犬神(2)
よく晴れたすがすがしい朝の空気の中、人里へと続く山中を下っていく二つの影があった。
大きな影と小さな影。人間の影と四足で歩く獣の影である。
人間の影はずいぶんと小さく、まだ幼い子供だということが容易に想像できる。獣の影はそれよりもはるかに小さいのだから、より正確な表現をするのならば、小さな影と非常に小さな影、とするべきなのかもしれない。
獣道の名残がごくわずかに見分けられる程度の荒れた山中を、二つの影は一定の足取りで下っていく。石が転がっていたり、木の根が張り出している地面を特によろめくこともなく歩いているところをみると、相当、山道を歩き慣れているのだろう。
「――泣いているの、葉太?」
幼い少女の声がした。尋ねるその声自体がすでに涙声なのは気づいているのかいないのか。
「帰りたいの?」
「ちがうよ!」
少女の声に返事をしたのは、こちらも幼い少年の声だ。ぐずぐずと鼻をすすりあげる音を出しながらも、心外だ、というように語調を荒げる。
「華だって泣いているくせにさ」
言って、少年の声の持ち主は、大きな尻尾を振り回した。金色に輝く、美しい尻尾だ。
「決めたばっかりじゃないか、お母さんを見つけて戻ってくるって。体が僕よりも大きいからって、華はいっつもお姉さんぶる」
拗ねた口調で言葉をつづけるのは、非常に小さな影――美しい金色の尻尾をもつ狐だ。体の小ささと顔立ちを見る限り、こちらもまだ子供だろう。とがった顔から出される声が、まぎれもなく男児のそれなのは、一体どういう理由からか。
「……分かってるわよ、ごめんね、一緒にお母さんに会うんだもんね」
なだめるように言ったのは、小さな影。声の通り、十才前後の少女である。
会話をしながらも、華と呼ばれた少女と、葉太と呼ばれた狐は山を下りていく。リズミカルな足取りに合わせて、それぞれの体に結び付けられた鈴が、澄んだ音を上げる。華は手首に、葉太は首に、小さな鈴の姿が見える。
狐が人の言葉を操ることの不思議を、華と葉太は知らない。
まして、人間と狐が同じ親から、双子として生まれることが異常などと、夢にも考えたことはない。
双子の顔にはまだ、涙の跡がある。
出発以前に流れつづけていた涙は強引に拭ってきたが、それでもなお、気を抜けば際限なく涙は湧き出てくるだろう。こみ上げてくる悲しい思いを相手の手前、必死でこらえているだけなのだ。抑えきれずに出た感情は、相手にうつるに違いない。泣いてしまうに違いない。
今ここで泣き崩れてしまったらお終いだ、と双子は漠然とではあるが理解していた。
決意が揺らいで、身動きが取れなくなる。
だから双子は意地をはりながら、唇をかみしめながら、足を進めていくのだ。
相手を気遣うことで、自分の感情から目をそむけながら。
自分は大丈夫、そう言い聞かせて。
「ねえ、どこに向かっているの?」
少し広がった華との距離を駆け足で縮めながら尋ねる葉太に、「とりあえず、誰かのいるところに」と、鼻をひくつかせて、華は答えた。
涙のせいでつまりがちな鼻孔ではあるが、人間の匂いは感じ取ることはできる。その匂いを頼りに華は足を進めているにすぎなかった。
誰かに会ったとして、どうすればよいかを考えた上で行動しているわけではない。
自分たち以外にも人間がいることを、双子は先日はじめて知ったのだ。「むら」という共同生活の場を営んでいることも、聞いたばかりの知識だ。
それを教えてくれたのは父親だった。穏やかで優しい父親が、苦しそうな咳をしながら話してくれたのである。
頭をよぎる父親の姿を、華は足を速めることで忘れようとした。
赤ん坊の時からずっと一緒にいた父親だ。
双子と三人で、山腹にある平坦地でささやかな生活を送っていた父親はつい先日、大量の血を口から吐いて死んだ。
双子は一度たりとも、ちらとも背後に目を向けようとしない。
双子の育った地。思い出も、大好きな父親の墓も、全て、そこにある。
色とりどりの花束とともに――