生霊 (9)
翌日、双子は再び河原を訪れた。
すでに夜は更け、人気のない河原には鳥の声と虫の音が響く。
連れだって歩く葉太が、期待と不安の入り混じった目で華を見上げている。再び美子に会えるという喜びと、華の意図が分からないという懸念が、葉太の表情を複雑にしている。
無理はない。
先程までずっと、華は葉太と別行動をとっていたのだ。
自分の式神すら葉太に預けて。
美子とその父親の暮らす小屋の前に立ち、深呼吸の後、華は扉を軽く叩いた。家の中を緊張が走るのが、扉越しでも分かった。
「こんばんは」
警戒心を解くために、華はできるだけ明るい声を出した。わきでは葉太もきゅうきゅうと鳴いている。
すこしあって、わずかに開いた扉の隙間から、美子が顔をのぞかせた。
「……狐ちゃん?」
嬉しそうな鳴き声をあげる葉太を見て、美子は扉をさらに開けた。勢いよく葉太は美子の足にじゃれつく。鼻先をこすりつけてくる葉太に微笑みかけながらも、美子は華に怪訝な目を向ける。
何かを問われる前に、華は勢いよく頭を下げた。
「突然ごめんなさい。でも、どうしても葉太が会いたがって……」
「嬉しいわ」
美子はふっと相好を崩した。
腰をかがめて、葉太の頭をなでる。
首を伸ばして、華が奥をのぞきこむ。慌てて美子は体をずらし、視界をさえぎるが、乱雑な部屋の様子が華には見て取れた。
部屋の奥で聞こえる規則的な寝息には、不吉な響きの咳が混ざる。
あいまいに笑って、美子は葉太の毛をなでつけた。
葉太に夢中になっている振り、だ。
「寝ないの?」
「まだ寝るには早いわよ」
「どんな夢を見るの?」
たたみかけるような華の質問に、美子は小さく息を飲んだ。
「こくしの夢?」
返事はない。
「いつも考えているの? あの人のこと」
「……何が言いたいの?」
葉太をいつくしむように動かしていた手を止めて、美子はたずねる。
柔らかく下がっていた眉がわずかに上がり、華に対する警戒心が見て取れた。
「何がって?」
華は無邪気に笑って、美子の問いかけをはぐらかす。自分の笑顔には、他人の心を解く力があるということを、華はおぼろげながら理解していた。
――そういう意味では、無邪気とは言いがたい華の笑顔だ。
「実は、美子ちゃんにお願いがあるの」
言って、ちらりと葉太を見やる。
「葉太を三日間だけ、預かってもらえないかなあ?」
美子が目を見開くが、それよりも驚いていたのは葉太だっただろう。
「きゃん」と鳴いて飛び上がった。
「あたしね、ちょっと用事ができちゃって、どうしても葉太を連れて行けないの。でも、ここには誰も知り合いがいないし、困ってたんだ。そうしたら、美子ちゃんのことを思い出して。葉太も美子ちゃんが大好きみたいだし」
華はにっこりと笑う。
「どういうことですか?」
葉太の毛並みの奥から鈴の音が問う。
葉太も全くその通り、というように華を見上げているが、華は無言で目配せをした。
「華さま華さま華さま」
ちりちりちりちりと、華の手首で鈴が鳴る。
葉太も鈴も、困惑しきりの心を必死で押しとどめようとしている。
華の真意を知る者は、この場には誰もいない。
戸惑うのも当然だ。
話せば、華がこれから何をしようとしているかを葉太と式神たちに伝えれば、全力で止められるのは目に見えていた。
だから、利害の一致しそうな相手に声をかけたのだ。
相談をしたのは兼房である。兼房とその式神である。
「美子ちゃん、お願い」
華は言って、頭を下げた。
話に置き去りにされた葉太は、ぽかんとした表情で華を見ている。
とりあえず、引き返せないところまで押し切ってしまえばよい、と華は考えていた。美子が葉太を預かることを承知してくれさえすれば。
ずるい手だということは分かっている。
美子の前ではあくまでも普通の狐――少なくとも、化物でない存在でいたいという、葉太の思いを利用しているのだから。
「特別なことはしなくていいの。ただ、三日間ずっと一緒にいてもらいたいの。この子は淋しがりだから、お仕事をするときも一緒に連れて行ってね」
葉太を捕まえようとしたおじちゃんには、いじめないでくれるようにお願いするから、と華は付け加えた。それでもしばらくためらっていた美子だったが、双子を交互に見つめ、それならば、と首を縦に振った。
丁寧に頭を下げて、美子の家を後にする華を葉太が追いかけてきた。
「――ねえ華、どういうことなのさ?」
美子にきかれないように、小声で尋ねる。
「かねを手に入れてくるの」
葉太の目線に合わせて腰をかがめた華は、ぴんと立った金色の耳に口を寄せて囁いた。
突然の宣言を聞いて絶句した葉太に、華は諭すような口振りで続ける。
「葉太にして欲しいことはひとつだけ。美子ちゃんのそばにずっといて、楽しませて欲しいの。起きているときも、寝ているときも、嫌なことを考えさせないようにね。怖い鬼なんて、絶対に彫らせちゃだめ」
「生霊にならないようにってこと?」
「そういうこと」
華は短く答える。
葉太には自分がどこに行くか、知られたくない。いや、すでに葉太は感づいているだろう。だがその一方で、華の行為が美子を救うためのものだとも知っている。それだけに、止めるべきか止めざるべきか悩んでいるのだ。
華が行き先を公言すれば、葉太は必ず止める。
黙っていれば迷いを解消できずに華を見送るだけだろう。
だから、余計なことは言わない。
「約束よ」
それだけ言って、華は立ち上がった。
「三日で戻ってきてね」
不安げな葉太に、華は無言でうなずいてみせた。
「――華さま、まさか」
葉太と別れてから、美子の家から少し離れた木立の陰で様子をうかがう華に、鈴が声をかける。
小屋からは、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「葉太と一緒にいると、美子ちゃんは恨みを忘れられるんだって――兼房おじちゃんが」
「やはり、あのねずみと」
言って鈴は小さく息をついた。
「何故、今日にかぎって私を手放すのか、気になってはいましたが……」
「ごめんね」
華は呟き、それから口元をきつく結んだ。細かく震える足元――
もう戻れないところに自分を追い込んだのだ、怖がっている場合ではない。
大きく深呼吸をして、華は美子の家に背を向けた。




