一笑千金(三十と一夜の短篇第45回)
お母さんは生まれた赤ん坊がしわくちゃと水気の多い状態で、首が座らずふにゃふにゃした感触がするのを恐る恐る抱き上げて、乳を飲ませ、襁褓の世話をしてきた。だんだんと目鼻がはっきりとしてきて、泣くか眠るかだったのが、少しずつ表情を見せるようになり、どれくらい目が見え、耳が聞こえているのかと、不思議な気分にさせられる。毎日毎日付きりでいると、顔も体付きも変化していくのがはっきりと判る。
何かに付けておむつが濡れていないか確かめ、機嫌が悪ければ服の着せ方が悪いか、何か寝床に入り込んでいないかと探り(当然おむつを幾度も探る)、三、四時間ごとに乳を飲ませ、合間に母親側も休息する。
三七の日が過ぎれば床上げは、古い遣り方だが、そうでもしていなければ、出産した方の身が持たない。
母親にとっては乳の出がいいか、または人工乳の作り方の手順やら哺乳瓶の消毒やら、赤ん坊の成長に欠かせない唯一の食事に一生懸命になる。
口に入れることと同じくらい大事なのが出す方だ。赤ん坊の食といったらまずお乳。お乳しか口にしていなくても出るものは出る。おしっこは勿論、大も。
産後すぐは胎便という黒っぽい緑の、粘膜みたいな便が出る。これは胎内にいた時の羊水が主成分。お乳を飲むようになると、お乳を消化した色が混じるようになり、すっかり黄色の便に変化していく。
おしっこの方はともかく、大の排泄の回数は赤ん坊による。おむつを見る度に柔らかウンチをしている子もいれば、一日に一回か二回、硬めのウンチの子もいる。お母さんの双子の姉妹のうち、姉の諾子は一日一回の硬めの便、妹の那美子はおしっことともに大も排泄しているのだと泣きたくなるくらい、しょっちゅう柔らかめの便をして、おむつだけでなく、衣服も度々取り替えなくてはならない。
「この子はなんだって諾子と違って毎回おむつをこんなに汚すのかしら」
お母さんの不機嫌が伝わるか、元々那美子の体質が諾子よりも弱いのか、時間を置かずに泣き出して、お母さんはちっとも気が休まらない。首が座るくらいの月齢になれば、赤ん坊は夜にまとめて眠ってくれるようになるよと、実母や姑から助言されていたが、諾子はともかく那美子は当てはまらなかった。諾子だけだったらどれだけ育てやすかったかと、お母さんは溜息を吐く日々だ。
お父さんは日中仕事で不在だが、帰宅すれば妻に一休みをさせて、子どもたちの世話をしてくれるし、愚痴を聞く振りだけでもしてくれる。
「俺は諾も可愛いし、那美も可愛いよ」
それは決まった時間しか赤ん坊を見ないからだと、お母さんは思う。那美子が夜中に泣き出せば、お父さんも目を覚ますが、目下専業主婦のお母さんはお父さんの仕事に差し障りが出ないようにと、頑張ってしまう。だから、仕方ないのだ。
ただもやもやとした気分と、疲れがお母さんの中に蓄積していく。
お母さんは今日も泣き出した双子の赤ん坊、まず諾子からおむつを見る。そして那美子。いつもの通り、軟便がおむつにべったりとくっついている。綺麗に拭き取ってやり、新しいおむつを当てる。
泣く声も生まれたばかり頃とは違ってきている。那美子を泣かせたままに諾子に胸乳を含ませ、満足したら、縦抱っこにしてげっぷさせる。次は那美子を抱き上げて、乳を飲ませる。足りなければ、人工乳を作らなければならないが、那美子は満腹してくれるだろうか。赤ん坊に吸い付かれると、乳房は張る。しかし、大半諾子が飲んでしまった。これからの乳の張りは那美子の分まで追い付くか、なるべく手間を掛けたくない。そんな気持ちが出てくるのは、母として良くないのかも知れないが、消耗している。
一生懸命に乳を飲む那美子を見て、お母さんはわたしはこの子が愛しいのだろうかと、自分に問いたくなった。
やっぱり手伝いは必要だから、実家の母に頼もうかとぼんやりと考えた。
乳を飲んでいた那美子が、口を離した。もう満足したのだろうか、とお母さんは赤ん坊の顔を見た。
――まあ!
その日、お母さんは身体が疲れていても、心は晴れやかだった。
帰宅したお父さんに、お帰りなさいの次に、こう言った。
「那美子がね、今日笑ったのよ」
「ええ? 生後半年もしないで笑ったのかい?」
「そうよ。お乳を飲んで、もうお腹一杯って感じで笑ったの」
「それは飲み終わった時の口元がそう見えただけじゃないのか」
お母さんはむくれてみせた。
「いいじゃない。わたしは那美子が笑ったように見えたのよ。初めて笑ったのをあなたじゃなくて、わたしが見たの。いいでしょう?」
お父さんはやれやれといったふうに肯いた。
「そうだなあ。那美子が初めて笑ったのを見られなくて残念だよ」
「そうよねえ。いくらぴよぴよ泣いて、ウンチばっかりしていても、ご馳走様と笑ってくれるのなら、わたし、嬉しくなっちゃう」
お父さんはこれで諾子へと同様、那美子への愛情も湧いているのなら、と安心した。何もできなくて、泣く以外の自己主張ができなくても、親への笑顔、これは何にも代えがたい喜びだ。
「俺にも笑って見せてくれよ」
お父さんは声を掛けるが、双子の赤ん坊は寝入っていて、反応がない。そうっと観察していると、ぶう、と音がして、那美子が泣き出した。
「側にいるついでだから、あなたがおむつをみてちょうだいね」
妻の元気そうな声に、夫ははいと返事をした。