犬神(4)
「お、おい。お前ら何やってんだよ。そいつは腹が減ってんだぞ。自由になったら襲ってくるんじゃねえか?」
少年が引け腰になって言った。
『命の恩人に手出しするほど腐っちゃいないさ』
「痛くない? 苦しくない?」
不器用そうに前脚を使って地面を掘る葉太の顔は、今にも泣きだしそうである。
『何ともない、気持ちいいくらいだぞ? どうしてそんな顔をするんだ?』
気をつかわれた白犬のほうがむしろ心配そうである。
うぐ、と声をかみ殺して、葉太は地面を掻き続けている。
「葉太……」小さく呟いて、華は下りてきた山をかえりみた。その声も、湿り気を帯びていた。
よみがえるのは、物言わぬ父親の体を埋めた記憶である。
双子の表情に感じるところがあったのか、白犬はそれ以上の追及をやめた。目を閉じてなされるままになり、時折、衰弱した身体を動かし、土を緩めて双子の作業の手助けをする。
華も葉太も泥だらけになってようやく掘り出した白犬は、想像よりも大きかった。華くらいの年齢の子供であれば、背中に乗せて運ぶこともできそうだ。
汚れた身体をひと揺すりし、毛並みについた砂粒をふり落として白犬は大きく伸びをした。泥と汗で固まった毛が白犬の体に張り付いて、堂々とした大きな体の異常なやつれ具合を目立たせる。
『全く、人間の下らん遊びにつきあうのも骨が折れるな』
「どうして犬さんをイヌガミっていうのにしようとしていたの?」
『呪いの道具にするためさ』
華の問いかけに、白犬はあくびまじりで答える。
「……呪い」
『どうしても殺したい相手がいるからと、坊主の主人が頼まれたんだ』
言って、白犬は少年をちらりと見た。
白犬と双子の会話についていくことのできない少年は、限りなく不機嫌そうに、口を尖らせている。自分をほうって進んでいく話に対し、少年は完全無視を決め込んだようだ。
「殺してどうするのさ!」
「一人を殺すために、この子と犬さんを殺しちゃうの?」
双子の声が重なった。
今にも泣き出しそうに叫んだのは葉太、首をかしげてたずねたのは華である。
『人間の定義だと、獣や式神の命は人間のものよりもずっと軽いそうだ。一人殺すのに、式神と獣一匹分の犠牲は不可抗力ということのようだな』
華の問いかけに対する白犬の言葉である。
せめてもの抵抗だろうか、自嘲的な笑みを口元に浮かべている。
『相手がいなくなれば、自分の権力はもっと強くなる――それが理由だ』
続く言葉は、葉太の質問への答えである。
「権力って?」
『他人を支配するための力、かな。なかなか難しい概念だな』
「支配……」
「権力ってのは反則みてえなやつだ」
白犬の説明を受けてもまだ理解できない表情の双子に、少年が口をはさんだ。白犬の話している内容は分からないながらも、「権力」という単語に反応したようである。
「それさえありゃあ、なんだってできるんだ。狙った相手を悪役に仕立てることも、相手の持っているものを奪うことも……全部だぜ?」
『坊主の言う通りだろうな』
白犬が少年の言葉を継ぐ。『人間は権力のために狂うし、狂わせられる』
「そんなことのために!」
葉太が悲鳴に似た声を上げた。
白犬は薄く笑って、双子を見比べる。
『まさにそんなことのためにだな。だが、そんなことをめぐって争い続けているのもまた、事実なんだ』
「……犬さんは、イヌガミになったら殺しちゃうの?」
華の問いかけに、白犬は「まさか」と言い捨てた。
『そんな下らんことに利用されるのはまっぴらごめんだな。そもそも、イヌガミになるかどうかを決めるのは――結局は俺の意志だ。向こうが俺をどうしたいかじゃなく、俺がそれを望んでいるかどうかが全てを決めるんだ。たとえ死んだとしても叶えたい望みを俺が持っているかどうか、がな。それは何も、食べることに限った話ではあるまい』
「望み――」
『人間たちは食欲だけだと思い込んでいるようだがな』
全く犬を馬鹿にしていると、白犬は口を歪めて小さく笑い、不機嫌に背を向けたままの少年を見た。
『それに、坊主には内緒だぞ――あの主人程度には使役される気はしない』
いたずらっぽく笑い、それから『よし』と体を起こした。
「犬さんはこれからどうするの?」
『さて、どうするかな。長年もともに暮らしてきた俺を、わずかな米と引き換えにするような主人のもとに帰る気にはなれんしな、まあゆっくり考えるさ』
のんびりした口調である。双子と犬の様子を横目でうかがって、少年はちぇっと舌を鳴らした。背を向けたまま、やけくそ気味にわめく。
「何だよ、おれだけおいてきぼりかよ」
「君も逃げればいいじゃない」
「それができりゃ、こんなところで犬なんかと一緒にいたりしねえよ」
「動けないの?」
「文句あるのかよ」
ただ座っているだけじゃない、と不審に思いながら、華が少年を引っ張り起こそうと手を伸ばす。
「おいばか!」
少年の制止の声とほぼ同時に、ばちっと音がして、華の全身に鋭い痺れが走った。痛くはなかったが、衝撃で華は尻もちをついた。狼狽して華に駆け寄る葉太の動きに合わせて、首に巻いた鈴が不規則な音を立てる。共鳴するように、華の手首の鈴も澄んだ音を響かせた。
「……びっくりした」
衝撃で一時、呆然としていた華が、ようやく口を開いた。それでもまだ、口調自体は棒読みに近い。
「びっくりしたあ」
今度は少し笑いが含まれている。音自体はかなり大きかったが、怪我はなく、しびれた手のひらが赤くはれている様子もない。心細げに華を見つめていた葉太も、ほっとしたように表情を緩めた。
「あんまり驚かさないでよね」
拗ねた口調を出しながら、それでも葉太は華の手のひらを優しくなめる。
「そんな簡単に解けるんなら、苦労しねえっての」
少年が仏頂面で吐き捨てた。衝撃音が聞こえたときに体を大きく震わせていたことなど、なかったような態度である。
『坊主の主人が、術をかけていったんだ』
「術……?」
『ほら、坊主の足元に何か書かれているだろ?』
葉太は少年に近づいて、その足元に鼻先を寄せた。
「本当だ。ええと――」
たどたどしい口調ながらも、何やらを読みはじめる葉太の姿を、少年は口をぽかんとあけて眺めている。
「お前、読めんのか?」
「え?」
葉太はくりくりした目を真ん丸に開いて首をかしげた。




