昭和6×年8月12日
ユカリさんは村で一番の美人だ。役場の住民課で働いている。お父さんは駐在所の「イワおじさん」。本当は巌さんだけど、岩のように険しい顔をした怖いおじさんだから「イワおじさん」。
そして、ユカリさんはもうすぐ結婚する。
駅の待合室で会ったおじさんは、ユカリさんの表情から察するにユカリさんの婚約者だ。
村一番の美人の結婚相手だから、さぞ都会風のカッコいい人なのだろうと思っていた。
ユカリさんの「そんなにすごい方じゃないですよ」という言葉も謙遜のひとつだと信じ切っていた
それがあんな冴えない人だなんて。裏切られたような気持ちになる。
小さな村だから、他所の人は一目でわかる。ユカリさんと一緒にいれば婚約者だということもすぐにわかって村中で噂にもなる。
そのくらいはおじさんも聞かされていたはずだ。お昼過ぎにユカリさんが迎えに来るまで、おじさんはどんな気持ちでここにいたのだろう。
なんてことを考えながら私は昨日のおじさんと同じように身体を待合室の角に押し込んで夜を明かした。
列車の音で私は目を覚ました。
待合室の時計を見ると朝の列車の時間だった。ホームから走り出す列車を見送って、大きく伸びをする。
向かいには昨日のおじさんが座っていた。
「おはよう」
「……ん、おはようございます」
目を擦っておじさんの存在が夢ではないことを確かめる。
すでに空気は蒸し暑く、セミの大合唱が辺りにこだましていた。
「乗らなかったんだ」
私がホームの方を見ながら言うと、おじさんは「うん」と短く返事をした。
「次の列車、お昼だよ」
「別に構いやしないよ。どうせ今日帰るわけじゃないから」
「そうなの。……ところで、イワおじさんはどんな反応だったの?」
「いわ……?」
「ユカリさんのお父さん」
私が答えると、おじさんは飲みかけていたお茶を盛大に吹き出した。
ゲホゲホと咳き込みながら耳まで真っ赤になっていく。
「彼女もすぐにバレるとは言ってたけど、こんなに早いとはね」
「村の人はほとんど知り合いだし、ユカリさんが婚約者を連れてくるっていうのは前から噂になってたからね。おじさんはもう村の有名人になってるんじゃないかな」
私の言葉におじさんは困ったように頭を掻いた。
「そういえば、この辺りに底なし沼があるんだって?」
「底なし沼……?」
突然振られた話題に一瞬理解が追い付かなかった。
気まずい話題になったからってそんな話を振る人は初めてだ。
「若い子は知らないのかな。ここの線路を越えてちょっと山の方に行ったら底なし沼になってるっていう話」
「あぁ」
おじさんの言った通り、線路を渡って百メートルほど歩いた辺りから足元がぬかるみ始め、奥の方に進むにつれて深くなっていくらしい。
その奥の山の方から降りてくると、気付かないうちに沼にはまってしまう。そのせいで何度か事故があったらしく、今は簡易的な柵を作って近くに立ち入ることができないようにしてある。
「昔は悪いことをした人をその沼に落としていたって聞いたよ」
「まあ、そういうのって沼の近くに行ったら危ないからってじいちゃんばあちゃんが作った話かもしれないし」
それから、私とおじさんはしばらく他愛もない話をした。
夕方になるとまたユカリさんの車が迎えに来て、おじさんはその車に乗って帰っていった。