人魚 (1)
くん、と女は鼻を動かした。
狭い家にはいっぱいに潮の匂いが漂っている。
なじみ深い匂いと一緒に漂う甘ったるい香りは、自分自身が放つものであると、女は最近になってはじめて知った。
こもった匂いは狭い家の空気とからみ合い、ぐるぐると部屋を回り続ける。
女は辺りに目をやった。
いたる所に隙間のある粗末な作りの家は、拾ってきた木片や古着などで目張りをされ、中で揺れるろうそくの小さな灯だけが唯一の明かりだ。今が昼なのか夜なのかは、外で聞こえる人の声を頼りに判断するしかない。
とはいえ、漁を主な生業とするこの村の一日は夜が明ける前から始まる。
人の声がするからといって、太陽が空に浮かぶ時間だと判断するのは早計に過ぎると、数日、閉ざされた家で過ごすうちに理解した。
村人たちはもう気づいただろうか。
密やかに水音を響かせて、女は考える。
以前のように漁ができるようになったことに。
海を荒らしていた化け物がいなくなったことに。
形のよい女の唇が歪んだ。微かに開いた口元から、白い歯がこぼれおちる。光のない部屋の中にもかかわらず、そこだけ光っているように見えるのが不思議た。
この家の主人が他の者に化け物の末路を伝えるはずがないのだから、恐怖に怯えながらも漁に出た村人の誰かが気づくことになるのだろう。仕掛けた網をことごとく破る海の化け物がいないということに。
女の体に、細い光が差し込んできた。
目隠しのために古着を何重にもつるしたしきりが小さく開いていた。
突然の光に目を細めて、女は光の先に目をやった。
「――眠っていたんか?」
声をひそめてそう訊ねたのは、若い男だ。
よく日に焼けたたくましい身体つきだが、その表情はまだ幼い。
「今日は俺、木の実を採ってきたんだ。海にはねえものだから、口に合えばいんだけど」
と、手に持ったカゴを下ろして、女に向かい合うように胡坐をかく。たどたどしい口調で一気に伝えるその様子は不器用だが、いたわりに満ちている。顔を女から背け、時折、女の方を見てはすぐに背ける。
男のその態度の理由は明らかだった。
「こっちを、見ないのか?」
胸の前にかかった髪を鬱陶しそうに払って、女は胸の下で手を組んだ。しっとりと湿った髪から水が滴り、女の肌を伝う。むき出しの肩から胸へ、胸からへそを通り――
「だから、何かを着てくれと言ってんじゃねえか」
女の位置からは、男のつむじが見える。顔を思い切り背けたその様子は、拗ねているともとれる。意地悪をされてふてくされている子供だ。
ぱしゃ、と女は水を叩いた。
木舟にたまった海水がはねて揺れた。
男の唯一の財産ともいえる、小さな舟だ。
女のために差し出したそれは、漁を生業としている男にとって、命にも等しいものではないだろうか。
「そんな習慣は持ち合わせていないんだ、悪いな」
真っ赤な顔をした男とは対照的に、平然とした口調で女は言う。むき出しの上半身を舟の縁にもたれかけたまま、である。床に置かれたかごの中に手を伸ばし、熟した木いちごをつまみあげると口に入れた。
「甘いな」
「うまいか?」
女の呟きに、男がぱっと顔を上げ、白い、濡れた体に気づき、すぐに目を伏せた。
「ああ、なかなかうまい。山のものを食べたのは初めてだ」
「じゃあ俺、明日も山に入るよ、他にももっとうまいものがたくさんあるから。花だってたくさん咲いている。おめえみたいな、きれいな髪に似合いそうな奴だ」
ひと息に言って、男はふとももの上で握ったこぶしに力を入れた。
「だからよ、ずっと俺んとこにいてくんねえか? おめえは何もせんでいい、ただ、俺の家にこうしていてくれればいいんだ」
「……化け物なのに、か?」
皮肉な口調で女は言う。男の肩が大きく震える。女にも、男の言葉の意味は分かっている。ずっと一緒にいて欲しいということだ。愛の告白にも等しい台詞だ。
「お前にだって分かっているだろう? あたしは人間じゃない」
「……んでも、俺はおめえが」
淡々とした女の言葉に男は小さく反論するが、その声は消え入りそうに小さい。
「お前はあたしが好きなんじゃない。化け物のあたしを好きなんだ――怖いんだろ? 拒絶されるのが。自分のことを否定されるのが」
「ちげ……」
小さく言ったきり、男はうつむいた。
「お前はあたしが化け物だから安心しているんだよ。愛を注いでも化け物は人間に報いることはないからな。拒絶されると分かって愛を注いでいるのならば、さほど傷つきもしまい」
言って、女は再び水面を叩いた。
飛び散った水滴が、うなだれる男の顔を濡らす。
「あたしを見つけた時、あたしを海中から引き揚げたとき、お前はどういう反応をした? 怯えただろ? 怯えて、悲鳴を上げて、震えただろう? 当然の反応なんだよ。あたしとお前たちの利害は相容れない。漁の邪魔をする化け物として扱うべきなんだ」
海水に潜っていた下半身を、女は木舟のへりに上げた。
「見ろ」と強い口調で男に言う。
「あたしのこの足は何だ? 何に見える?」
「どうでもいいことじゃねえか、おめえの体なんて」
「答えろ!」
おどおどとした男と、毅然とした態度の女、力関係は一目で分かった。
女の視線を避けるように、握りしめた自分の手に目を落として男は口を開いた。
「さ……魚だ」
女は薄い笑みを浮かべた。
「そうだ、魚だ。ならば、あたしは何だ? 魚の下半身を持つあたしは、どんな化け物だ?」
「だけど、きれいだ。きらきらして、桜色をしているじゃねえか」
「あたしは何だ?」
低い声。男は身を強ばらせた。
「――人魚」
「分かっているじゃないか」
女は小さく笑う。なにがおかしいのか、笑い声は次第に強く、大きく変わっていく。それに合わせて、水面がぱしゃぱしゃと波打った。
女が叩いているのだ。
桜色の鱗がびっしりと生えた下半身で、今は木舟の中だけになった生活空間――海水を。小さな小さな海洋を。




