プロローグ
粉雪がちらちらと舞い始めていた。
逃げて逃げて逃げて。
ここまで追い詰められるまで逃げて――とうとう冬がやってきた。
――これから、この国にはひどく厳しい冬がやってくる。
私はおそらく、春の訪れを見ることはないのだ……。
カラン……、と小石が崖に落ちていく。
私は後退りかけて、足を止めた。
じゃり、と足が砂利の感触を感じ、踏みとどまる。
「ヴァイオレット、いい加減、悪足掻きはやめろ」
足元から震えが上がった。気温のせいだけではなく、背筋が寒くなる。
私はなるべく下を見ないようにし、奈落の底のように深い崖を背にして、声の主を振り返った。風に煽られ、一筋二筋、ほつれて色褪せた金髪が舞った。
――それでも、毅然と、顔を上げて。
唇が震えるのを必死で抑えた。
なんでもないことのように、婉然と微笑んで見せる。
かつては国の至宝と呼ばれた紫水晶の瞳をその人に向けて、まるで鮮やかな赤い薔薇と称えられた唇の両端を上げた。一番、美しく見えるよう。
「残念ですわ、殿下。こんなことならドレスを身につけてくるのでした」
――声は、震えていないだろうか。
「あなたとの婚礼のために用意した、あの美しい白いドレスを」
目を落とさずとも貧しい農家の娘から買い取ったこの服のみすぼらしさはわかっている。農婦に扮して、なんとか逃れる予定だった。
顔を汚し、何日も洗わないままになったぼさぼさの髪を引っ詰めて。
父や母や兄……、あの大切で大好きだった家族を、すべて見殺しにして置き去りにし、私だけでも逃げなければならなかった。
そうして逃れても、やり通さないとならないことがあった。
――だが、もう、こうなってはすべてが無駄なことだった。
「ヴァイオレット……。君との婚約はとっくに解消されている。今更何を……」
その人――私の婚約者だったこの国の世継ぎの王子は、困惑した声と眼差しを私に向けた。
私は、口元に手をあてて、高らかに笑った。
ああ、こんな姿……悪役と呼ばれても仕方ない。
しかし、無様に怯える姿を見せるくらいなら、たとえ悪党と呼ばれても毅然とした姿を崩すものか。いくらでも悪役を演じてみせよう。――それが、私のせめてもの、矜持。
この国の筆頭公爵家令嬢、ヴァイオレット・フローレンス・ピアモントとしての、譲れない矜持だ。
「……そうですわね、愚かな人。私をこの境遇に堕として辱め、あまつさえ国を危険に晒してまで、あの女を手元に置くなど。魅了の魔術にかかっていることにさえ気づかずに」
「何を……何を言っているのだ、君は? エリザベートはそのような……」
「だからあなたは愚かだというのです。あの国の王女の振りをした女狐をこの国に引き入れることが、ひいては国の危機につながると、なぜ気づかれないのですか」
「やめろ……」
「――これでは、私が策略を巡らして、あの娘をあなたから遠ざけた意味がなかった……」
私は、一度だけ目を閉じた。
私の親友――あの凛とした百合の花のような男爵令嬢エミリー、あなたを殿下から遠ざけるのではなかった。
「無理をしてでも、エミリーをあなたの后に据えるべきだった……」
「やめろ! 何を言っている!? エミリーを卑怯な策略に嵌めて、修道院に放り込んだのは他ならぬ君ではないか!?」
――どこで、間違ったのだろう。
最善の策を選んだつもりだった。
学園で恋に落ちた二人を、引き離したのは私だ。彼女を守りたかった。悪意や重責の矢面に立つのは私の方が相応しいと、そう思ってしまった。それが、公爵令嬢としての役割だと思っていた。
男爵令嬢と王子が結婚したら、どんなに愛しあっていようとも、幸せになれるはずがなかった。妬まれ、疎まれ、いじめぬかれる。それでも、王妃としての様々な公務をこなし、責務を果たさなければならない。それが、国の王妃というものだから。
私は、私の親友を、そんな境遇に落としたくなかった。
――こんなことなら、どんなに彼女が傷つくことがあっても、二人を結婚させて、そばで守ることを選ぶのだった。
しかし、聡明な彼女は私の意図を正確に読み取り、黙って身を引いたのだ。
私の策略に嵌められた振りをして。
私は大きく目を見開き、愚かな元婚約者を真っ直ぐ見つめた。
「ねぇ、殿下。満足ですか、あの女の言いなりになって、この国を滅ぼして」
「やめろ……! 悪党は君ではないか! 今までの自分の所行を棚に上げて。――そもそも、幼い頃から、君のすべてを見通すような目が……、いや、私を見下すようなその眼差しが気に入らなかったのだ! 賢いつもりか!? 不吉なことを言うな……!」
「そのような狭量なことをおっしゃるから、あなたは愚かだというのです」
「いい加減、その口を閉じろ!」
殿下が背後に控える騎士たちに手を上げて合図をした。
ギッと音を立てて弓が引かれ、複数の鏃がこちらに向く。
――もはや、これまで。
私は覚悟を決めた。
この国の王になる人が決めたのだから、従うしかない。
そして、哀れなのはそうやって道づれにされる国民だ。
……最後に講じた策は、成功するだろうか。
なんとか、ひとりでも多くの国民が逃れられるよう、腹心の従者、オスカーに託した策は。
ああ、オスカー。こんな役割を与えて申し訳なかったわ。
私なんかに仕えたばかりに、命まで危険に晒して。
いくら詫びても詫びきれない。
じり、と私は一歩後退った。
踵が空を踏む。薄ら寒さが足元から這い上がる。
しかし、こんなこと、この後の民の辛苦に比べれば、どれほどのものだろう。
踏みとどまれなかった私は、どこまでも卑怯で情けなかった。
せめて、最期くらい微笑んで。
「……さようなら、殿下」
吹きすさぶ寒風に紛れることなく、ギリギリと弦の引き絞られる音がはっきりと耳に響いた。
針鼠のように無様に刺し貫かれるのは、ごめんだ。
それなら私は自ら死を選ぶ。
――最期まで毅然と顔を上げて。
……ああ、私の忠実な従者、オスカー。
願わくば、別の世界で、あなたに会えたなら。
私は、一番に詫びよう。
許して、と。
そして礼を言うのだ。
最期の我が儘を聞いてくれて、ありがとう、と。
あなたはきっと、何でもないことのように笑うのだろう。
――本望です、と。
そう私に何度も繰り返したように。
『あなたに仕えられることが、私の最大の望み。本望ですよ、お嬢様』
彼の笑顔が目の前に浮かび、声が聞こえた気がした。
矢が放たれるのを待たず、私は殿下を見つめたまま崖から身を投げた。