犬神(3)
しばらく歩いたところで、遠くに人家が見えた。
「あれがむら?」
双子は顔を見合わせて、覚えたばかりの単語を口にした。
かつては父と母も「むら」で生活をしていたという。
そのことを双子は父の死の直前に聞いた。
双子が生まれる以前のことを一切話そうとしなかった父親が、死の影が色濃くなってから、重たい口を開いたその意図は双子には知る由もない。亡くなる前に、少しでも母親のことを子供たちに伝えたかったのかもしれないし、過去を振り返る、独り言のようなものだったのかもしれない。
父親の思いはどうであれ、双子はこう受け取った。
――むらへ行けば、母に会える、と。
だからこそ、双子は父親の眠る山をあとに、人間たちの住む山の下へと降りてきたのだった。
さほど大きくはないとはいえ、家が密集している光景を見るのは初めてだ。好奇心を刺激されて、双子の足が軽くなる――が、聞こえてきた低いうなり声がその足を止めた。
「何?」
「分かんない」
声のした方向には、小さな廃屋があった。
村はずれの人気のほとんどない場所である。
首をかしげながら廃屋の裏手に回った双子は、そこに、一匹の犬と一人の少年がいるのを見つけた。
泥と埃で灰色っぽくなっているものの、元々は白い毛だったのであろうその犬は、かなり大きな体を持つように見える。見える、というのは犬の全身が確認できないからだ。
首から上だけを出した状態で、犬は埋められていた。
白犬の近くに膝を抱えてしゃがみこんでいる少年はといえば、かけらも汚れの見えないまっさらな白い着物を身に着けている。微かに吹く風で舞い上がった土ぼこりが空気に充満していることを思えば、不自然なほどに白かった。
あちこちにぴんぴんと跳ねる蓬髪の下の表情は、いかにもきかんきそうで、口はへの字に曲がっている。しかし、怨みがましく目の前の白犬を見る両の目に生気の光は乏しい。
少年はすぐに闖入者である双子に気づいたが、一瞥すると再び白犬に向き直った。
双子の相手をするつもりなど、これっぽっちもないようだ。
「ねえ、何しているの?」
華が尋ねるが、少年はただ口元を歪めただけで、双子の方を見ようともしなかったが、葉太が続けて、
「犬さんがかわいそうじゃない」と少年に訴えると、驚いたように目を見開いて腰を浮かせかけた。今度は双子をまっすぐに見ている。
「どうして掘り出してあげないの?」
「おれが、見えるのか?」
さらに声をかけると、少年はようやく口を開いた。埋められ、体を動かすことのできない白犬も、自由になる目玉だけを双子に向けて、成り行きをうかがっている。
「見える? どういうこと?」
華の言葉に、少年はわざとらしく肩をすくめた。
「狐がしゃべってるし、変な奴ら」
「僕は葉太だよ」
「名前なんて聞いてねえよ」葉太の抗議に耳を貸さず、むすっとして少年は双子に背を向ける。
「あのさ、こんなところで何しているの? 楽しいの?」
「――遊んでるんじゃねえよ、ばか」
話は終わりだ、とばかりのふてくされた口調で少年は吐き捨てるが、双子がそれで納得できるはずがない。
「じゃあ、何なのさ。つまんないならやめればいいのに」
「おれが見えるのに、何にも知らねえんだな。これは犬神の儀式だよ」
「いぬがみの」
「ぎしき?」
「ああ」
少年の口振りは、相変わらず愛想のかけらもない。
「しょうがねえから教えてやるよ。犬の首から下を埋めて、動けないようにすんだ、それで、目の前に食べ物をおいてやる。がんばっても届かない距離にな」
少年は白犬を見て一度、下唇を噛んだ。涙をこらえているように。
「――そうすっと、犬はエサを食べたくて食べたくてしょうがなくなるだろ。食わなきゃ死んじまうんだしな。腹が減って死ぬ直前の犬の首を切るんだ。ばっさりとな」
「ひどい」
葉太の呟きを無視して、少年は続ける。
「でもよ、そうやって首を切り落とされた犬は、魂の状態でずうっと食いたがってたエサにかぶりつく。これで犬神の一丁上がりだ」
「今はその真っ最中ってこと?」
華の問いかけに、少年はうなずく。
「見はりをしているの?」
「ちげえよ」
「エサはどこにあるの?」
ひと呼吸おいて、吐き捨てるように少年は呟いた。
「おれだよ」
「え?」
双子の声が重なった。なかなか進まない会話に苛立って、少年は怒鳴り声を上げる。
「だから、おれが犬神のエサなんだって!」
「……生きたまま?」
ふん、と少年は鼻を鳴らす。
「生きているように見えるのか、本当に変な奴ら」
『――驚いたな』
三人の会話に突如、低い声が割り込んできた。
声の先に目をやると、地面に埋められた白犬が苦い笑みを浮かべていた。
『まさか俺の言葉も分かるとはな』
小さく呟いて、『普通の人間であれば、あの坊主はヒトの形に切り抜かれた紙にしか見えないはずだ』と、あくまでも冷静な口調で言う。
「紙……?」
「ああ、そうだよ、おれは紙でできたヒトガタ――」
言いかけて、少年は言葉を切った。
「なんで知ってるんだよ」
「だって、この犬さんが」
『あいつに俺の言っていることは理解できないよ』
達観し切った口調で白犬は言う。あまりに落ち着き払っているため、体のほとんどが埋められていることなど忘れてしまいそうだ。
『まさかお前たちみたいに理解できる奴がいるとは思っていなかったがな――多分、人間どもの言うイヌガミってやつに近づいてきているんだろうな』
「何してんだよ、おれをほっといて変な真似すんなよ」
白犬の言う通り、少年は白犬の言葉を理解できないようだ。
少年がわめく。
「犬さんが、君が紙だって教えてくれたよ」
「はあ?」
葉太の言葉に少年は体をこわばらせて、恐る恐るといった態で白犬を見る。
「口から出まかせを言っているわけじゃねえよな。だって、お前らはおれがヒトガタだって知らねえもんな。あーくそ、もうすぐおれもおしまいか」
「おしまいって?」
「だって、喰われるんだぜ。首を切られた犬がおれにかぶりつくんだぜ。なあ、そいつに痛くないように頼むって伝えてくれよ」
『紙なんて歯ごたえも味もないものを食べるなんて御免だな。腹は減ったが、坊主に対する食欲はかけらもないぞ』
すかさず白犬が言葉を挟む。葉太がそのまま伝えると、少年は泣き笑いの表情を浮かべた。顔がくしゃくしゃになる、と間もなく大粒の涙をこぼしはじめた。
『怖かったんだな。あまり泣くと身体が破れるぞ、と伝えてくれ』
少年の突然の反応に戸惑うばかりの双子に、白犬は落ち着いた口調で言った。
「畜生、そんなら初めっから言えよ」
『意志疎通ができない以上、どうしようもあるまい』
にらみつける少年に対し、白犬は澄まし顔である。
『それよりも』
と、白犬は双子に向き直った。
『俺の身体をここから掘り返してくれないか? 俺はイヌガミとやらになるつもりはないし、何よりも、餓死するのはごめんだ』
「うん」
双子は白犬の首元に座りこみ、地面を掘りはじめる。