入試の成績優秀者は学費免除、制服、教科書などの教材関係にかかる費用もすべて免除される、という。栄華学園卒、と言えば就職にも有利になる。中卒より、ずっとましなところで働けるようになるのではないか、と入試を受け、見事高校合格。ところが、入ってみれば、栄華学園はお金持ちの子女しか通わない、超エリート学校だった。

 奨学生になったはいいが、庶民の主人公はことあるごとに馬鹿にされ、ひどいいじめを受けることに。そこをさりげなく助けるのが王子と呼ばれる学園の理事長の息子だ。どんなにいじめられても雑草のようにへこたれない、不屈の精神を持つ主人公に、理事長の息子も次第に惹かれていく。さらに理事長の息子の親友の真面目生徒会長や、ピアノが得意な天然不思議系の後輩なんかにも恋され、三人のイケメンの間でフラフラしつつ、後半は理事長の息子と相思相愛になる、という話だ。それ以外にもたくさん格好いい男の子が登場する。

 終盤は身分違いの恋に、一旦は身を引こうとして、ふたりは離れ離れになるが、ラスト、家のしがらみから解放された理事長の息子が、主人公を迎えに来て、ハッピーエンドになった。


 ――ラストは号泣した。


「り、り、りぐぅ……!!」


 ラストまで読み終わると、私は台所に駆け込んだ。

 いつ帰ってきたのか、凌久が買い物から戻ってきていて、何か作っていたのだが、私が背中から抱きついたので、ビクッと包丁を取り落としそうになる。


「な、なに!? あぶなっ! 料理してる時に抱きつくな! 危ないだろ!?」

「だ、だっでぶでぎゅんが、だずどがよぐっで……えぐえぐ」

「鼻水っ! 鼻水ついてるから! やめて!」

「円華ちゃん!? どうしたの?」


 エプロンをつけた蛍も凌久の隣にいて、びっくりしたように私を見た。

 あ、蛍、いつ来たの?

 と言ったつもりだったけれど、涙で言葉にならなかった。


「ぼ、ぼだるぅ……!」


 慌てて蛍がティッシュを差し出してくれる。


「ほら、円華ちゃん、チーンして」


 子どもみたいに鼻をかんでもらい、凌久が持ってきたタオルを渡された。

 私は最終巻を片手に握りしめたまま、タオルでとめどなく溢れる涙を拭った。

 ――公爵令嬢だったら、有り得ないことだ。

 貴族の令嬢は、人前で感情の乱れを見せないのが常識だ。泣きじゃくる姿など、はしたない。

 わかっていたが、止まらなかった。

 ――これは、たぶん、円華の感情だ。円華が初めて読んだ時の気持ちを追体験している。じゃないと、説明がつかない。

 いや、物語は本当に素晴らしかった。皐月清さつきさや先生は天才だわ……!


「――で、なんだって?」


 呆れたような凌久の声に、とにかく感動を伝えたいのだけれど、うまく言葉にならない。


「り、りく、らすと、らすとがすごく、良くて……!」

「……あぁ、『胸キュン』かぁ……。円華ちゃん、好きだもんねぇ。えー、今でもそんな泣いちゃうの?」

「う、うん。初めて読んだ、みたいな……」

「あー、それも頭打った影響かなぁ? ねぇ、凌久くん?」

「そ、そうだね、きっと……」


 やっと涙が止まってきた私の頭を、蛍がよしよし、と撫でてくれた。

 ……気持ちいい。

 こんなこと、小さい時以来だ。

 父も母も兄も、大きくなってしまった私の頭を撫でることはなくなった。

 でも、頭を撫で撫でしてもらえるのは、こんな気持ちいいことだったのね。


 蛍が手を引いて、居間に連れて行ってくれた。卓袱台の前に私を座らせる。


「もうすぐ、ご馳走ができるよ! あとはおじさんたちが帰ってくるの、待つだけだよ!」


 時計を見れば、もう七時を回っている。

 外はとっくに真っ暗になっていた。

 都合、五時間くらい続けて読んでいたようだ。

 五時間で三十巻読んでしまえる私の集中力、すごい。


「集中しちゃうと、周りの音も聞こえなくなっちゃうの、相変わらずだねぇ。私、何度もピンポン押したのに、円華ちゃん、全然気づかないでドア開けてくれないんだもの。凌久くんがすぐ帰ってきてくれたから、良かったけど」


 蛍はまったく怒っていない様子で、笑った。


「たくさん、カタログとか雑誌とか持って来たよ! あとねぇ、最新なのとか流行ってるのはスマホで! どんなのがいいか、後で一緒に見ようね!」


 部屋の隅には大きな紙袋に入ったたくさんの本が置いてあった。


「それとね、円華ちゃんの好きな豚玉海鮮ミックスも焼いて来たよ!」

「ぶたたま……?」

「うちのお父さんもお母さんも会いたがってたよー。お店あるから来れないけど。代わりにたくさん焼いてきたの! 食べてね!」


 私は、卓袱台に並べられた何種類もの、大皿料理に目眩がした。

 ごくり、と喉が鳴る。

 なんだろう、天国なのかしら、ここ……。

 死んだのかしら、私……ああ、一度死んだんだった……、そういえば。

 さらに、凌久がドンッと音を立てて、カリカリに揚がった熱々の揚げ物を卓袱台の上に置いた。


「そろそろ帰ってくると思うんだけどなー」


 凌久が玄関の方に視線をやると、ちょうどドアが開く音がした。


「ただいまー! 円華ー!」

「ただいまっ! 無事、帰ってる!?」


 父さんと母さんの声が同時に聞こえて、バタバタとふたりが入ってきた。


「お帰りなさい」


 微笑んで言うと、ふたりにぎゅっと抱きしめられる。


「お帰り、円華」


 母さんが涙混じりにそう言い、父さんが笑顔で箱を差し出した。


「奮発してホールのケーキ買ってきたぞ! あとで食べような! あ、蛍ちゃんも来てくれたかー。心配かけたね」

「退院できて良かったね、おじさん、おばさん。お好み焼き、うちの両親からです。食べてね」

「いつも、ありがとうね、蛍ちゃん。……ほら、わたるくん、とりあえず、手を洗ってきましょう」

「そうだな、みおさん。そうしよう」


 両親は今でもお互いを名前で呼び合っている。仲が良いのだ。

 蛍も、仲良く手を洗いに行ったふたりにくすくす笑う。


「いいねぇ、円華ちゃんちのおじさんとおばさん。今でも恋人同士みたいで、羨ましい。うちの両親ときたら、色気もへったくれもないよ。もう、今日も出てくる前、喧嘩してて」

「蛍ちゃんとこはあれでいいんじゃない? なんだかんだ言って、仲良いじゃん」


 凌久がわかったようなことを言う。


「そうかなあ?」


 そんなことを話しているうちに、両親が揃った。

 五人でぎっしりと料理が乗った小さな卓袱台を囲む。

 父さんが、ジュースを注いだコップを手に、咳払いした。


「えー、では。円華の退院を祝して、乾杯!」

「カンパーイ!」


 全員でコップを持ち上げ、カツリ、と鳴らしあった。

 ――うん、オレンジジュース、美味しい……。

 唐揚げ美味しい……サラダ美味しい……それにお好み焼き……、なんですの、この食べ物!? 未知の食感! 豚のパリパリの香ばしさ! 海鮮の深い旨味! ほどよい磯の香りと甘めのソース、そしてこのマヨネーズ……! 

 悪魔だわ……、悪魔の食べ物よ……! 手、手が止まらない……っ!


 それに、この、食後のデザート!

 なあに、このふわふわ食感のスポンジ!?

 優しく甘いクリーム!

 艶々(つやつや)とした苺! 大量の砂糖……、贅沢だわ……こんな贅沢なデザート、食べたことない……。

 ああ……。生まれ変わって、良かっ……た……。


「わ、わー!? 円華ー!?」


 そのまま、美味しさの感動のあまり、私は意識を失った。


 漫画に胸キュンし、料理とケーキに胸キュンしすぎて、感情の乱高下について行けず、私はもう『キュン死に』だ。

 ――『胸キュン』で覚えた言葉……使い方、合ってる?


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