犬神(6)
太陽はじりじりとその威力を増していく。
「まだかよ」
「あと少し」
焦れた余鬼の問いかけに、華は空を仰いだまま短く答える。
余鬼はちぇっと舌を鳴らして、同じく空を見上げた。先刻と変わらぬ位置に見える太陽を細目で眺めては、「全然分かんねえ……」と独りごちる。
白犬は廃屋から鼻先を出した状態でうつぶせていた。そこからならば、集落の様子をうかがうことができるのだ。見張りとは言っていたが、もしかすると疲れ切って眠っているのかもしれない、ここしばらく、動いた様子がない。
次第に暑くなっていく空気の中、廃屋の作りだす影が心地よさそうだ。
葉太は魔方陣の文字を空きもせずに眺めている。何度か呪文を口に出して、魔方陣の効力を発揮させてしまい余鬼に怒られていた。
「ねえ、式神って何?」
魔方陣の解読作業をしていた葉太が顔を上げた。
「魔方陣にいっぱい書かれているけど」
「おれみたいなやつのことだよ」
「余鬼くんみたいな?」
『――陰陽師と呼ばれる者に使役されるもののことだ』
端的すぎる余鬼の答えを、白犬が補足する。あくび混じりのところを見ると、やはりうたた寝をしていたのかもしれない。
ふうん、と葉太は白犬に向き直った。
「さっき、紙に見えるはずだって言っていたよね。あれはどういうこと?」
「そのまんまだよ! おれの実体は人の形に切り抜かれた紙、ヒトガタなんだ」
「人間じゃないの?」
「ちげえよ。人間だったら犬神のエサになんかされねえだろ」
『俺は人間のほうが好みだがな』
白犬がまぜっかえして、ちらりと華を見る。表情をこわばらせた葉太が、空を見上げたままの華の姿を白犬の視界から隠すと、『冗談だよ』と表情を変えずに、白犬が言った。
「この魔方陣を作ったのは誰?」
「おれの主人」
「陰陽師の?」
「ああ」
葉太は納得したように小さくうなずいて、それから驚いた表情で余鬼を見た。
「余鬼くんの主人が、余鬼くんを犬神に食べさせようとしたの?」
「悪いかよ」
拗ねた口調で余鬼は答えた。
「主人に殺されそうになったの?」
上を向いた華が口を挟む。
「文句あんのかよ」と余鬼がすごんでみせるが、その様子がなぜか毛を逆立てた小猫を思わせて、全く迫力がない。
「……どうしようもねえ奴なんだよ、おれの主人は。主人にとって、おれは最後の一体、要するに唯一の式神だぜ? それを、犬神を作るための材料にしようとするくれえだからな」
『経緯からして、同情には値しないからな』
あくまでも眠たそうな表情を隠さずに、白犬が口をはさんだ。
『インチキな品で、地主たちからずいぶんと金を巻き上げていたのだろう? それがばれて突き上げを食らっていたところを収めてくれたのが、坊主の主人がいうところの依頼人だ。引き受ける以外の選択肢はなかっただろうな』
「変なの。余鬼くんの主人って人はインチキなものを売っていたのに、どうしてイヌガミだけは信じてもらえたのかしら?」
「擁護するわけじゃねえけど」
華の言葉にかぶさるように余鬼が反論する。
「おれの主人は、京でけっこう名の知れた陰陽師だったんだぜ。元々、京にいた奴なら、名前を聞けば分かるくらいのさ。だから、依頼主の奴も主人に頼んだんだ」
「本当に?」
「今はできるのか分かんねえけど、昔の主人だったら絶対に作れていたぜ。何しろ、京にいた時は何十体も式神を従えて、御所にだって堂々と出入りしていたんだ。兄ちゃんたちなんか、いつでもどこでも嵐を起こせるくらいの力を持っていたんだぜ」
兄ちゃん、というのは、何十体もいたという式神たちのことだろう。
その名を出すときだけ、余鬼の目が無邪気に輝く。
「お兄ちゃんたちはどこにいるの?」
「いねえ」
ぶすっと余鬼が口を尖らせた。
「みんな取られちまったんだよ! 他の陰陽師に」
「取られるって?」
「本当に何にも知らねえんだな。式神ってのは取りあいなんだぜ。おれだって、今は主人に従っちゃいるけど、もっと強い力を持つ奴がおれを欲しがれば、おれはそっちにひかれていくんだ。式神を取られるっつうのは、だから陰陽師に取っちゃあ不名誉なことで、それもたくさんの式神を根こそぎってことになりゃあ……そっからなんだよな、主人が自信をなくしたのは」
それから、余鬼はちら、と華を見た。
「んなことより、お前らは一体何なんだよ。狐が喋るし、能力があるくせに何にも知らねえし。お前らのほうこそ意味が分からねえよ」
「双子だよ。僕たち」
「はあ?」
「双子なんだ。僕と華は。全然似てないけど」
「……似てるとか似てねえとか、そんな問題じゃねえだろ」
ぶつくさ言いながら、余鬼は双子を見較べる。
『親の顔を見てみたいものだな』
白犬も体を起こして双子の顔を順繰りに見つめる。
「お父さんは、死んじゃった……」
消え入りそうな声で、葉太は答える。
「でもね、お母さんがどこかにいるはずなんだ。僕たちを生んですぐにいなくなっちゃったみたいだけど。僕たちはね、お母さんを探すために山を下りてきたんだ」
「父親ってのは、人間なのかよ」
「うん。それで、お母さんは狐なんだって。僕とお母さんはそっくりだってお父さんが言ってたよ」
得意げな葉太の声。
自分と同じ姿の家族がいるということが葉太にとって嬉しくて仕方がないのだろう。
父親と華とは全く異なる自分の外見を、葉太はこれまでずっと気にしてきたということは、華も知っていた。過去には自分の感情を扱いきれずに癇癪を起こし、自身の美しい毛をむしったこともあった。
自分の姿に引け目を感じていた葉太にとって、母親が自分と同じ狐だったという事実は、心が救われるような思いを与えてくれたことだろう。
「別に珍しいことじゃねえな」
いまさっきあからさまに驚きの感情を見せたくせにそれを認めたくないのか、余鬼は不自然なまでにぶっきらぼうに答えた。
「おれの主人も狐とのあいの子だって言ってるしよ」
「えっ!」
双子の声が重なった。
期待に満ちた双子の態度に、余鬼はふん、と鼻を鳴らす。
「見た目から言うと、ねずみとのあいの子じゃねえかと思うんだけどな」
『――同感だ』
愉快そうに白犬が尻尾を振った。
『五十年ほど前に活躍していた伝説的な陰陽師が、狐と人間の間に生まれたといわれているんだ。だからきっと、箔付けのためにそう嘯いているんだと思うがな』
余鬼の主人の主張を一蹴し、だがしかし、と白犬は双子を交互に眺めた。
『もしかすると、その噂は事実かもしれんな。人間と情をかわせるほどの妖力を持った狐の血を引くのであれば、確かに、紙の人形を操ることなどたやすいことなのかもしれん』
「じゃあ、僕にもそのヒトガタっていうのを使えるの?」
好奇心に目を輝かせて、葉太が尋ねるが「お前のその手じゃあ、紙を切り抜くこともできねえじゃねえか」という余鬼の一蹴を受けて、あからさまに落ちこんだ様子を見せた。しょんぼりとした葉太と、頬を膨らます華、なぜかうるさく鳴りだした鈴を見て、余鬼は慌てて言葉を続ける。
「面倒な奴ら。教えたところで意味ねえと思うけどよ」
なだめるような口調。余鬼は余鬼なりに葉太に気を使っているようだ。「式神にできるのは、別にヒトガタだけじゃねえぞ」
「どういうこと?」
葉太が問うと、余鬼は胸を反らせた。
白犬は目を細めて、得意げな表情を隠しもせずに教授を始めた余鬼を眺めている。目の色と表情にどこか微笑ましいものを見る、といった感情が浮かんでいるところをみると、余鬼に愛情がわく、と言った白犬の言葉は事実なのかもしれない。
自分のほうが物知りだということを主張し、上位に立とうとする姿は、まるきり幼い子供のそれである。
「要するにさ、何になら人格を投影できるかってことなんだよ。自分の能力の一部をよりしろに流し込むんだからさ。あんまり自分の姿とかけ離れているんじゃ、うまくいかねえってことだろ」
「――じゃあ、例えばこれにも?」
葉太は首元にある鈴を見せた。ちりんちりんとなる鈴の音は、どこか嬉しそうにも聞こえる。
「理屈ではな。そこに呪術をかけるのは結構難しいぜ。そいつがおれみたいに意志をもつってはっきり想像できないとなんねえからよ」
「ふうん、陰陽師ならそういうことができるの?」
「そうだよ、だから陰陽師ってのはすげえんだ。ふつうの人間には出来ねえだろ? 京に行ってみろよ、尊敬を受けまくるし、平伏する奴だっているんだぜ」
『……逆もしかりだけどな』
止まらない余鬼の自慢話に、白犬が口をはさんだ。
「逆って?」
問い返す葉太の視線の先を見て、「また余計なことを話してんのかよ」と、余鬼が口を尖らせた。
『尊敬を受けることと、恐れられることはほぼ同義なんだ』
余鬼の視線に苦笑を浮かべながら、白犬は言葉を続ける。
『力があるうちは、皆の尊敬と畏怖を一身に浴びるが、力を失ったり、弱点ができたりすると、尊敬は一気に憎悪に変わる。以前の権力が強い者ほどその落差は大きいな』
「……何だかお父さんたちみたい」
空を見上げたまま、華が呟く。
郷士として、村人から慕われていたはずの双子の両親は、双子が生まれ、母親の正体が知れた途端に、その地位を追われることになったのである。父親は自ら村を去った、と語っていたものの、それが嘘であることは幼い双子の目からも明らかだった。
生まれ故郷から遠く離れた山中で、余生を過ごすことを余儀なくされた父親の心中はいかばかりだったか。
『良くも悪くも、周囲とは異なる、ということだからな』
「みんなと違うのはそんなにいけないことなの?」
尋ねた葉太の口調はどこか元気なく、華は横目でその様子をうかがった。
山を暮らすことになったいきさつを双子に語る父親は、狐姿の葉太を責めるようなことは決してしなかったが、話を聞きながら「僕のせいで……」と呟いたのを、華ははっきりと耳にしていた。何を気にすることがあるのか、とその場ですぐに言えなかったことが今になって少し悔やまれる。
華にはむしろ、金色の輝くような毛並みがうらやましくてならなかった。
自然に溶け込み、自然の中で生き生きと跳ねまわる葉太を見ながら、華はどことなく疎外感を覚えていたのだから。草木に始終擦り傷を負わされる自分の姿と比較し、葉太の美しい姿を目を細めて眺めることもしばしばだったが、これはない物ねだりというものか。
『そうだな』と、白犬は思案げに葉太を見た。表情からその心情をなんとなくであっても察したのだろう、白犬は優しい笑みを浮かべた。
『俺には、坊ちゃんはとても美しくて、誰からも愛されて当然と思うんだけどな』
「あたしもそう思うよっ」
心のこもった白犬と華の言葉に、葉太はくすぐったそうな笑顔を見せた。
「なんだよ、おれをほうっておいて、勝手に話を進めんじゃねえよ!」
口元を不機嫌そうに歪めた余鬼が我慢できずに、言葉を挟んだ。
あまりに子供っぽいその態度に、双子は顔を見合せて笑う。
「むかつくな、くそ」
余鬼が悪態をつくのとほぼ同じくして、白犬が耳をぴんと逆立てた。鼻を動かして、匂いを探る。
『嬢ちゃん、その南中とやらはまだ先か?』
「あと少し。もうちょっとお喋りしたらすぐだよ」
華の答えに、白犬は小さくため息をついた。
『そうか、じゃあこの坊主を助けるのは諦めろ』
「どうして?」
『坊主の主人が来た』