犬神(13)
「だからってそんな……」
『この体も悪くないぞ。人間にもう従う必要もないし、身軽だし、気分まで軽くなったようだよ』
言って犬神は尻尾を振り回しながら、空中でくるくると何度も回ってみせる。
『気に病むことは何ひとつないんだ。俺は案外、この体が好きだ』
優しく微笑むだけの犬神を見ているだけでは、それが本心なのか、あるいは双子を気遣っての言葉なのかを見極めることはできない。
犬神の桁外れな優しさに甘えることにして、双子はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「すごく、すごく助かりました」
『……良い子だ』
犬神は目を細めて双子を見ると、鼻先をこすりつけてきた。
実体を持たない犬神の体は、双子をすり抜けてしまうが、それでも、犬神の温かな優しさを感じることはできた。くすぐったそうに双子は笑う。
『俺が犬神に変わったことくらい、たいしたことじゃない』
双子の笑顔に気づき、犬神がいたずらっぽい光を目に浮かべて言った。
『転機なんてのは、わりと頻繁にやってくるものだからな』
「例えばどんなの?」
華の問いかけに、犬神はくくっと笑いをかみ殺した。
『……恋とかな。気をつけろよ、恋は人生を変える』
ふざけているのかいないのか、判断もつかず双子はきょとんと首をかしげる。
『さてと』
双子の反応を心ゆくまで眺めたあと、犬神はおもむろに切り出した。
『嬢ちゃんの手には式神の本体があるわけだが』
言われて双子は華の持つヒトガタに目をやった。余鬼の本体だという、白い和紙で作られた人型の紙である。
『おおもとを嬢ちゃんが持っている以上、式神というのは嬢ちゃんに逆らえないはずだ、そうだろ?』
言って、余鬼に目をやる。犬神の口調にすでにからかいの色が混ざっているのを知ってか、あるいは、残した兼房が気になるのか、余鬼は後ろを向いたまま返事をしない。
『嬢ちゃん、こいつを使役してみてはどうだ?』
「嫌だよ、だっていうことを聞いてくれなそうだもん」
そんなことできるの? と目を輝かせる葉太と対照的に、華はあっさりと一蹴した。
「ずっと悪口をいわれそう」
『そんなことないぞ、なあ?』
口を尖らせる華に微笑みかけて、犬神は余鬼を見た。
「……くそ犬、余計なことばかり言いやがって」
背中を見せたままの、余鬼が文句を垂れ、それから鋭い声を出した。
「おい華!」
切迫した甲高い声である。
「ちょっとやべえ、おれの身体を絶対放すなよ。少しくらいぐしゃぐしゃにしてもいいから、握っていろ」
「あっ!」
葉太がふと、顔を上げた。
三角に尖った耳をぴんと立てて、あたりを見回す。
「何か声がする」
「声?」
耳に手をあてて、華がおうむ返しをする。風の音が邪魔をしているのか、華の耳にその声は入ってこない。
「うん。なんかお経みたいな、ゆっくりした声」
「だから、おれの主人が呪文を唱えてるんだって。やべえよ、このままじゃおれ、主人のところに戻らなきゃならねえ」
華の手の中で、薄い紙のヒトガタが暴れはじめた。
「おい、お前も呪文を唱えろよ。おれの主人に負けんじゃねえよ」
「呪文って言われても……葉太、わかる?」
葉太は首を振って、それから陰々と響く呪文に耳を傾けた。
「余鬼に戻って来いって。それで、これからも仕えるように。自分との絆を忘れるな、だって」
「くそっ、犬に食わせようとしておきながらよく言うぜ」
苛立ち任せに風を吹かせて、余鬼は言う。
「どうにかしてくれよ!」
余鬼の声は今にも泣き出しそうだが、双子にしてみれば、何をどうすればよいのか分からない。
「どうにかって――」
「何でもいいんだよ、おれが必要だってことをとにかく怒鳴れよ……うわっ」
華の手から、ヒトガタが抜けた。ひらひらと風に舞いながら、それははるか後方へと消えていく。
余鬼の叫び声は余韻を残して、遠ざかっていく。
「放しちゃった」
華が茫然とした口調で言った。
『違う。奪われたんだ』
淡々とした犬神の言葉。
『素質はあっても、修行を積んだ者にはまだ勝てないようだな。嬢ちゃんのほうが強ければ、あの坊主をそのまま手元に置いておくこともできただろう……現段階で、嬢ちゃんよりもねずみとのあいの子のほうが強かったというだけだ』
「あの子はどうなるの?」
『さてな』
短く答えて、それから双子がしょげ切っていることに気づいた犬神は、双子をなぐさめるために、あわててつけ加える。
『すぐにあの坊主に何かある、なんてことはないだろうさ。坊主の主人にとっては、自分のことで精一杯だろうからな』
双子の返事はない。
『悔しいか?』
さらなる犬神の問いかけにも双子は黙っているだけだったが、心中はその泣きそうな顔を見れば、すぐに知れた。
「……あの子は嫌がっているのに、主人って人のところに戻らなくちゃならないの? かわいそう」
『本当に優しい子だな、坊ちゃんと嬢ちゃんは』
消え入りそうな葉太の言葉である。
いつくしむように、犬神は双子を見た。
『式神というのは、使役されるために生み出されたものだ。感情移入をする者はまずいないだろう。だが、そうだな、それだけ坊ちゃんと嬢ちゃんの双子が特別だということか――さっきも言ったように、あの坊主を自分たちのものにするには、今の主人から奪わなければならない』
一度、犬神は言葉を切った。
目を向けた先は余鬼の飛んでいった先――兼房の方である。
『いいか、つまり坊主の主人である陰陽師よりも強い力を持たなければならないということだ。道のりは短くないかもしれないが、坊ちゃんと嬢ちゃんほどの才能があれば、十分に可能だろうさ』
「うん」
犬神は名残惜しそうに双子の姿を見つめ、それから『京に行け』ご呟いた。
「京?」
双子が揃って訊ねると、『西の――太陽が沈む方向だ。そこには何でもある。情報も、物も、人も、陰陽師のための大学もあるそうだし、京には狐もたくさんいるというぞ』
犬神は西の方を仰ぎ見た。
双子は顔を見合わせた。言葉には出さずとも、言いたいことは分かる。「お母さん」である。




