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犬神(12)

 もう長いこと走り続けている。


 犬神は後ろを振り返り、男たちの姿がすでに見えないのを確認すると、足を止めた。

 促されて双子が飛びおりるのを待って、犬神の体は地面に崩れおちた。全身汗でぐっしょりと濡れたその体は、限界に達したのか身動きひとつしない。


「ね、ねえ……犬さん大丈夫?」


 不安そうに声をかける葉太の目の前で、白いもやのような霧のようなものが湧きあがり、あっという間に犬の形に変わった。『あーあ』と大きく伸びをして、その白い影は双子に向き直った。


『やはり人間の体というのは窮屈だな』


 言いながら、犬神はしきりに伸びを繰り返す。


『狐の坊ちゃんと嬢ちゃんは俺のことを怖いとは思わないか?』

「怖い? どうして?」

『ほら、俺の体は透明だぞ。まっとうな犬とは違うぞ』


 言って肩をすくめる仕草がどうにも人間臭い。

 双子は首をかしげた。


「でも、犬さんは犬さんじゃない。優しくって、僕は大好きだよ」

「あたしだって。あたしのほうが大好きだよ」


 競うように声を上げる双子を、犬神は口元に笑みを浮かべて見つめる。

 それから白犬はふと、双子の背後に目を向けた。

 

『坊主、まだ立ち直れないのか?』


「――誰も落ちこんじゃいねえよ。声が聞こえたら聞こえたでむかつく奴だな。おれをガキ扱いすんじゃねえよ」


 相変わらず愛想のかけらもない余鬼の声。

 声が聞こえてくるのに合わせて、余鬼の姿も次第次第に形を作り出していく。


『やっと戻ってきたな、ずっと泣いているのかと思ったぞ』

「だから、うるせえって言ってんじゃねえか。つーかよ、華とか言ったな、お前そのヒトガタ、はなすなよ」

「どうして?」

「さっきからおれの主人の声が聞こえてんだよ。油断してっとまた戻されちまいそうだ」

「そんなに嫌なの?」

「ばーか、人を犬のエサにするような奴だぞ。小狡いしよ」

『犬神を作る遊びはもうおしまいだろうさ』


 なだめるような、なぐさめるような口調で犬神は言う。


『訳が分からないうちに、犬は首を切られて死に、おまけに小指も食べられましたでは、信頼回復も何もない。坊主の主人とやらも、依頼主の家を追い出されて、それで終わりだろうな』

「……お前は犬のくせに、他人のことばかり気を回しやがって」


 余鬼の声が、かすかに湿り気を帯びた。くん、と犬神が鼻を鳴らす。


「首を切れなんて無茶苦茶言いやがって」


 知っていたこと、見ていたことのはずだったが、改めてその言葉を耳にすると、やはり双子の背筋は冷える。

 双子の表情が余程怯えているようだったのだろう、余鬼は取り繕うように言葉を続けた。


「言っとくけど、痛くないように気をつけたぜ」

『――確かにな。一瞬意識が途切れたと思ったら、犬神になっていた』


 つき離すような余鬼の言葉に、犬神も同調する。


「どうして犬さんは……」

「だから、生身の身体じゃあ、何にも出来ねえだろ?」


 さらに言いつのろうとする双子を、犬神が止めた。


『恩を売るつもりなぞ、これっぽっちもないぞ。泣きそうな顔をする必要だって、何もない。元々は、俺と坊主の間の話だったからな。坊ちゃんと嬢ちゃんはたまたまそこに居合わせてしまっただけだ。それなのに巻き込まれて、一生が台無しになるなんてとても我慢できない。後味が悪いし、何よりも、俺は坊ちゃんと嬢ちゃんの二人が気にいった』

「うん……」


 うなずく華の手の中で、ヒトガタが細かく震えている。


『坊ちゃんと嬢ちゃんが泣いているのを、助けを求めているのを、見ていることしかできないとき、俺は強く思った。この双子を助けたい、と。飢え死になんざ怖くもないが、坊ちゃんと嬢ちゃんが不幸になっていくのを見るのは怖かった、嫌だった――どうだ、これも欲だ。首を切れば欲を満たすために魂が抜け出るんじゃないか。ひもじい犬が望みをかなえるために犬神へ変わるように、俺も犬神になれるんじゃないか』

「賭けなんだよ、賭け」


 余鬼が鼻を鳴らした。


「犬神になる条件は食欲だけかもしれねえしよ。他の奴を助けるために犬神になった話なんて、聞いたこともねえ」

「失敗するかもしれなかったってこと?」

「ああ、本当ばかだよな。犬だからって犬死にしなきゃならねえって決まりはねえのにな」


「……僕たちのために」


 泣くなと言われたからといって、引っ込むほど双子の涙は素直ではない。今もまだ、こみ上げてくるのを耐えているのだ。


『坊ちゃんと嬢ちゃんのためじゃない。結局は俺自身のためだったんだ。泣いている姿をただ眺めているのはとても悔しかった。このまま、俺が殺されるにせよ、あるいは元の主人のところへ戻されるにせよ、坊ちゃんと嬢ちゃんの狂った人生を背負って生きるのは、とても耐えられなかった――ああ、いや違うか』


 言って犬神は苦笑した。


『尽くす相手が欲しかったんだろうな、きっと。元々の飼い主に裏切られたばかりだというのに。それが俺の望みだった』


 犬というのは、因果なものだな、とため息のように犬神は呟いた。

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