犬神(1)
何年か前に書いた小説ですが、机の中にしまっておくだけじゃあかわいそうだなあ、と思いましたので。今ある分が投稿終わったら、新章も追加していくつもりです。
空には三日月が輝いている。新月も近い、細い月だ。
青みを帯びた光は涼やかで、日が落ちてもなお蒸し暑い空気を穏やかに照らしている。
その光の下でうごめく影があった。
小さな村を見下ろす山の斜面に沿うようにして、黒い影は一匹また一匹と数を増していく。
微かな月の光を受けて、いくつもの目玉が金色の光を放つ。
一心に見つめる先にあるのは、一軒の大きな家だ。
村の田畑の多くを所持し、経営する屈指の地主の屋敷であるということは、影たちにとってそれはさほど関心を引く事実ではないだろう。
森の奥から、大きな尻尾をぶら下げて、また一匹、新たな影が現れた。くりくりとした目に、尖った顔――狐の姿である。新参者の場所を空けるように、影全体がざわめいた。斜面を埋めつくすその影は、全国の狐を集めたかと思えるほどの数だ。
全てが例外なく、屋敷を見下ろせる場所に立ち、まっすぐに視線を注いでいる。
無数の狐の群れは沈黙を保ったままである。けんかをしたり、鳴き声をあげたりするものはなく、それがまた、異様な雰囲気を増長させている。
狐たちが一心に見つめる屋敷には、こうこうと灯かりがともっている。日付も変わろうというこの時刻である。夜の早い農村にしても、貧しい片田舎にしても、珍しい光景だ。
「お玉! あと少しだ、お玉!」
――屋敷の中では、一人の男が半ば叫ぶような声をだしながら、所在なさげに歩き回っていた。
若い男だ。
元は猟師だったというその男は、成程、現役を退いた今は大分衰えが見えているものの、引き締まった体つきである。時折、乾いた咳をしているのは、張り上げ過ぎた声のせいか、あるいは他の原因によるものか。焦燥を顔に浮かべ、腕を組んでいる。不安そうに目をやる簾の向こうからは、苦しそうな女のうめきが聞こえる。
耳をふさぎたくなるような、つらそうな声に混ざって、澄んだ鈴の音が聞こえる。女が嫁入り道具として、唯一持参してきたものだ。
三連の美しい鈴が女の手首で揺れる、その様子が男の脳裏に浮かんだ。三つ子を思わせる、小ぶりで愛らしい鈴――金色と銀色と、渋みのある黒。片時たりとも手放すことのないその鈴の音は、常に女に寄り添い、美しい音色を弾むように響かせていた。
男の見通せない場所から聞こえるその音は、不思議なことに、女を励ましているようにも、力づけているようにも感じられ、男はその鈴にさえ、女を守ってくれるよう、無意識のうちに心で念じているのだった。
簾の向こうの女の声が、ひときわ高くなった。
鈴の音が、大きく余韻を残して鳴り響き、それから細かく、小さく鳴りはじめる。鈴たちの微かに異なる音程が絡みつき、音色はまるでメロディーのように男の耳に届く。明るい祝福の音楽――
「お玉!」
耐えきれず叫んだ男の声と、赤子の泣き声、そして、「ひいっ」という小さな悲鳴が重なった。勢いよく、男は簾の向こうに転がり込んだ。
「お玉、よくやったぞ、男か? 女か?」
「……だんなさま」
喜び勇んだ男の声に、女は疲れ切った顔に微笑を浮かべてみせた。
だが、その空気は一瞬で凍りついた。
生まれたばかりの我が子のいる布団に目をやった男は、顔をこわばらせた。視線の先で声の限りに泣いているのは、元気な女児。そして、隣には、血に濡れた足をひくひくと動かす――狐がいた。
「どうかなさいましたか?」
お玉と呼ばれた女は、突然変化した空気に戸惑いながらたずねるが、夫からの答えはない。上気した美しい顔が不安で歪む。
「ば……化け物」
最初に沈黙を破ったのは、お産を手伝っていた老婆だ。抜けていた腰を引きずって、床を這いながら外へと向かう。途中、段差につまずいたのだろう、重たいものが落ちる激しい音がした。
少しの間、赤子の泣き声だけが部屋を満たし、それから、遠くで老婆の狂ったような笑い声が聞こえはじめた。その声は、次第次第に遠ざかっていく。
「お玉、お前はまさか……」
乾ききった喉を無理矢理唾液で湿して、男は声を絞り出した。
お玉自身も自分の産み落とした子供たちを見て、状況を理解したのだろう、蒼白の表情のまま、男の言葉を待つ。
「あのときの」男の脳裏に、数年ほど前――男が猟師だったころに、山で見かけた一匹の美しい狐の姿が浮かび上がる。他の猟師の罠にかかって、悲しそうな声をあげていた金色の狐。
その目と、自分を見上げる妻の目がかさなる。
お玉の手が、恥いるように顔を隠した。手首に結んだ鈴たちが、触れ合って清い音を立てる。
両親の思いをよそに、血にまみれた赤子は生まれ出た喜びに、声を上げつづけていた。
――こん、と狐が鳴いた。
それをきっかけに、山に集った狐が鳴き声を上げ始める。たちまちのうちに、狐の大合唱となり、山肌が震える。
喜び、悲しみ、郷愁。
様々な想いの混ざる、どことなく物悲しい鳴き声だった。