1 お嬢様、目覚める
首の後ろと後頭部に、強い衝撃を受け、ザブリ、と体が何かに叩きつけられるような感触があった。全身に痛みが走る。
最後に目に映ったのは、不思議と青い空だった。
真冬の、曇天だったはず、なのに……。
全身に水の重さと冷たさ。
ゴボ、と吐きたくもないのに口から空気の泡が溢れた。
チラチラと揺れる光がぼやけていった。
苦しくて喉を押さえ、助けを求めるようにもがいて上に向かって手を伸ばしたけれど、掌はゴボコボと溢れていく空気の泡を虚しく掴むだけ。
沈む……、沈んでいく。
もはやもがく気力も体力もなく、ゆらゆらと私は沈んでいった。
薄れていく意識の中で、伸ばした手を、誰かが掴んだような気がした――。
……ああ。
…………オスカー?
あなた、なの……?
◇◇◇
はっとして目覚める。
つぅっと、一筋、涙が流れ、耳元に落ちた。
白い、天井が見える。
無機質な部屋だった。
どうやらベッドに寝かされているようだった。
首を巡らせて周囲を見ようとして、ズキリ、とひどい痛みが頭を襲う。
「うっ……」
思わず呻いた。なぜだか、身体が泥のように重かった。
「あっ! 姉ちゃん!? 目が覚めた!? 父さん、母さん、姉ちゃんが起きた!」
耳元でわんわんと響く大声で、少年が叫ぶのを聞いた。
私は頭を押さえて、声の方を見る。
駆け寄った中年の男女が私の手を握り締めた。
「良かった……! 目が覚めて……!」
「心配したのよ、円華……! このまま目覚めなかったらどうしようかと……!」
女性の方が、泣き出した。
抱きしめられながら、私は痛みに身を捩る。
――マドカ?
――いいえ、私は公爵令嬢、ヴァイオレット・フローレンス・ピアモント。マドカなんて名前じゃ……。
ない、と思おうとして、次の瞬間、猛烈な痛みが私の頭を襲った。
「……う、ああああぁ……!」
ドッと音を立てて、記憶という奔流が頭に流れ込む。
マドカ、という少女の育ってきた記憶。
ヴァイオレットとしての記憶。
大量の、情報。
生まれ育った王国の文化や風景、それと同時に日本、という国の文化と風景。
言葉。違う言葉。日本語。たくさんの、日本語。
混ざり合った大量の記憶に、押し流される。
「円華!?」
「ど、どうしたの、痛いの!?」
「先生、早く! 早く来てください! 姉ちゃんが……!」
――マドカ。
そう、紫野円華。それが、今の私の名前。ヴァイオレット、ではなく。
十五歳の、黒髪、黒い瞳――日本人の私。
私は、この世界に生まれ変わったのだ。
そうして、何も知らずに十五年間平穏に育ったのだ。
公爵令嬢としての前世の記憶を、思い出さないまま。
私は、紫野円華、十五歳。
日本の、ごく平凡な家庭に育った、目立たない女の子だった。
しばらくは医者や看護師、家族が慌ただしく出入りしていた病室が、やっと落ち着いて、誰もいなくなった頃――。
私は、そっとベッドを抜け出した。
幾日寝ていたのだろう。ふらつく足元を注意深く動かし、病室の壁際に近づく。
小さな洗面台が設置されており、そこに鏡があった。
恐る恐る鏡に顔を映してみる。
そこに、見慣れない少女の姿があった。
――伸ばし放題のもっさりとしてバサバサの長い黒髪。
顔を覆い隠すかのような前髪から覗くのはアーモンド型をしたきつめの目。黒い瞳がまるで他人のように見返していた。
軽い目眩がする。
――知らないはずの少女が私と同じ動きをする。……そう、知らない、はずなのに、記憶にはある顔。
自分ではない、という思いと、確かにこれは私だ、というまるで二重にブレたような感覚に気持ちが追いつかない。
――これは、誰。
そう、思いかけて、――いや、紛れもなくこれは、私、……そう思い直す。
ベッドに戻り、深く溜め息を吐いた。
紫野円華。
――この姿に、慣れなければ。
だって、たぶん、ヴァイオレットはもういない。
……私は、紫野円華として日本に育った。
紫野円華、だ。
「良かったな、姉ちゃん。高校入学までに退院できて。せっかくあんないい高校受かったんだから、人生これからだもんな」
そう言う弟――凌久は、今年中学入学のはずだった。
十二歳。ヴァイオレットの記憶からすれば、幼い子どものうちから仕事をする者ならこれくらいの言葉は不思議でもなんでもなかった。しかし、円華の記憶にある世間の常識からすると、この子は少ししっかりしているようだ。
「いやー、ほんとびっくりしたよ。まさか自分の姉が池に落ちて頭を打って、高熱出して生死をさまようなんて。漫画かよ、って思ったよ。これで『前世の記憶が~』とか言い出したらどうしようかと思ったよー」
実は、言い出したのよ、凌久。――口には出さなかったけれど。
私は――ヴァイオレットは――あの時崖から落ちてそのまま命を失ったようだ。痛みの記憶がはっきりとないのはせめてもの幸運だった、と思うことにする。
願わくば別の世界で、とは思ったけれど……、まさか本当に別の世界に生まれ変わろうとは。
しかも、日本に育ってきた円華としての記憶はあるが、意識は前世のヴァイオレットになってしまったようだ。そして、どちらの記憶も混ざり合ってしまい、ぼんやりしている。
うっかりすると、ヴァイオレットとしての振る舞いをしてしまいそうになる。
それが他の人の目には奇妙に映ることくらいは私にもわかった。
円華としての常識も「前世の記憶を持っている」などと言うことが危険なことだと警告を発していた。そんなことを口に出したら、入院が長引く。
目覚めてから三日間、ありとあらゆる検査をされた。それで異常がないことがやっと認められ、退院することができたのだ。
この白い空間は無機質過ぎて、もううんざりなのだ。
「ありがとう、凌久。退院に付き合ってくれて」
私が微笑むと、凌久はからからと笑った。
「いや、別にさ、俺も春休みだからヒマだし。父さんも母さんも仕事だから。姉ちゃんにつきっきりだったから、ずいぶん仕事休んじゃってたもんな。二人とも、『迎えに来たいよ~』って泣きながら仕事行ったよ。――ほら、荷物持つよ」
「はい」
凌久はテキパキと看護師さんに挨拶し、入院費の支払いを済ませ、病院前に停まっていた車に行き先を告げて、荷物をトランクに積み込んだ。
「ほら、姉ちゃん、なにボサッとしてるんだよ。早く乗ってよ」
我が弟ながら、しっかりしている。
私はぼんやりそれを眺めながら、オスカーのことを思い出していた。
私の専属の従者だったオスカーも、よくこうやって馬車に荷物を積み込みながら、どこへでもついてきてくれた。
「姉ちゃん? どうした? 具合悪い?」
「ううん。……大丈夫」
凌久は心配そうな顔になった。
「……なんか、起きてからずっとぼんやりしてるよなぁ。仕方ないとは思うけど。動作がゆっくり? というか、なんていうか。……なんだか、別人になっちゃったみたい」
私は内心ギクリ、としながらにこりと笑ってみせた。
それを見た凌久は少しだけ、困惑した表情になる。
――危ない、危ない。凌久は鋭い。
私が円華ではないと――ああ、いや違う。円華ではあるんだけど、そうじゃなくて、ヴァイオレットの意識に支配されていると感じ取り――きっと、違和感を覚えている。
……円華って、どうやって笑うのだっけ?
「なんだか、まだ記憶がぼんやりしてて。……長い夢から覚めたみたいなの。変なこと言ったらごめんなさい」
「ああ、いや、そうだよな。うん、ゆっくりでいいよ。……とりあえず、乗ろうか。タクシーなんて、滅多に乗れないんだから」
「――そうね」
そうして私たちはタクシーに乗り込んだ。
「お?」
思わず私はシートの座り心地に驚く。
……車って、こんなにふかふかしてたかしら?
ちょっとお尻を浮かせたり沈めたり、その感触を確かめた。
――そりゃあ、公爵令嬢でしたから? 馬車の座面もきちんとクッションが入っていたし? 内装も豪華でしたよ?
――でも、こんなに座り心地良くなかった! 何、これ!?
「……何やってるんだよ、姉ちゃん。ほら、シートベルトちゃんとして」
――シートベルトって?
何をどうすればいいかわからずきょろきょろする私を、凌久は不審そうに見ながら、私の分もシートベルトをカチリ、と締めてくれる。
――ああシートベルトって、体が動かないようにする安全装置のことだったわね。
私たちがシートベルトを締めると、車は滑るように動き出した。
――ゆ、揺れない!?
いくらサスペンションが効いた高価な馬車でも、こんなに静かじゃなかった!
「ふ、ふおぉ……!?」
それに、速い!
窓外の景色をぽかんとして眺める。沿道の街路樹はものすごいスピードで後方に飛び去って行った。
「いや、姉ちゃんさぁ……。いくらうちが貧乏で、タクシーなんて滅多に乗れないからって、バスくらい乗ったことがあるだろー? 何、その『車に初めて乗りました!』みたいな反応……」
呆れて凌久がそう呟いているが、私はそんなことを気にしている余裕がなかった。思わず、凌久の服を掴み、飛び去る景色から目が離せない。
――なんでしょう、ここ。神の世界!? ……あ、いや、現代日本でした……。
「り、凌久……」
「何?」
「すごい速……、うっ!」
「う?」
「気持ち悪……っ!」
「ひー!? ね、姉ちゃん!? やめて! わー、吐くな! 運転手さん、停めてー!」
――結果として速攻で酔ってしまったのでした、ごめんなさい……。
幸い、と言ってはなんだけど、凌久がTシャツですべて受け止めてくれて、シートにほとんど被害はなかった。
退院だからと言ってせっかく贅沢してタクシーに乗ったのに、ものの五分もしないうちにそのタクシーを降りたのでした……うぅ。