2 お嬢様、落ち込む
しょぼん、とした私に溜め息をついて、凌久が近くの公園に連れて行ってくれた。水飲み場で口を漱いだ私をベンチに座らせると、汚れたTシャツをトイレの水道に洗いに行った。ちなみに服の被害は凌久だけだった。ご、ごめんなさい、凌久……。
戻ってきて、私のバッグから着替えのTシャツを引っぱり出し、少し大きめのそれを顔をしかめながら頭から被った。
「入院費の支払いのために、少し多めにお金持ってきてて、良かったよ……。あれでシートのクリーニング代に足りるのか、わかんないけどなぁ……。どうしよう、高額請求が来たら……」
「ごめんなさい……」
うなだれて謝ると、くすりと笑った。苦笑したようだった。
「いや、いいよ。退院したばっかだもんな。まだ本調子じゃないんだろ?」
「う……、そんなことも、ないのだけれど……」
「無理すんなよ。少し休んでこう」
公園はうららかな陽射しが差し、ぽかぽかと暖かかった。
小さな子どもたちの賑やかな声が響き、母親たちの楽しそうな笑い声とさざめきが聞こえる。
目を上げると、満開の淡い薄桃色の花が咲いていた。
――そうか、春が来ていたのね。
ヴァイオレットの最期の記憶は粉雪が舞う冬だった。
感覚としては突然、春に飛んでしまったような気分だった。
ちらちらと花びらが降る。
掌に落ちた花びらを見つめて、ふと泣きたくなった。
――この世界は、平和なんだ。
隣に座った凌久が、空を仰いで気持ち良さそうに目を閉じた。
――戦もなく。なんて、平和で穏やかな。
もちろん、円華の記憶が平和なことばかりではないことを告げる。ここにだって、たくさんの争いごとや災害、悲しいことがあった。
――でも、私が助けられなかったあの国の民は、きっとこんな長閑な空気を感じることはできなかったろう。
「凌久……、あの花の名前、なんていったかしら……?」
「花って? ああ、桜? え、姉ちゃん、桜もわかんなくなっちゃった?」
「ああ……、そうでしたわね。サクラ、でしたわね……」
「――姉ちゃん?」
凌久が訝しい目で私を見た。
「なぁに、凌久?」
ふわりと笑うと、ますます不審な目を向けられた。
「――その話し方、何?」
「え!?」
はっとして、私は現実に引き戻された。凌久の眉根がキュッと寄せられる。
――この顔は、知っている。凌久が何か疑問に思った時の顔だ。
「おほっ、おほほほ……! り、凌久、な、何って何かしら……!?」
口元に手をやり、誤魔化すように笑って見せたが――全然、誤魔化せてない!
情けない……!
公爵令嬢だった時はこんなミス、犯さなかったのに……!
円華の記憶が入り込んでいるせいで、詰めの甘い円華のやりそうな行動が影響を与えている。
「……その、お嬢様みたいな話し方。目が覚めてから、時々するよね? 姉ちゃん、前はそんな話し方しなかった。もっと、雑っていうか……」
凌久はキュッと眉を寄せたまま、しばらく考え込むようにした後、ふっと表情を緩めた。
「あ、もしかして練習?」
「れ、練習?」
「――ほら、姉ちゃんが行く学校」
「……学校?」
「聖クリストフォロス学院。あそこ、お金持ち学校だもんな。『ご機嫌よう』が挨拶らしい、ってビクビクしてたもんなー。うちのような庶民が入り込んだら場違いなんじゃないかって、合格してからずっと心配してたもんな。今から慣れとこうってことだろ? さすが、姉ちゃん、その辺の準備がぬかりないな。試験前の鬼のような形相を思い出すよ……」
凌久がなぜか少し遠い目をした。
――試験前の鬼の形相って、何?
円華の記憶にはない。……円華って、一体どんな娘だったのかしら……?
「ま、まあ、そうね……! 何事も準備が必要ってことかしら……!? 私、これから時々こういう話し方しますけど、気にしないでね、凌久!?」
凌久は素直にこくり、と頷いた。
――この時、頷いた凌久が、本当は何を考えていたかなんて、ぼんやりとしていた私は気づかなかった。ただ、誤魔化せたことに安堵していただけだった。
公爵令嬢のヴァイオレットだったら、犯さないミスを幾つもしていることに、私は気づいていなかった。
「……バス乗っても酔うかもしれないし、歩いて帰れない距離じゃないから、歩いて帰る?」
凌久に心配そうに訊かれて、私は頷いた。
「そうね。そうしてくれると助かる」
「うん、休み休み行こう。体、つらかったら言えよ? ……じゃあ、家に帰ろう」
「ええ」
――円華の住んでいた、家へ。
◇◇◇
……え、狭い!?
私はびっくりするほど狭い玄関から靴を脱いで居間に入り、愕然とした。
――ここに四人も住んでいるの?
円華が住んでいた家――小さな二階建ての古いアパートの一室に、私たちは帰ってきた。円華の記憶を探れば、確かに生活していた記憶はあった。でも、こんなに狭いという感じはしていなかったのだ。部屋がふたつと台所とお風呂とトイレしかない。なんて言ったかしら……ああそう、所謂2DKだ。
実際に見ると、居間として使っているこの部屋は、公爵令嬢だった私の自室よりもずっと狭い。そして古いし、何もない。
……どうやって、四人も暮らしてきたのだろう。
絨毯ではない感触が靴下越しの足に感じられる。
そう……確かこれはタタミ。藺草で編まれた敷物。東方の島々で作られていた直に座るものだ。私も異国情緒を感じられるものとして、知識だけはあった。
おかしなものだが、前世、東方には日本に似た国があったのだ。ずいぶん離れていたから実際に行ったことはなかったが、様々な珍しい物が輸入品として入って来ていた。
円華の記憶を探る。これはタタミ……畳、ね。円華の日常はこの畳の部屋で過ごしたものだった。この家は二部屋とも和室だ。
「姉ちゃん、疲れただろ? 座ってろよ。簡単に昼飯作るから」
とりあえず荷物は部屋の隅に置き、凌久がそんなことを言った。
「昼食?」
時刻は昼を過ぎていた。
「凌久が作るの?」
「他に誰がいるんだよ? 姉ちゃん、料理できないじゃないか」
「……失礼ね。私だって、料理くらいできるわ」
王族も出席するようなお茶会を主催する時のためにお茶の完璧な淹れ方は身につけている。それだけではなく、逃亡中は侍女も下働きも料理人もいない。オスカーに習って、洗濯や簡単な煮炊きくらいならやった。おそらくそんなことができる公爵令嬢は私くらいなものだ。
「じゃあ、何が作れるんだよ?」
「スープ……とか?」
「えぇ? 作ってるの見たことないけど……、じゃあ作ってみる?」
私は頷いて凌久の後ろについて台所に入り、まずは竈に火を入れようとして――竈じゃ、ない!?
――あら!? 記憶、混ざってる!
現代日本に、竈があるわけないじゃないの……!
……あ、いいえ、落ち着くのよヴァイオレット……あ、いやいや円華だった! 円華の記憶を探れば使い方はわかるはずよ……!
そう、なんだったかしら、これ――えぇと、焜炉! そう、コンロよ!
火のつけ方はこのつまみをカチッとすれば、魔術のように火がつく便利グッズ!
まず、鍋に水を入れ……鍋はどこ!?
「り、凌久……鍋は?」
「シンクの下。――やっぱ鍋の場所さえわかんないじゃないか。本当に大丈夫かよ? ほら、これ」
凌久が小さな鍋を出してくれた。
水は――水道の蛇口を捻ればいいのよね? さすがにこれはわかる! 病院にもあったし!
ザバーッと入れ、コンロに設置。
さて、火をつけるわよ……!
私はつまみを回した。いざ、点火!
カチカチカチ……カチカチカチ……。
つかない!? なぜ!?
お、落ち着くのよ、私! 円華の記憶を辿るのよ!
つまみを回せばつくはずなのに……!
「――姉ちゃん」
「凌久!? これ、壊れてる!?」
「……壊れてないよ」
凌久が溜め息を吐いた。