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人魚 (10)

 双子が目を覚ましたのは、夕日の赤味と夜の闇がせめぎ合いを始めたころだった。


 余鬼は頭上に浮かびながら居眠りをし、鈴は二体とも定位置で静かな寝息をたてていた。

 双子が動くのを感じて、木にもたれかかっていた兼房は身じろぎをした。


「ああ、起きたか」

 呟いて、大きく伸びをする。

「そろそろよい頃合いか」


 兼房は立ち上がり、ひょこひょこと歩きはじめた。

 すぐに余鬼が続く。


「今から行くの?」

「大切な商売にな」

「待っていてくれたの?」


 双子のさらなる問いかけに、兼房は返事をしなかった。いかがわしい商品の入った袋を背に、屋敷へと向かっていく。


「お前ら、絶対ここでじっとしてんだぞ」

 余鬼が振り返って怒鳴った。

「おれの主人が今から刺激しに行くからな、次見つかったら、冗談抜きで殺されるぜ」


 双子は返事をしない。

 鈴の音が、「ここはおとなしく、小鬼の言う通りにしましょう」となだめる声だけが聞こえて、余鬼は舌打ちをした。


「無茶すんじゃねえよ、おれの主人になってもらわなけりゃなんねえんだ。こんなところで死なれちゃ困るんだよ」

「どうする?」


 遠ざかる兼房と余鬼を見送って、華は訊ねた。葉太は、幾分弱気な口調ながらも「行く」と呟いた。

 駄目です駄目です、と鈴が鳴る。


「今じゃなきゃ駄目だと思うんだ。だっておじさんが刺激しちゃったら、お姉さんを捕まえている人は焦っちゃうでしょ。人魚のお姉さんという秘密をずっと持っているわけにはいかないから――だから」

「人魚のお姉さんを殺して、食べる」


 口ごもった葉太の言葉の後半部を補足して、華は足を進めた。半ばやけくそだった。このまま、人魚を見捨てて逃げたとしたら、そのことは葉太の心を縛り続けてしまうだろう。

 危険を冒す、それもいたしかたない。

 鈴の言葉ももっともだが、華は華で、葉太を思っての判断だった。


「華、僕が先に歩くよ。危ないから」


 震える声ながらもきっぱりと言って、先導するところを見ると、葉太も自分なりに、華に対する責任を自覚しているようだ。


 屋敷の玄関付近に差しかかったところで、大きな音がした。

 怒鳴り声と甲高い悲鳴――兼房が屋敷に向かってから、さほど時間はたっていないはずだ。この迅速さは、一言二言のうちに追い返されたとしか思えない。


「くそっ、逃げろ主人!」


 余鬼の声と同時に、激しい風の音が聞こえはじめる。

 向こうは相当大変なことになっていそうだが、逆に双子のいるほうの警戒が手薄になり、屋敷は思いのほか静まり返っている。

 人の気配は感じなくとも、追いかけられた記憶がまだ強烈に残っている双子は、用心しいしい、ゆっくりと裏へ裏へと回る――


「あれ?」


 双子はそろって声を上げた。

 人魚のいる建屋の前に余鬼が座っていたのである。


 その声で余鬼は振り返り、自分の忠告を無視してやって来た双子の姿を認めると、あからさまに顔を歪めた。


「やっぱり来やがったか」

 面倒臭そうにあくびをして、立ち上がった。


「余鬼くん、大丈夫だったの?」

「ああ、追手は撒いた。とりあえず、林の中に隠れさせてるよ。明け方にとんずらだな」


 余鬼がここに現れるということは、さほど遠くない場所に兼房もいるのだろう。あれほど盛大に追い出されたというのに、屋敷の近くに逃げ込むとは、いい度胸なのかずれているのか分からない。


「お姉さんは?」

 葉太の問いに「あー」と呟いて余鬼は明かり取りに目をやった。


 中から煌々と明かりがもれているのを見て、双子は違和感を覚えた。

 中にいるのは、人魚だけのはずだ。小さな木桶に押し込んだ人魚のために、この家の主人が明かりをともすとは到底考えられない。


「見たいか?」

 余鬼は訊ねて、双子の返事を待たずに「もう手遅れだぜ」と言い放った。


 双子は顔を見合わせる。薄闇の中、互いの顔が真っ青になっていくのが、はっきりと見えるような気がした。


「死んじゃったの!?」

「でけえ声出すな――まだ生きちゃあいるが、あと少しだな。やべえぞ、刃物が中に用意されている」

「……じゃあ今は、殺す準備……」

「そういうこと。おれの主人が邪魔したおかげで、この時間になっちまったみてえだけどな」


 人魚はまだ生きている――


 焦ってすぐに人魚を殺そうとするか、それともほとぼりを冷ましてからじっくりとかは、当の本人に聞かなければ分からないが、着々と準備が進んでいることだけは確かだ。

 葉太は辺りの様子を窺わずに、壁に突進した。かりかりと壁をひっ掻きながら、明かり取りの窓まで上がろうとはするものの、すぐに重力に負けて地面に落ちてしまう。


「ばか、お前ちょっとはおとなしくしろよ。今、屋敷の主人に見つかったら殺されるぜ、まじで」

「でも、人魚のお姉さんが」


 目に涙を浮かべたまま、葉太は再び壁を登る。


「だから、人魚のことより自分のことを考えろっての。このまま殺されるつもりなのか?」

「余鬼くんは、あたしたちを止めるためにここに来たの? おじちゃんを助けてすぐに?」


 華の言葉に、余鬼は言葉を詰まらせた。

「くそっ」と吐き捨てる。


「下らねえことを言うんじゃねえ。明け方までの退屈しのぎだよ。おれの主人の情けねえ顔を見ながら夜を明かすなんてまっぴらだからな」


 でも、と余鬼はさらに続けた。


「おれはお前の式神になる予定だからよ、こんなところで死なれちゃ困っから、ついでに無茶を止めてやるよ」


 余鬼の宣言に、鈴の音がざわめいた。余鬼が二体の式神を順に睨みつける。


「また来たのか?」


 人魚の声がした。

 死期が目前だというのに、その声に取り乱した様子は一切ない。


「ああ、いや、風の坊やが答えてくれればいい。聞こえるのが風の音だけならば、家の者もあたしの正気を疑うだけだろう。昼間の可愛い双子も一緒か?」

「ご明察ってとこだな。あんたが心配で来たんだとよ」


 無愛想な余鬼の言葉に「心配?」と人魚がおうむ返しに言う。


「死にたがってるあんたを殺させたくないんだと」

「だって――」

「葉太さま!」


 思わず声を出した葉太を、長い毛並みの奥から式神が止めた。


「今はあの小鬼の言う通りにしてください。癪なのは重々承知しておりますが」

「いちいち一言多いんだよ」


 余鬼がぶすっと呟いた。


「殺させたくないって?」

 人魚は驚いた口調で言う。

「今日、はじめて会ったばかりじゃないか」


「狐とのあいの子の考えることは、おれにも理解できねえ」

「お優しいだけなのです、葉太さまは」


 間髪いれない鈴の音の補足。

 この式神たちは、余鬼の毒舌から二人を守るのを自分たちの目下の使命と考えている節がある。


「そうかそうか。あたしには風の坊やの主人の考えのほうが理解できるな」


 人魚の声に「ねずみとのあいのこよ、あいのこ」と鈴が鳴る。


「さっき、表玄関でまたあの高い声が聞こえた」

「人殺しの事実を脅しに使いやがった。死体を生き返らせる薬と、死体を跡かたもなく消す薬だとよ。失敗して怒鳴りつけられるのなんか、初めっから分かり切ってんじゃねえか」

「殺人? 誰を?」

「知らねえけど、若い奴だ」

「お姉さんを最初に捕まえた男の人だと思うよ」


 華が口を挟む。


「そうか」

 人魚は言って、はは、と笑い声を上げた。


「あの男、殺されたのか。若くて真面目そうななかなかいい男だったな。二日――いや、三日だったかな。あたしを捕まえたまま、何をするでもなく、餌を与えてくれた。あいつに食べられるのも悪くないと思ったが、そうか、殺されたのか――」


 空虚に響くその声を聞いて、華は人魚が死を選んだ理由を唐突に理解した。

 死を笑い飛ばす、冷笑することしか、人魚にはできなくなっていたのだ。生きるものであれば恐れるべき死を、まるで冗談のように扱う――それは確かにこの世に生を受けたものの思考ではない。


 人魚が死を選ぶのは必然だ。葉太の手前、口には出さないものの華は確信した。

 人魚は死ぬ、それはもう仕方のないことだが、葉太の心の一部まで巻きこまれてしまうのは避けなければならない。


 華は葉太の呆然とした顔を横目で見た。

 どのような感情を浮かべるべきか分からないのだろう。人魚の放つ圧倒的な虚無感に、葉太はすっかり当てられているように見えた。


「ねえ、余鬼くん」


 明かり取りの窓を見上げて、華が言う。


「あたしたちをまた、持ち上げてよ」

「ばかじゃねえの、んなあぶねえことできっかよ」

「大丈夫、この子たちに見張ってもらうから」


 華の襟元から覗いた式神が、余鬼に向かって舌を出した。


「――何をしたいんだよ」

「もう一度、話をしてもらいたいの。お姉さんがどれだけ死にたがっているかを、教えてもらいたいの。お姉さんを止めちゃ駄目だっていうことを分かってほしいの。あたしはね、葉太がもう何もできなくなっちゃうんじゃないかと心配で」


 そう、双子はこの短いあいだで死に関わり過ぎた気がする。


 父親の死と白犬の死、さらには今の人魚。

 まして、葉太は殺してくれという白犬の依頼を、余鬼に通訳する役割さえさせられたのだ。


「お願い」


 余鬼をまっすぐにみつめて、華が言う。

 しばらく余鬼は思案に暮れていたが、「仕方ねえなあ」と浮き上がった。風が少しずつ吹き始める。


「あぶねえと思ったら遠慮なく吹き飛ばすぜ」

「ありがとう」


 強風が双子を持ち上げる。

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