内心ころり
思うに、わたしの脱走は小説を認められないことから始まった。読まれることを意識したモノローグ。人間はあんな風に言語化していちいち考えないという思いが、ほんとうにそうなのかに変わり、わたしだけパッパラパーなのではないかという疑いに化けた。
軽やかに走る車が、じつはものすごく重いと知った気持ちだ。
五時間目、体操服で薄暗い棟をぶらぶらと歩いているうちに鍵のかかっていない教室を見つけて入れば、窓側に押しやられた机と椅子のセットの手前にひとりの女の子が右手にメガホンをもって座って俯いていた。
悲しい、悲しい、悲しいと思った。
じっと見ているうちに、はっと気づいた女の子がメガホンを顔の前にもっていった。
――わたしは不良だ。ろくでもなしだ。ヤバン人だ。ヤバヤバだ。
さすがにそこまで卑下してないぞ。授業をサボるなんて当たり前だかんな。
そこで気づいた。ふつう、相手がメガホンを使ったとすればこちら側に話しかけているはず。なのに、どうして「わたし」という主語を自分のものだと勘違いしたのだろう?
メガホンを少し顔から離して、口元が見えた。彼女は不敵にも笑っていた。
「悪を為したい子ちゃんを救う会、勃発なのだ!」
今度はわたしの声だとは思わなかった。女の子はメガホンをひざの上において足をぶらぶらとさせた。きらきらとした目でこちらのポカーンを窺っている。まったく悲しそうではなくて、楽しそう、に見える。
「本心、本当、本質といったアホの大好きなワードから閃いた善を為したい子ちゃんの特大発明! その名も、インターナルハートころり。内心ころりとも呼ばれるそれは被験者の脳内に直接語りかけることで感情をつかさどる部位などを破壊して人格を矯正する、予定!」
つまり……つまり、こいつは善の科学者で、わたしは悪の被験者ということだ。
いつの間に、そんな対立構造が。
「何がころりだ! こっちはコロリといきそうな年寄りに席を譲っているぞ!」
「これは歴史に残る大発明なのだ! たとえば民族浄化するとき、今までは押しやって拷問して殺して洗脳して殲滅していたけど、これからはだれの血も流すことなく信じていたもの、大切にしていたものを捨てさせることができるのだ。外国にいる行き場のない人たちを連れてきて治安を守りつつゴミのような賃金で働かせることも可能なのだ。独裁政権もステルスマーケティングもこの発明があれば簡単にできるのだ。女の子に振られて悲しんでいる女の子も『どうせ人間の心は機械的に作り変えられるのだからなんてことはない』と切り替えられるのだ」
「そこは恋人にしねーのかよ」
「思想を統一できれば争いは起きない。ダイナマイトおじさんの名前がついた栄誉を与えられること間違いないのだ! 毒ガスおじさんと肩を並べるのだ!」
彼女はメガホンを持った。まだ、口には近づけなかった。
「脳になじませるために、私を視界に入れてやってみよう。というかやるのだ!」
なにをやるのだ!
メガホンの角度を変える彼女の右手が、すこしふるえていた。
――ところで、体育は最高の教科だ。ストレッチでは女の子のからだに触れられるし、走るときは乳揺れが見られるし、体操着のパンツの輪郭が丸みのある腰のラインにしたがって膨らんでいるのを見るとふっくらしてくる。
「なにがふっくらするんだよ」
「体育に行きたくなった?」
「こんな動機で授業に参加するやつは不参加でいいだろ」
くよくよするな、と彼女は言うが、それがわたしのモノローグになって、くよくよなんてしてない! と反論を試みるが、よくわからなくなってきた。
なんだか、本当にくよくよしていたような。つよがりで違うと言ってしまったような。他者の指摘からの反発というプロセスが、否認の流れと重なる。
ところで、その他者はいったい誰なんだ?
正しい疑問に花丸を与えるように、チャイムが鳴った。彼女は机からぴょんと着地して、メガホンを背中に隠した。
「放課後も、来てくれる?」
「べつにいいけど、ひとついいか」
「うん」
「飛び級した小学生?」
スチャ。メガホンがわたしに向けられ、心に巻き起こる「ギャー」の嵐。いもしない蚊を払っているうちに、彼女はすでに廊下に出ていた。
「隣のクラスだよ」
なんてことだ。隣のクラスに飛び級した小学生がいたなんて。
誤った解答にペケを与えるように、すぐに消えるはずの「ギャー」がずっと鳴り響いていた。
おかげで、掃除に集中できなかった。雑巾をもつ手もおぼつかず、ホウキを持ってみれば柄がぱたんと床に倒れ、チリトリは床に接着できない。一番のゴミはわたしだと教室から追い出される始末。トイレで廃品回収を待っているうちに帰りのホームルームが終わったらしい。廊下が一瞬だけ騒がしくなった。静かになってから、わたしはあの教室を目指した。彼女はすでにメガホンを持って机に座っていた。「ギャー」は消えて、うれしい、に変わった。
「よく来たな、のろまっち!」
「博士よ、おまえのメガホンのせいでこっちは大変な目にあったぞ」
「メガホンのせいではない、私のせいだ」
「それはそうだ」
小さな博士はわたしと同じ言葉をくりかえして、メガホンをオン。
――良い子になーる。良い子になーる。今日からハイパーウルトラスーパー良い子になーる。これから世界にあるすべての寄付の箱はわたしの貯金箱だ。アイアム難民。
「もらう側になってどうする」
「ちょっとは善を志すようになった?」
「あのなあ、そもそも悪いことなんて考えてないぞ」
パッパラパーだかんな。
彼女は首を横にふって「考えていなくても」と胸を張った。「むしろ考えないことが悪なのだ」ドキリとした。
「たとえば、授業をサボられた体育の先生の気持ちは考えたことがある?」
右手に持ったメガホンを左手の平にぶつけて刻むポンポン。
「先生はきっと考えてるよ。どうして授業をサボられたんだろうって。その非対称性が悪で罪」
わたしは、体育教師のことを思いだそうとした。
空き教室の黒板には頬擦りしたくなる清潔さがあった。
閉ざされた窓の外から運動部の声が聞こえた。
メガホンを持って目を丸くしている女の子は、とても可愛かった。
「ロールプレイングゲームのNPCの心情をどうして考える必要がある? 学校ではティーンこそが主人公なんだ。タンスのアイテムは盗むまで」
「矯正のやりがいがあるガール!」
暗くなるまで、わたしと彼女はカレーパンのカレーとカレーのカレーが同じもののようで少し違っているような話を交わし続けた。
それで、いったい何がよくなるのか。わからなかったが、内心は素直な表現に満ちていた。
うれしい、うれしい、うれしい。
帰りのコンビニで、アイスのおつりを寄付の箱にチャリンと入れた。上からメダルを大量に落とされたプッシャーゲームの図が浮かんだが、そんなややこしい想像はしなくてもよかった。
思うに、私の逃走はドラマを認められないことから続いた。現実の人間はこんなに大げさに表情を変えない。声だって極端に低くしたり高くしたりしない。悟られることを気を付けるという意識がピンと張っている。それでも、話の流れを率直に汲みとって会話を続ける。文字情報だけのメッセージやチャットやメールが通じる。音声でのやりとりも。つねに相手の顔を凝視しなくても話はわかる。
ほんとうにそうなのか。いつのまにか赤信号に囲まれている気がする。
――感じる。感じる。人に親切にしたくてしたくてたまらない源流を感じる。
せっかく海の泡を言語化しようとしたところで、よくわからないものを感じさせられた。メガホンで隠されていた顔が現れる。「どう? あたたかい気持ちになれた?」教室には電気がつけられておらず、まだ落ちていない太陽の明るさによってやさしく照らされている。彼女はぴったりと足を閉じて上品に机に座っている。逆光のなかでほのかに佇んでいる。
「おまえ、実在するよな」
「非実在青少年だと思った?」
「鞄がないから、ユーレイかと思ってさ」
ふちどられた淡い輪郭が、わずかにちりちりとした。
「鞄がないと幽霊なんて、いったいどういう世界観なのだ!」
「取ってきてやろうか。親切だろ」
出た、メガホン!
――親切にしたいという気持ちはウソだった。悪は所詮どう取りつくろうと悪なのだ。クラスメイトをその場でピョンピョンとさせてアンパンを買ってこさせる一瞬が一生。
「ひどいことを言うな」
「だれかを助ける前に、あいさつから始めるのだ。つぎにニコリと笑うこと。出会い頭にいきなり実在するか尋ねるなんて、思春期に対するもっともおそろしい切迫なのだ」
「挨拶ね、ハイハイ、ちわちわ」
「にち!」
「こん」
隣のクラスに実在するユーレイは、ちょっと首を傾げてわたしをじっと見た。メガホン越しでもなければ口を開いているわけでもないのに、ありありと聴こえてくる。
ニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコニコ。
「ニコリ」
「なんだかマッコリみたいなニコリなのだ」
そんなはずはないのだ。
暗くなるまで、わたしと彼女はランニングしている他校の運動部に混じってもバレなさそうな笑顔の練習をし続けた。
それで、いったい何がよくなるのか。わからなかったが、内心は素直な表現に満ちていた。
楽しい、楽しい、楽しい。
帰りのスーパーで、会計を頼む前に「おねがいします」と声を掛けた。笑顔に笑顔が返ってきたように思われたが、彼女はきっと元から笑顔だった。
思うに……そんなに思うことはない。人は気まぐれに現象に飽きて、己の欲求に逆らうことなく状況から去る。しかし、気になることはある。
隣のクラスでは外国語の授業をやっていた。わたしは教師に見つからないように廊下にひざをつきながら進んだが、ときどき立ち上がって中をのぞいた。どこも変わらない。まじめに授業を受けている、居眠りをしている、電子辞書をいじっている、数学の教科書を開いている、やっていなかったプリントを解いている、パンを食っている、弁当を食っている、サンマを食っている、空席がある。
なんとか教室棟を抜けて、ぶらぶらと使われていない棟まで歩いて、鍵の掛かっていない空き教室に入る。
悲しい、悲しい、悲しいと思った。
「ちわちわ」
「にち!」
彼女はすぐに顔をあげた。わたしが近づくと、すこし怪訝な顔をした。
「どうかした?」
「そういや、おまえも不良だったなって」
メガホン! はすぐに机に放っておかれた。ハミングでリズムをとるように肩を揺らし、楽しそう、に見える。
「きちんとクラスのお友だちにあいさつはできた?」
「用もねえのに挨拶したらヘンだろ」
「こんにちはをしたら用も始まって親切できるのだ。良い子の一歩はあいさつから」
「おまえはどうなの? 友達いんの?」
周囲には空き教室や倉庫しかなかった。グラウンドを使う授業もないらしい。飛行機がビューンと走って白い線を描いている情景が目に浮かんだ。
「私は特別だから、友だちができないのだ」
「そうか? 中学んとき、校舎の端の端のほうに特別支援学級があって廊下からちらっと覗いたことがあったけど、あいつらみんな仲良くやってたぞ」
「孤高、なのだ」
「人格の問題だろ」
「発明のよさがわからぬものばかり」
「この世で一人しかわからないってわけじゃないだろ。おまえより頭のいいやつはわかるだろうし、おまえと同じぐらいの頭のやつもわかるだろうし、今じゃインターネットでいろいろと発信できるんだし繋がれるんだから、探せばいいだろ。それか、すごい発明を続ければあっちからやってくるだろ。できるじゃん、友達」
「しかし、あっぱれ! この世で一人しかわからないものもある!」
何かを言おうと思ったが、チャイムが鳴ったのですべて忘れた。
彼女は机からぴょんと着地して、メガホンを背中に隠した。
「良い子になるのだ、のろまっち」
小さい女の子は、ばたばたと、しかし、とぼとぼと歩いていった。
心ない単純作業がちょっとしたことで色づいた。なんのことはない。クラスメイトに声を掛けて、黒板の高いところを消したり一緒に教卓を運んでやったりしただけだ。ゴミもワイワイと複数人で捨てに行くことになった。ゴミを囲んでごみごみとしながら階段を下りて渡り廊下を進んで中庭を横切っているうちに女子のひとりが「なんか雰囲気かわったよね」と言いだして「彼氏ができた?」「やっぱり殴られてたりする?」と謎の渦中に巻きこまれる中で、視線を感じた。
お楽しみの放課後。空き教室には鍵が掛かっていた。わざわざ職員室まで行って担任の「彼氏から暴力を受けているらしいな」という尋問をかわしつつ、窓側に押しやられた机と椅子のセットの手前に腰を掛けた。
ゆっくりと頭を倒しながら彼女を待った。天井が視界のほとんどを占めるころには、ゴツンと椅子の貫にぶつかった。暗くなるまで、痛い、とは思わなかった。
思うに、思うことはなにも解決しない。三日三晩を百日のように考えてわかった。相手がしたことをわたしもすること。その対称性が善で功。
手作りの腕章を見て、わが校の誇りである生徒会長殿は息を切らしながら「なにそれ」と聞いた。
「善を為したい子ちゃんを救う、挨拶運動の会。勃発っス」
「それ言うなら発足でしょ。発足しちゃダメだよ、勝手な会を。ストリートで投げ銭を狙っているミュージシャンのそれだよ、迷・惑・行・為」
うるさい生徒会長をワンパンで蹴散らしたわたしは、校門からやってくる人並みを「はよ」「おは」「UNO」の軽快な挨拶で捌き続けた。
青くすがすがしい運動はこんこんと続き、予鈴という明確な終わりがあるはずなのに永遠の二文字がギラついた。
「おはよう!」
「わっ、な、なにをしているのだ!」
初めて見た鞄には、横にひっかけられたメガホンがぶらさがっていた。学校指定でも何でもないつばの広い帽子を被っている校則違反少女の手を引っ張って、校舎裏にたどりつく。
「放すのだ!」
「ニコリ」
「マッコリ!」
彼女はわたしの手をふり払って、対峙するかたちでメガホンを手に取った。
「いったいなにをするのだ」
「おまえこそなんだよ。感情をつかさどる部位を破壊にしてハイさらばか。わたしの気持ちはどうしてくれるんだ。バカになっちゃったんだぞ、こんなに」
「バカなのは元からなのだ」
「なんだと」
つばの広い帽子が横に投げられた。水を切る石のように予想以上に遠くまで飛んでいった。
「拳で語り合う気になったか」
「もうお友だちがいるのに、どうして私に構うのだ」
「はあ、ダチなんていねえよ。仮に友達がいたとしてなんでおまえに構っちゃいけないんだ。一夫一婦制か」
「良い子になったら、みんな好きになっちゃう。みんな好きになったら、もう私と遊んでくれない」
メガホン!
「好きになってほしくて、好き、好き、って思わせたくて、でもそうしたら信じられなくなっちゃう。今までの友だちや……ママや、パパのことみたいに」
だけど、ずっと疑問に思っていた。
そんな発明がほんとうにあるのか?
彼女はメガホンを――地面に投げつけた。
何を言ってんだ、おまえ。もうウンザリだ消えちまえ。いやいや、なんだよこれそんなの思ってないぞ。思ってるよ、それが本心だろ。違うってダメだダメだわかっちゃうバレちゃう私がおかしいの全部ぜんぶぜんぶ伝わっちゃうごめんなさい巻きこむつもりじゃなったウソだウソだウソだ巻きこみたかったんだ騙したかったんだオイオイ結局また自分のつごうのいいようにコントロールしようと私の思っていることを肯定させようとだれかを操り人形にしようとしたそれだからずっとひとりなんだ人のこと自分のことに変えるんだからオイ自分と自分で対話しているだけなんだからだからダメなんだ好きって思っちゃダメだったのにごめんねごめんねごめんね好きで好きで好きで悲しい悲しい悲しい「アイアム難民! アイアム難民! アイアム難民!」彼女の心の声が、ぴたりと止まった。その隙にわたしはがっしりと彼女をホールドした。
あまりにも細いからだで、こっちが悲しかった。
「よく知らんが、知るか! おまえのことを好きなやつは、おまえがどう思おうと大好きだったんだよ!」
違うもんぜったい。ほんとうに邪魔な能力だな、人の内心に侵食してくんな!
「のだのだのだのだキャラ作りやがってよ。可愛すぎるだろうが。おまえ鏡でちっこさを確認したことある? 超ちっこいんだぞ。カァイイんだぞ。心なんてどうだっていいし関係ないね。こっちはメンクイの少女趣味だ」
すごく最低なことを言われてる。……。スケベな言い方しやがって。
「良い子になったからダチになるようなやつとは友達になりたくねえよ。一緒にサボって、楽しい、楽しい、楽しいって思えて、思ってくれるヤツがいちばん良い。おまえは? いつまで善の科学者をやるつもりだ」
私は――「きちんと口を開けて話せ!」ぽんぽんと背中を叩かれて気づいた。抱きしめすぎて物理的に喋れなくしていたらしい。解放してやるとよろよろと離れてから、ふんわりと抱きついてきた。
「好き、好き、好き
好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き、好き。
モノローグとダイアローグが溶けあって、まじりあって、どちらのものなのか、わからないのにわかった。
「節度を知れ」
と言いつつ、内心ころり。