犬神(5)
華も葉太の隣に腰を下ろした。
しびれの残る手をおさえながら怖々、葉太の読んでいる文字らしきものをのぞきこむが、単なる記号の羅列にしか見えない。
「華も読めない?」と葉太に問われて、華はうなずいた。
「だってこれ、文字じゃないでしょ」
「でもさ、書いてあることは分からない? お父さんから教えてもらった字とは違うけど」
『驚いたな』
白犬までもが、少年の足元をのぞきこんでいる。
白犬の鼻先がすぐ近くまでやってくると、少年は体をこわばらせて、引き絞るような声を喉の奥から出した。
『かなり嫌われてしまったようだ』
白犬は渋い顔をして、双子を見た。
『これは魔方陣だ』
「魔方陣?」
耳慣れない言葉の連続に、双子はおうむ返ししかできない。
「なんだよこの犬、何でも知ってんじゃねえか」
少年が八つ当たり気味に怒鳴る。
先程、白犬に怯えさせられた分を取り返そうというように。
「おればっかりびびってたみたいで、馬鹿みてえだ」
『ほっとしたんだろうさ。あまり目くじらを立てないことだ』
仕方ないな、とでも言いたげな白犬の言葉はまるで保護者だ。双子が思わず笑みをこぼすと、少年は、白犬を睨んで口を尖らせた。
「また、その犬が余計なこと言ってんのか」
『大分元気を取り戻したようだな。安心したよ』
ふ、と白犬は渋い笑みを見せる。
「優しいんだね」
葉太が言うと、
『十日近くも一緒にいるからな。悪態をついているところから、諦めておとなしくなるところまで、ずっと見てきた。俺を怖がって怯えている様を見るのは、さすがに心が痛んだよ』
「ふうん」
華は呟いて、それから再び地面に視線を落とした。
「それで、魔方陣っていうのは何のことなの?」
『呪いを記し、発揮し、増幅させるためのものだ――おそらく坊ちゃんは、魔方陣に書かれた文字を読んでいるのではなく、呪いの性質そのものを読み説いているのだろう。感覚が優れているということかな』
言って白犬は賞賛するようにぱたぱたと尻尾を振った。
「なんて書いてあるの、葉太?」
「ええとねえ――」
華の言葉に葉太は、鼻先を地面に押しつけそうなほどに近づけ口を開く。
口から出たのは、奇妙な言葉だった。
確かに双子が父親から教わった言葉であるのは、葉太の口を介してならば、呪文の意味をうっすらと理解できることからそうと知れた。しかし、使いなれない言葉であることは確かだ。
「頼むから、言葉にすんな……」
しかめっ面で少年がうめいた。「締めつけが強くなってんだよ」
『ふふ。効果が出ているな。他人の魔方陣も利用できるとは、やはり坊ちゃんには才がある』
白犬のほうは楽しそうである。
「ごめんね」と葉太は素直に謝り、今度は無言で地面を凝視する。
「君の名前は余鬼っていうの?」
神妙な面持ちで、少年――余鬼はうなずく。
「余鬼を縛りつけるための縄だって書いてあるよ。この魔方陣から一歩も出ることはできないって」
葉太はさらに、その記号を読み解いていく。
「縄が解けるのは、余鬼の身体が犬神の牙に砕かれたとき――」
葉太の言葉に、余鬼はひゅっと息を吸った。眉をこれ以上ないくらいに下げて、行儀よくお座りをする白犬をのぞき見る。
『……やれやれ、仲直りはできそうにないな。ほかに、縄の解ける条件はないか? 通常、魔方陣には例外を設けているはずだが』
「えっとねえ――あっ、これかな。太陽が南中したとき、この陣を壊せば、縄は焼け切れる」
「南中?」
「南中ってのは、太陽が空の真上にくるってことだ。昼のど真ん中。ったって、そんなの分かるわけねえし」
「……ど真ん中」
華は呟いて、ふんふんと匂いを嗅ぐ。
青く澄んだ空を仰いで、鼻から深呼吸をする。
「もうすぐね――でも、本当に壊せるのかな?」
「分かるの、華?」
「え? 分からないの?」
きょとんとした華の態度に、白犬が笑い声を上げた。
『そっちの嬢ちゃんは、星の動きを感じ取ることができるのか――坊ちゃん、嬢ちゃん、そこの坊主に言ってやれ。お前の御主人など足元にも及ばない才能を持つ陰陽師たちが来たぞ、とな』
「おんみょう、じ?」
愉快そうに犬は牙を見せる。唾に濡れて光る牙に、己の体が裂かれる様を想像したのか、余鬼は驚いたように体を縮めた。
『ああ、あとで教えてやる。それよりも先に怯えきっているあの坊主を安心させてやってくれ』
首をひねりながら華が白犬の言葉を伝えると、余鬼は泣き笑いの表情を浮かべた。
「お前ら見てえなガキが、おれの主人よりもか」
胡散臭そうに双子を眺めまわすが、やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあ、どうでもいいや。その南中とやらになったら、おれの縄を切ってくれや」