それぞれの前哨戦
まだ生徒会長としての仕事がある糸子と別れ、学園内に理織が足を踏み入れる。
総一と理織が更衣室で着替えをはじめ、そして先に武道場に理織が到着したときには、既に誰かが試合を開始していた。
柔道場に似た畳の上。二人の男性が向かい合う。
片方は、胴着姿が柔道着にしか見えない男性。餃子のように潰れた耳を不格好と呼ぶものはそもそもこの場にはいないが、彼を見たことがない理織はその鍛錬跡に驚嘆の息を吐いた。
太い上腕二頭筋、そして両手を前に出しやや前屈み。その構えを見て、理織は推測する。
柔道出身、それも、有段者。
そしてもう一人はそれよりもやや細身で、それでもしっかりとした体つきをしている。
染めてある赤い髪を跳ねさせるように後頭部で縛り、細い眉の下にある鋭い目つきで、睨むように相手を見ていた。
試合。だがもちろん、公式のものではない。単なる練習の一環としての組み手であり、本気でやるような性質のものではない。
だが、片一方の気迫に、理織は本気を見た。
「お願いします!!」
「来い!」
叫んだのは、全体的に太い柔道家の坊主頭。高校生にもかかわらず髭を生やしているのは、お洒落だろうか。
豪腕とも呼ぶべき柔道家の腕から、丸太のような突きが繰り出される。
受けたほう、赤い髪の男はそれを軽く払う。払うだけでもそれは鋭い攻撃のようで、柔道家の顔がわずかに歪んだ。
攻撃が来る。
そう感じ取った柔道家が、両手を顔の前で握り体を低く丸めた。
構わず、赤髪の男がそこに突きを放つ。
止まらない連打。肉を響く男が響き、柔道家の足が止まった。
「っしゃあ!」
しかし、柔道家も勝負を諦めてはいない。動作の間に二発の突きを受けながらの前蹴り。
突き放すような軌道で放たれたそれは、腹筋を貫き内臓を揺らすはずだった。
赤髪の男が反応する。
躱すように体を捻り、左半身のまま前進。太腿で迎えるように蹴りを止め、下から伸び上がるように右手で突きを繰り出そうとする。
「……!」
だが、柔道家はそれを読んでいた。
伸びる腕。タコの足のような筋肉質の指が赤髪の襟を捉えた。
決まる。
理織はそう思った。そのまま持ち上げ、投げてしまえば一本だ。
そうは思った。
だが。
「ふ……!!」
赤髪の男が、柔道家の手を掴み返す。そして立ち上がるようにしながら体を捻れば、手首が固められ腕一本で、柔道家の体が横に回転するように跳んだ。
畳を叩く音が響く。
赤髪の巻き落としに対し、柔道家の受け身が間に合った。その結果を見て、ようやく理織は気付いた。
赤髪の方が柔道家よりも格上だった。それも、遙かに。
一瞬の静寂、その後柔道家が起き上がり、双方が離れる。
そして、一礼。まるで爽やかな稽古試合の後のようだった。力量差だけを見れば、一方的な虐殺といえる試合だったのに。
拍手の音が響く。
海馬が立てたその音に、その場にいた全員の視線が集まった。
「いや、見事! 見事! 上達したのう、丑光」
「あざっす」
わずかな攻防ではあるが、額に浮いた汗。それを胴着の袖で拭いながら、赤い髪の男、丑光雷太は海馬に返した。
「……どうしたんですか、こんな時間に」
「こんな時間とは挨拶じゃのう。拳道班の顧問である儂が、いつ来ようが関係あるまい」
「そうですが」
また、汗が垂れる。
たしかに、拳道班の顧問である海馬学園長はよくこの武道場を訪れる。そのまま指導をすることもあるし、組み手の相手になることもよくある話だ。
だが、大抵その時間は班活動の時間の後半。大会練習でもなければ、自分の仕事も一段落し、暇が出来たから来るという感覚のはずだが。
丑光はそう思い、そして学園長の横に立っている男を見る。
「試合させたくてのう。この後、拳道場を借りるぞい」
「試合? その男と……誰がです?」
また丑光は怪訝に思う。拳道班二年生で筆頭の実力を持つ彼は、班員の顔を大方覚えている。
そして当然、試合をする一人はこの目の前の男だろう。そうは思った。
だが、目の前の胴着姿の男は見たことがない。この学園の生徒かもしれないが、少なくとも拳道班ではない。
じ、と丑光はその顔を見つめる。
優男。およそ迫力の見えないその雰囲気……ではあるが、恐らくそれなりに強い男。
誰だ、どこかで見たことがある。いや、誰かに似ている、……。
そこまで考えて、内心、丑光は膝を叩いた。
そうか、彼女に似ているのだ。生徒会長。この学園の生徒会長、辰美糸子に。
しかし、彼女ではない。だがその顔の雰囲気や、男女の差はあれど骨格は確かに……。
ああ、ならば。
道理で見たことがあったはずだ。見たはずだ、表情台の上で、トロフィーを掲げる輝かしいその姿を。
腫れた頬の痛みを堪えながら、充血した目でその姿を見つめていたはずだ。
丑光はその考えを確信し、そして一歩だけ踏み出す。無意識な威圧だった。
「……去年の大会優勝者様が、何でここに?」
「ええと、申し訳ありません、どなたです?」
声をかけられた理織は、思わずそう返した。
目の前の男を理織は知らない。なのに、何故知り合いのように声をかけてきているのだろうか。いや、知り合いでなくとも不思議に思えばそう問いかけはするだろう。
だが威圧的なその目、動作の端々に見える明らかな敵意は、知っている者に対するものだ。
理織の答えに、丑光は笑う。静かに、噴き出すように。
「さすが優勝者様、ベスト四の俺は眼中にないと」
歯を剥き出しにする笑み。笑ってはいるが、内心はその反対だろうと理織は推測した。
それと同時に申し訳なくなった。確かに自分は覚えていないが、その言葉が真実ならば顔をあわせてはいるはずだ。
「ああ、あの時に会場にいらっしゃったんですね。すみません」
謝罪の言葉。だが、その言葉に丑光は更に苛立った。
顔に朱がのぼり、額の血管が怒張するのが自分でもわかった。
「先ほどの試合は……」
「ねえ、学園長。誰と試合するかは知りませんが、辰美さんとまず自分で試合させてもらえませんか」
見事だった、と取りなすように褒めようとする理織の言葉を遮り、丑光は海馬にそう申し出る。
海馬はまずその申し出に目を丸くし、それから悩むように瞼を瞬かせた。
「しかしもう、相手は決まっておることじゃし……」
「……俺は構いません」
理織が望むのは、双方万全の状態での総一との試合のはずだ。そう考えた学園長が断ろうとするのを今度は理織が遮る。
敵意はない。だが、熱意はあった。
「じゃが、辰美……」
「辰美家の男子は、挑まれた勝負から逃げません」
凛とした言葉。その力強い視線に、海馬は口を閉ざす。
そして、満足げに微笑む。
そうだ、そうだ、男子はそうでなければ。
そうでなければ、拳道協会など設立した意味がない。
「ま、敵地の洗礼ということでいいかのう。丑光も乗り気のようじゃし」
「ありがとうございます」
海馬は理織からの感謝の言葉に満足げに微笑み、試合場の端に立つ丑光の方を向いた。
「では、さっそくやってやらにゃ。丑光、気張れよ」
「うす!」
気合いの入った返事が響く。
理織に対する敵愾心。外部から見れば格上に勝ちたいと願う功名心。一年前、大会で戦うことすら出来なかった優勝者への憧れに似た嫉妬。
それらが混ぜ合わされ、丑光の体に気概が満ちた。
腕が鳴る。今年の大会で、勝つのは自分だと信じている。そこで勝てば、辰美理織にとって、『丑光雷太』は忘れられない名前となるだろう。
だがその前に刻みつけておくのも悪くはない。大会で、格上として立つのも悪くはない。
この学園に、理織が誰との試合に来たのか。そうしたことはどうでもよかった。
「遅くなりましてー……って、なんかもう始まってるやん」
「遅いぞ総一」
借りた胴着のサイズが合わず手間取り、理織よりも大分遅れて総一が武道場に到着したときには、既に理織と丑光は睨み合っていた。
試合が始まる前の緊張感。組み手といえど、先ほどの練習組み手ではない。他流試合に近く、そしてこれは本番に近い。
大会への前哨戦。そう、丑光は考えていた。
理織が、総一との戦いの前哨戦だと考えていることなど露知らず。
拳道は、歴史の浅い競技だ。
1970年代に作られた当時の理念はいまだ一切変わっておらず、『単純な強さを競う』というもの。
近代化し、『武術』から『武道』へ変わっていくにつれ失われていった、武術の本質を取り戻そうとする創始者の理念である。
柔道着とほぼ変わらない袖の長い胴着は全局面に対応させるためのもの。
オープンフィンガーグローブを着用し、頭部にプロテクターはなし。きわめて簡素なユニフォームだ。
試合の決着の仕方は様々であるが、実に単純。
試合時間は十分間。その時間内での三番勝負、二本先取で勝利。試合時間を超過しても決着がついていない場合は、勝ちがある側が勝利。また、一本取得同士ならばサドンデスとなる。
有効打で一本。投げて相手の両肩を地面に叩きつけて一本。相手の両肩を地面に押しつけて規定の時間経てば一本。
出血すれば、その時点で敗北。骨折すれば敗北。
その他、規定違反に対する指導などはあるが、技ありや有効などの積み重ねによる一本は存在しない。
それ故に、戦法は自由。
協会設立当初には、様々な選手が思い思いに戦っていた。
ボクサーが蹴ってもいい。柔道家が突いてもいい。空手家が投げてもいい。そしてもちろん、自らの信じる流派を極めてもいい。
空手家を投げて倒す柔道家もいた。柔道家の胸板に正拳突きを叩き込み勝利する空手家もいた。
自由な戦い。そして、公平な戦い。
頭突きに目突き、噛みつき、金的に鼓膜への攻撃。禁じられているのはそれだけだ。
禁じられている行為に該当しなければ、指先による攻撃すら認められている。
無論、厳しい戦いだ。
重量による区別もなく、年齢制限もひどく緩い。13歳の小兵と、18歳の巨漢が戦う試合すらある。
受けた側が反応しなければ有効打とも認められないため、突きや蹴りの威力も求められる。そうした戦い方をするために、柔道家も突きや蹴りを学ぶ。
自流儀では本来使わない投げを認められているため、空手家は投げ技への対抗策を学び、そして時には自らも投げ技の練習をする。
そうして作られた全局面に対応できる者たちを、『拳道家』と呼び、協会は求めてきた。
怪我をすることも少なくはない。
しかしそれは、武術を学ぶ人間であれば当たり前のこと。
頬に擦り傷をつけて帰ってきたことや腕に出来た軽い痣を理由に、相手の選手の退学を望み、拳道班の廃止を求めたPTAの父母たち。彼らを『喝』の一言で黙らせた創始者にして最強の拳道家、自在天流剣術免許皆伝、海馬源道の超かっこいいエピソードはあまりにも有名である」
「……誰に言ってるんすか? 学園長」
滔々と言葉を語り終えた海馬に、あきれ顔で総一はそう尋ねる。
「聞かれると思ってのう」
そのあきれ顔に、ふふ、と海馬は笑って返した。鼻の下の立派な髭、その下にある唇から前歯が覗いた。
丑光を見つめ、緊迫した空気を保ったまま理織は静かに口を開く。
「開始の合図をお願いします」
「おう、じゃあ審判、頼むぞい」
海馬にそう告げられた審判代わりの拳道班員だが、もちろんその経験は豊富なもの。頻繁に試合を行い、そして時にはこの学校から拳道の審判を派遣することもある。
大会ではもちろん専属の審判員が存在するが、それでもそういった経緯があるため、この学校の学生審判は厳格で正しい判断が出来ると海馬学園長の自慢の種の一つだった。
こくりと頷き、審判が腕を上げる。それだけで、場の緊張感が増した。
丑光が半身を引く。左手左足前、握り拳を軽く開き、右手を顎の横、一撃での気絶を防ぐために置いておく。
対する理織は、左掌を相手に向けて横に倒し、右手を腰だめに構える。
右手の上下は違えど、シルエットは似通っている。そしてその仕草に、互いにその修めている競技が違うことを察し、そしてその正体を探りはじめた。
審判が手を振り下ろす。
「はじめっ!」
かけ声と、ストップウォッチの電子音が、試合の始まりを告げた。