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第3話 一人の主婦の場合

 ―――見よう見ようとすると見られない。どうでもいいと思っていると勝手に視界に入り込んで来たり、来なかったりする。そして見たくないと思っていると、見えてしまう。

 このジレンマは、やはりこの場合においても変わりませんでした。


「もう僕5年生なんだよ、四年間も同じ小学校に通ってるのに」

「いいの!」


 今日の朝もまた、私は翔一の手を学校に引いて行きます。

 一年前に翔一のわがままを聞いて買ってやった帽子をやたらと目深に被せ、頭を下げさせます。150センチを超えた息子相手にやる事としてはどうなのと言われもしましたけど、私はまったく真剣です。すでに校内にまで被害が及んでいる以上焼け石に水だとは思ってはいますが、それでもなお希望を捨てたくはありませんでした。


 徒歩七分の道のりが、私にとっては果てしなく長い物でした。いざとなれば我が子を抱え込み、校内までダッシュして持って行く覚悟ぐらいはありました。実際一週間前にもそれをやったせいで、今は腰にコルセットを巻いている状態です。アラフォーにしてそんな事になったのに対しお義母様からさんざんグチグチ言われましたけど、まったく私の心は揺らぎません。


 絶対に寄り道をしてはいけない。自動車に轢かれて死ぬかもしれないので道路はしっかりと確認して、クラスでは先生のいう事をきちんと聞いてきっちり前を見ろ。

 全くありふれた文句でしたけど、GW明け以降児童たちはそういう事を先生や保護者から言われる回数が急激に増えていました。小学校一年生どころか、高校三年生にさえ言われているそうです。それどころか二十歳を過ぎた大学生や社会人にまで言われているとか。ああ、実にごもっともなお話です。そして私はそれを同じ事をしているに過ぎないのです。

 しかし人間って、困ったものですね、ダメだと言われると逆に興味が湧いてしまうのもまた世の常のようです。




「5月6日

 ゴールデンウィーク明けのこの日、ぼくはニュースとかで見ていたあの裸の人ってのを初めて見た。園児ぐらいの背たけをした男の子だった、これまで見ていた人とはぜんぜんちがう。テレビではぜんぜん共通している所がないって言うけど、学校で藤森くんから聞いたのはおじいさんで、藤田ちゃんから聞いたのははたちぐらいのお姉さんだった。ぼくが見たのと違う。そう言えばゴールデンウィークに藤森くんは東京ディズニーランドに行って、藤田ちゃんは横浜に野球を身に行っていたらしい。潮干狩りに行ったぼくが見なかったのは、なんでだろう。でも今の時期ならともかく、真夏の海岸とかならそんなにびっくりしないかもしれない。だからなんだろうか。でもどうして裸で走っているんだろうか、寒くないんだろうか。お母さんに聞いてみたけど、お母さんだってわからない事はあるのと言われちゃった。


 5月7日

 帰って来たら、お母さんにこのノートを渡された。昨日見た裸の人についてていねいに書けだって、確かにそのほうがいいかなと思ったので必死に思い出して書いてみた。でもうでがつかれちゃったから、今日はここまで。


 5月10日

 今日、このノートを渡されてから初めて見た。お父さんよりさらに年上って感じの、おじさんかおじいさんかよくわからない人。髪の毛が真っ黒でふさふさだったからおじさんだと思う。それでこの先、このノートってうまるんだろうか。いったいいつまであの裸の人たちはいるんだろうか。


 5月11日

 昨日、あんな事を書いたせいなのか知らないけどまた出て来た。今度はぼくと同じぐらいの女の子。それも体育の授業だったから、5年2組のみんながいっせいに見ることになっちゃった。先生は両目をふさいでしゃがんでってさけんだけど、それでもどうしても見えちゃう。その後の先生はもう、なんていうかまだ2時間目だったのにものすごくつかれてて、ぼくたちはすごく大変だった。


 5月16日

 今日は日曜日。そういうわけで1日、裸の人を探しに行く事にしてみた。でもぜんぜん見つからなかった。もう帰ってゲームでもやろうかと思っていると、ぼくの目の前をお母さんよりちょっと年上っぽい人が走って行った。見ようとすると見られないってのはウソなんだろうか。


 5月20日

 下校中に1人、ぼくと同じぐらいの年齢の男の子を見かけた。坊主頭だった。なぜか知らないけどこれまでの人より早かった、じゃなかった速かった。ああ漢字のお勉強もしなきゃ。


 5月23日

 日曜日だ。今日は探しに行かないのとお母さんに言われたけど、その気は起きなかった。おととい書いたように、もうちょっと漢字のお勉強をしなきゃいけない。


 5月29日

 月曜日 なし。

 火曜日 昼休みに外で二十代半ばっぽい男の人。

 水曜日 夕方に外をぼーっと見てたらそれっぽいおじいさんが家の前を走って行った。

 木曜日 なし。

 金曜日 学校に行く時にふたごっぽい男の子と女の子、たしかようち園ぐらい。


 5月30日 

 そう言えば昨日電話で、藤田ちゃんからおととい藤田ちゃん家の近くで変なおじさんを見たらしいって聞いた。裸なのって言ったらそうじゃなくてどうやら派手な色の服を着ているらしい。どんな人だったんだろう。」




 これは翔一と同じ5年2組の、翔一と仲の良い浅野健太郎君と言う男子児童のここひと月ほどの日記だそうです。最初はずいぶんと裸の人物に対して情熱的だったのに、だんだんと冷めて来ています。現在、この「裸の人をながめる本」と表紙に書かれた本は、ほとんど白紙かただの日記になっているとの事です。

 その浅野君の母親が言うには、もし興味があるのならばきちんと日記をつけて残しておきなさいとの事です。その結果今の浅野君は裸の人間に慣れていた、と言うより飽きていたようです。全く信じられませんね。


「授業に集中しなさい!いいわね」

「帰ったら浅野と一緒にサッカーでも」

「宿題をやりなさい!」

「やった後にすれば」

「うるさい!」

 一切の反論を封じ込め、校門の中に翔一を押し込めて私は家に帰りました。まったく、母子ともに朝から無駄に体力と気力を使ってしまっています。それもすべてあの変態たちが悪いんです。



「まあ今回の事件でいろいろ振り回されているのは私たちも同じですが、とくにお子さんは最近ずいぶんと……おうちに帰ってからどうなんですか」

「宿題はきちんとやっていますけど、なんていうかふさぎ込みがちで。それで本当は外でのびのびさせてあげたいんですけどね、どうにもこうにも……いつ消えてくれますかね」

「さあ、全くの不意打ちですからね。匙を投げるしかありませんよ。私も授業中を含め今まで六回も見てしまいましてね。しかももうご存知だと思われますが彼らは何も言わないし、何も聞かないんです」


 親としては、一刻も早くあんなのには消えてもらいたくてしょうがないのです。だけど彼らはこちらの話を聞く素振りもなく、ただ走り去って行くだけ。まるで馬耳東風で、言う事を聞かないとんでもない問題児の集まり。そしてそれを誰もしつける事ができていない。みっともないだの恥ずかしいだの言った所で何にもならないのです。

 それを見た結果どうしてあの人たちはよくてぼくらはダメなのと言う疑問が当然のごとく子どもたちに浮かび上がり、親や教師たちにぶつけられています。実際、その答えようのない質問が親や教師を大きく疲弊させ、いらだたせていたのです。

 先生やお母さんにだってわからない事はあります、そのフレーズで終わりにできれば実に簡単です。だけど子どもたちってのはその旺盛な好奇心を食糧として何度でも誰にでもその質問をぶつけて来ます。調べなさいと丸投げしても、どこにも答えのない問題を小中学生に調べさせるのはあまりにも酷と言う物ですし、その上それを真摯に実行した結果結局他の人間に聞く事になるのもまた目に見えています。それで集中して調べる経験やお友達との繋がりができるのならばいいですけど、その対象物があまりにも危険すぎるのです。


 遠ざけたい、離したい。その時が来るまではしまい込んでおきたい。

 過ちを起こす種、ともすれば責任が自分におおいかかって来るであろう種。

 その種が誰にも制御できずに暴れ回っている。何とかして別の方に向けさせたい。

 そんなシロモノを研究でもされたらどうなるでしょうか。

 答えは目に見えています。

「それから最近目をこする事も増えてますけど、寝不足ですか」

「いえいえ」

「ちゃんと時間を守らせてくださいね。まあとにかく、あれについては少しずつ慣らさせるしかないと私は思いますよ」

「そうですか……」

 そうなるとどうなるでしょうか。勉強は塾から通信教育になり、遊びは外遊びから漫画やテレビゲームになります。当然目の疲労も大きくなります。しかし今の私にはその目の疲労より、目の毒の方が恐ろしいのです。

 慣らさせなければならないと言うのは、確かにそうかもしれません。人生なんて楽な事ばかりでないのはわかっています、しかし苦難ではなく快楽、それも世間的に許されにくい形での快楽から逃れさせるのは実に困難です。




 そして悪質極まる事に、今面前にある快楽はもしこれを完全に遠ざければ人間が滅亡するという快楽なのです。社会的にかなえる事の出来ない欲望を社会的に称賛される物に変えて自己実現を図ろうとするのを昇華と言いますが、今の状態で昇華を果たすにはあまりにも誘惑が多すぎるのです。


 おとなしく受け入れればよし、抵抗しても無駄。そう言わんばかりに彼らは走り回り、そしてこの世界を蹂躙しています。戦うすべを持たない庶民には、おとなしく震える事しかできないのでしょうか。


 棒で殴ろうとした事もありました、でもまったく当たりませんでした。止まりなさいだの服を着なさいだのわめいた事もありました。けどそれで彼らがパンツを履いたりシャツを着たり、靴を履いたりしたわけではないのです。


 今朝のゴミ出しの間にもおしめが取れていなくても不思議ではない年齢の男の子が、全裸で自分の歩く速度の十倍で走って行く姿を見たのを思い出し、私は震える手で雨戸を閉じました。


 午後四時半、天気は晴れ時々曇り。風は南東の風1メートル、降水確率は20%。そんな天気予報など、もう私にはどうでもいい情報でした。



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