38・ こうしちゃいられねぇ、急げ!
『まずは、藻塩を振りかけます』
ラビちゃんは誰に言い聞かせる訳でもなく、目の前の黒鯛に意識を集中させ、自分自身で確認するように言いました。
『この切り身の大きさなら、小さじ一杯弱の量を、皮目に六割、裏側の身に四割ぐらいです。高い位置から均一になるように振りかけます。少し塩を馴染ませてから、十分に熾きた炭火で皮目から焼き始めます。しばらく放って置くと、皮の焼ける香りと共に皮脂の溶けだす音がします。音が最高潮に達すると……今です。皮脂と、身汁が垂れ落ちる瞬間にキョウギを差し入れ、受け止め、加熱したキョウギから出る芳香で香り付けをします。軽く串を叩いて皮脂を落としきったら、キョウギを戻します。これを何度か繰り返します。皮脂が炭火に落ちていぶされ、その香りを好む方もいらっしゃるでしょうが、純粋にキョウギの香りを楽しんでいただくための手法です。新鮮な魚は加熱すると皮が縮んで反り返るのですが、マリ様の皮に切れ目を入れ、串を打つ技術が絶妙で綺麗な形のままですから、焼きムラはできませんので、焼き加減をお魚を返して目で確認したりしないで、香りと音で判断します。皮目からしっかり火を通し、皮をパリっとした食感に仕上げて裏返します。焼き時間は七対三といったところでしょか。余熱で火が通る事を考えて、完全に火が通る前に……出来上がりです』
ラビちゃん、お料理研究家です! 実に懇切丁寧な説明ではありませんか。
マリだったら、
「塩振って、焼いて、経木入れて、ひっくり返して、できたー!」
で、終わりに違いありません。
ラビちゃんを取り囲む調理部の方々が立ち竦んで、焼き上がった黒鯛を見つめている中、マリが悠然とフォークを手にして、出来上がった塩焼きをひと切れ、口に含みます。薄っすらと目を閉じ、舌先に神経を集中させるかの如く咀嚼して、嚥下すると、香りを確かめるためなのでしょうか、ゆっくりと鼻から大きく息を吐きます。
何でしょうこの緊張感。まるで喉元に剣を押し当てられたかのような心持です。私だけではありません。この場にいる皆が固唾を飲んで見守っています。
お! マリの口角がムニュムニュと動いたかと思うと、二パっと真っ白の歯が覗きました。
『ウメー!』
マリの一言を合図に、調理部の方々が弾かれたように、塩焼きに殺到します。
こうしちゃいられません。
余り物で作った鯖の塩焼きもそりゃもう絶品でしたが、マリが自ら選んだ「今日一の黒鯛」です。大きな黒鯛でしたが、切り身の数はそれほど多くはありませんでした。食べそびれる訳にはいきません。
大慌てで腰を浮かせた……その時です。




