昭和6×年8月15日
昨日、おじさんは駅に来なかった。
当然のように来るものだと思っていたから、なんだか拍子抜けしたような気持になってしまう。
私は特に何をするでもなく、待合室でダラダラして一日を終えた。
「……はぁ。もうおじさんもいなくなっちゃうのかぁ」
ため息をついて窓の外に目を向ける。
まだ始発の時間よりも前だというのに、今日は辺りが騒がしかった。
駅の向こうの茂みを掻き分けて何人もの大人が歩いていく。
私もバレないようについて行ってみようかなーなんて考えていると、出会った日と同じ格好をしたおじさんが待合室に入ってきた。
「あれ? どうしたの?」
思わず問いかけてしまった。
「いやぁ、それが軽トラは二人乗りだから僕だけ朝一番の列車で先に帰ることにしたんだよ」
「そっか。軽トラはサトルさんとユカリさんねぇ」
ちょっぴりおじさんが不憫に思えてしまう。
「今日は朝からみんなして底なし沼の方に行ってるみたいなんだけど、おじさん何か知らない?」
「……本当だね。手に持ってるのはスコップ? 僕は何も聞いてないけどな」
「ふーん。
……ねえ、一緒に見に行かない?」
私が誘うと、意外や意外おじさんは首を縦に振った。
「すいませーん、何をしてらっしゃるんですかー?」
大きな声で呼びかけながら草むらに集まる村の人たちの元へ近付く。
するとおじさんに気付いた集団の中からガタイのいい男の人がのしのしと歩み寄ってきた。
「お、お義父さんっ!?」
おじさんが目に見えてうろたえる。
イワおじさんはこっちへ来いと無言で合図をすると、おじさんを引き連れて底なし沼の方へ向かった。
「お前、この子を知ってるだろ」
イワおじさんが指し示したのは、草むらに横たえられたセーラー服姿の少女。
服も髪も顔も泥にまみれているけれど間違いない。
「……ゆ、行方不明になっていた子、見つかったんですか?」
おじさんは顔を引きつらせ、まだ白を切り通そうとする。
そこに腰の曲がったおばあちゃんがゆっくりと近付いてきた。
「いい加減認めなさい。みーんな知ってるんだから」
朋田のおばあちゃんは見上げるようにしておじさんを睨む。
おじさんが逃げ出さないように、村の人たちがおじさんの周りをぐるりと取り囲んでいた。
おじさんは大きくうろたえ、救いを求めるようにこちらを見た。
「おじさん、残念だったね。ここの底なし沼、もう底なしじゃないの」
「えっ……?」
この村の底なし沼が底なしだったのは江戸時代の話。最近では地質調査も進み、沼の下を地下水が流れていることがわかった。
沼に沈んだものはこの地下水流に流されて、森の中にある小さな池に流れ着く。一見すると沼には何も残らないから底なし沼だと思われていたのだ。
とはいえ子供が近付くと危険なことに変わりはない。
だから今でも「底なし沼」としての話は残っている。
「ここはねぇ、悪さをしたよそ者を捨てるところなんだよ」
「ごめんなさい……」
不意に謝罪の言葉を向けられたおじさんは目を丸くした。
その声の主はユカリさんだった。
「お、お前っ! ここに捨てれば絶対バレないって言ったのは嘘だったのか!」
ユカリさんに殴りかかろうとしたおじさんは、イワおじさんに羽交い締めにされた。
「あの時は私だってパニックだったのよ!」
ユカリさんが怒鳴り返す。
かつてないほどのユカリさんの剣幕に、おじさんだけでなく周囲の村の人たちまでがたじろいだ。
「迎えに行った人がまさか義妹を引きずってくるなんて思わないでしょ?」
「いも……うと?」
「ええ。お兄ちゃんのお嫁さんの妹さんよ。その子を『殺してしまった』なんて言われて、私だってどうしたらいいか……」
泣き崩れたユカリさんを私は無感情に見下ろしていた。
もしあの時、ユカリさんが私を沼に捨てようなんて言い出さなかったら。私はまだ生きていられたかもしれない。
ユカリさんは私の命より婚約者の潔白を取ったのだ。
村一番の美人のユカリさん。
イワおじさんの娘のユカリさん。
もうすぐ結婚するユカリさん。
お前だけ幸せになるなんて許してなるものか。
私は目いっぱいの力を込めてユカリさんの長い髪を引っ張った。
ユカリさんは目を見開いて腕を振り回す。
村の人たちは何が起こっているかわからず、じわじわと沼に引きずり込まれるユカリさんを呆然と見つめていた。