3 お嬢様、弟は魔術師?
凌久がコンロの奥の方に手を伸ばし、キュッと何かを捻った。
そして改めて、コンロのつまみを回した。
カチカチカチ……ボッ、と音を立てて火がついた。
「す、すごい、凌久! 魔術師みたいね!」
「魔術師って、何それ」
「どうやったの!?」
「元栓だよ、ガスの元栓。出かけてたから閉めてたの」
「もとせん……ああ、元栓か!」
「――姉ちゃん、重症だな。いくら料理しないって言っても、さすがにコンロのつけ方くらいわかるだろ? もう、危なっかしいなぁ。いいよ、俺がやるって。姉ちゃんはなんにもしないで座ってろ!」
「えぇ!? 火さえつけばこちらのものよ!?」
「何を威張ってるんだよ……。時間が余計にかかるからとにかく座ってて!」
「凌久!」
私の抗議も虚しく、凌久にぐいぐい背中を押されて、台所から追い出され、無理やり足の低いテーブル、……違った、卓袱台の前に座らされる。
「いいから、そこを動くなよ!?」
「はい……」
ビシッと指をさされ、私はしゅん、として正座した。
わ、私だって、やればできるもの……。
落ち込んで待っていると、ものの十五分もしないうちに香ばしい、いい匂いが漂ってきた。それにつられて、お腹がぐぅ、と鳴る。や、やだ……お腹鳴らすなんてはしたない……。
あっという間に凌久がお皿とお椀を二人分持ってきてくれた。
ドンッと置かれたのはキツネ色をした、ご飯を炒めたものと、野菜のスープだった。
「――夕飯は、退院祝いだから豪華にするよ。とりあえず、昼は簡単にチャーハンね」
「チャーハン……」
刻まれた玉ねぎと、ハム、卵と炒めた香ばしい匂いのご飯。ごくり、と喉が鳴る。
「じゃあ、いただきまーす!」
凌久がパンッと手を合わせて言った。
「い、いただきます……」
私も言い、添えられたスプーンを手に取った。
ひとくち分すくい、そっと口に運ぶ。
その味に私は衝撃を受けた。
――お、美味しい!? 何、これ!? この世にこんな美味しいものが!?
「り、凌久、天才!?」
「は?」
ぱくり、とスプーンを口に入れた凌久が驚いたように私を見る。
「料理長になれるわよ、凌久!」
「料理長? ……なぜ、長?」
「料理人の一番偉い人よ!」
「いや、それはわかるけど……。何? ただのチャーハンだよ?」
むせび泣くかのようにぱくぱく食べている私を凌久が困惑したように眺めた。
――あっ! スープも美味しい!
「……おいしいってこと?」
「はふっ……! ひははでてゃべたなきゃでいひはん(今まで食べた中で一番)……!」
「あ、そう……。そりゃ、よかったよ。よっぽど病院食が味気なかったんだな。わかったから、落ち着いて食べろよ……」
「ふんっ!」
いいえ、少々薄味でしたけれど、病院のお食事も充分美味しかったわよ? 以前の世界の食事に比べたら。料理のバリエーションと言ったら、肉を焼いたものか野菜を煮たり焼いたりしたものくらい。スープもほとんど味はしなかった。塩くらいしかまともな調味料がない世界だったの。食材は豊富だったけれど、素材の味を生かす、という方向の料理が多かったから。
この世界の料理は素晴らしいわ。
特に、短時間でこんな美味しいものを作り上げる、我が弟のハイスペックさに言葉もない。
なんでしょう、やっぱり魔術師なの?
丁寧にすべて片づけて満腹になり、私は手を合わせた。
「ごちそうさま」
「はい、お粗末様でした」
凌久はさっと皿を重ね、台所に持って行って洗い出した。
私も台所についていく。
「――何、姉ちゃん?」
「あの……、食後のお茶くらいは淹れさせて……」
公爵令嬢だった時は、誰かに身の回りのことはすべてやってもらえるのが当たり前だった。もちろん、感謝はする。有り難いと思っていたし、使用人には礼を以て接しなさいと、両親にも教えられた。しかし、逃亡中にそれがどれほど恵まれた境遇だったのか、と改めて実感させられたのだ。
一夜の宿を貸してくれた農家や、食べものをくれた人、謝礼も返すものもない私が途方に暮れた時、オスカーが教えてくれた。自分にできる礼を返せばいいと。
労働が必要ならできないなりに仕事を手伝ったし、お茶を淹れる機会があれば喜んで淹れた。
――今、私ができることと言ったらそれくらいだ。
「え? 大丈夫だよ、座ってろよ」
「いいえ! やらせてちょうだい!」
「えー? 姉ちゃん、いろいろ忘れちゃってるみたいだけど、お茶のセット、どこだかわかってる?」
「お、教えてください……」
凌久が黙ってやかんを渡してくれた。
それを受け取って水を入れ、コンロにセットする。
――元栓よし!
つまみを回す。カチカチカチカチ……。
今度こそ、点火!
――ついたわ! 成功ね!
「茶筒はそこの棚ね。あと、急須と湯呑みはこれ」
私が戸棚から茶筒を出すと、凌久が食器棚からポット――急須と、湯呑みを出してくれる。……場所はそこね。覚えておきましょう。
カフッという音を立てて茶筒の蓋を取り、中蓋を開けると、爽やかな茶葉のいい香りがした。――ほう、緑茶ね。
東方で作られる、綺麗な緑色のお茶。淹れ方を間違えるとひどい渋みが出てしまうけれど、上手に淹れれば、まろやかな甘みがあって、すっきりとした飲み心地がする。高値で取引されて、私も淹れたことがある。これなら大丈夫。たぶん、同じものだわ。
私は茶筒からスプーンで数杯茶葉を急須に入れた。
緑茶を淹れる時、大切なのは温度。
沸騰させたばかりのお湯はそのまま急須に入れては駄目。湯呑みに一度注いで温め、それを急須に、移す。少し静かに待ってから、ふたつの湯呑みに交互に均等になるよう入れる。最後の一滴まで残さず注ぐ。
私が真剣に二杯のお茶を注いでいる間に、凌久は手早く洗い物を済ませていた。
「鬼気迫るって感じだなぁ……」
凌久が呆れたように呟いて、お盆を渡してくれる。
私はこくり、と頷いてふたつの湯呑みをお盆に乗せ、卓袱台へ運んだ。
「――では、どうぞ……!」
座った凌久の前に、そっと湯呑みを置く。
「ありがと」
凌久が湯呑みを持ち上げて、こくり、と緑茶を飲んだ。
「――あれ?」
「ど、どうかしら!?」
ひとくち飲んだ凌久が首を傾げる。
「――おいしい」
「お、美味しいって顔じゃないけれど! どこか変?」
「いや、すごくおいしいよ。……あれ? おかしいな……これ、いつもの安いお茶だよね? すごく高級なお茶の味がする……! なんで……!?」
良かった……!
お茶は淹れられた……!
むむっと凌久が湯呑みを凝視して眉を寄せた。
「……姉ちゃん、なんかした?」
「見てたでしょう? 私はただ淹れただけ」
「そうだけど……、どこで覚えたの? 姉ちゃん、いつもお茶淹れる時、俺が何度言っても雑に熱湯注いじゃって、渋いだけのお茶になっちゃうのに……」
――円華ー!
雑! あなた、雑ですわよ!?
どんなに思い返してみても、円華は確かに大雑把にしか入れてなかった。
「そ、そうだったかしら……!? まあ、美味しいならそれでよくはなくて?」
「ま、そうだねぇ。やっとまともなお茶の淹れ方を覚えたってことだね」
ずずーっと、凌久が美味しそうにお茶を飲み干した。
ことり、と湯呑みを置いて、にこりと笑う。
――あら、我が弟、ハイスペックなだけじゃなくて、可愛いわね。
「――ねぇ、あんた、誰?」
可愛い、と思って眺めていた弟の口が突然、そんなことを言った。
「……はい?」
私は間抜けに聞き返してしまう。
すっと、凌久の顔から笑みが消えた。
「……あんた、姉ちゃんの顔してるけど、中身違うよね?」
私は息を呑んだ。
「あんた、誰?」