食べること、寝ること
「うわあ、男子の部屋ってこんな……なんすか?」
羊谷は、扉を開けるまでに幾通りもの想像をしていた。
一般的に、男子と女子の部屋、汚い印象があるのはどちらかと問われれば、男子と答える者が多い。もちろん、それは印象としてものであり、男子より部屋が汚い女子もいれば想像通り汚い男子もいる。
そして、鳳総一の場合はどちらだろうか。羊谷は、そう幾通りもの想像をした。
楽天的というか、だらしのない性格の様子だ。ならば、ゴミが散乱し、得体の知れない丸められたティッシュや飲みかけのペットボトルが床を埋め尽くしているのだろうか。
しかし、自分に数学を教えたときの知識量からすれば、地味に勉強家なのかもしれない。ならば、大きな本棚にぎっしりと詰まった本に、床にも本が平積みされているのかもしれない。
あの後聞いた噂話では、スポーツも万能だという。それならばトレーニング用品が部屋の一角を占めているということも考えられる。
いや、変な先輩だ。そもそも、『汚い男子の部屋』という言葉で想像出来るものとは外れているのかもしれない。
奇人ともいえるその言動から、何か奇抜な部屋なのかもしれない。部屋の壁に絵画が飾ってあったり、その他の趣味の品が散乱していたり。
そんな、幾通りもの想像。
羊谷の目が見開かれる。想像していた光景が、全て裏切られていた。
まず、小汚い部屋、ではなかった。
玄関の下駄箱には何も入ってはおらず、ただ総一の予備のスニーカーが置かれている。
石のような材質の鼠色のタイルに履いていたローファーを脱ぎ、総一の脱いだ靴の横に揃える。そうしてから振り返っても、その光景は何も変わらない。
フローリングの床。そのキッチンには入り口横のIHコンロから、流し台と続き、その横に電子レンジの載った白い簡素な冷蔵庫が並ぶ。嫌な臭いなど何一つない。流しに生ゴミを放置するなどはおろか、油の染みすら壁に飛んでいない清潔なキッチン。
キッチンの向かいにはトイレと風呂だろう扉が並ぶ。
そしてその奥、リビングといえる部屋。フローリングは地続きで、ほとんど傷もない。
その奥に見える大きな窓。ベランダに出る窓に引かれた大きなカーテンが、玄関から見えるリビングの唯一の調度品だった。
「んで、なんで上がると?」
総一がリビングに入りながら尋ねる。総一からしたら、一刻も早く羊谷には帰ってほしい。だがその願いも叶わず、総一の言葉に我に返った羊谷は総一に続いてリビングに足を踏み入れた。
「ごめん、ベランダ借ります!」
言うが早いが、羊谷はベランダの窓を開けて、そこに置かれていたサンダルに勝手に足を通す。
それからベランダから身を乗り出せば、羊谷の目的が一階下に立っていた。
「……なるほどね」
説明を受けないまでも、その後ろ姿に納得する。
短いスカートの後ろから足が見えるのも構わず、羊谷は叫んだ。
「んじゃ、また明日なー!」
手を振る先は、総一には見えない。だがそれは先程の四人だろう。そう予測し、そしてその『くだらなさ』にまた溜め息をついた。
羊谷に届いた先程のメール。そこに書いてあったのだろう、『部屋の窓から顔見せてよ』とでも。
総一はそう予測し、そしてそれは言葉が多少違えど事実だった。
しかし、一つだけまた不審に思う。
それは、仲が良いから故の行動だろうか?
まあ、そんなことはどうでもいいことだ。
そう思った総一は、羊谷を無視して作業にかかる。大体の下準備は既に済ませている。
冷蔵庫から取り出した冷えた白飯や刻んだ葱とチャーシュー、それらを皿や茶碗に入ったまま電子レンジに放り込む。慣れた手つきで『おまかせ』のボタンを軽やかに押した。
台所に吊してあるフライパンを手に取り、コンロに置く。そこに胡麻油を感覚で垂らし、冷蔵庫から取り出してあった卵を割り溶く。
レンジの音が鳴る頃には、羊谷が入ってくる。
それをちらりと見て、総一は目をフライパンに戻した。
コンロの電源を入れる。じりじりと微かな音が鳴るのはIHの特徴だ。
「何作ってんだよ……ですか?」
「夕飯ー。俺って実は食わないと死んじゃうし」
レンジから取り出した白飯に、刻んだ材料。温まったそれらがあれば、もはや料理のほとんどが終わっている。
フライパンの油が煙を発し始めた頃。
総一が卵を流し込む。そして、軽くかき混ぜた後間髪を容れずに白飯。お玉杓子をフライパンに叩きつけるように何度も白飯と卵をかき混ぜる。高温ですぐに固まった卵で表面を覆われ、滑るように米粒が鉄板の上を移動した。
チャーシューと葱をそこに入れてまた軽く混ぜ、塩胡椒を数回。
火を止めて、皿に盛り付ける。
シンプルな炒飯。今回も上手く出来たようだ。そう、内心総一は自分の腕を褒め称えた。
フライパンを濡れ布巾で軽く拭き、浄水器から直接水を注ぎ入れてまた火にかける。
それからまたもう一つ卵を片手で割り、軽くほぐした。
「見ててもあげないけど」
「い、いらねーし!」
温まってきた湯に鶏ガラスープの素を三振り。そして、戻してあったわかめを冷蔵庫から取り出し、フライパンに放り込む。
ラップで包んであったキャベツを取り出し、機械のように均一な千切りに刻む。
流れるような作業だった。
最後にフライパンに卵を流し入れ、軽く混ぜて椀に注ぎ込む。
炒飯に、中華風スープ。そして、刻んだ山盛りキャベツ。
瞬く間に出来上がった総一の夕食を、羊谷は目を丸くして見つめていた。
リビングにそれを運び、机に並べていく。
その姿を見ながら、羊谷はこの部屋に入ってきたときの感想と全く同じ感想を浮かべた。
何も、ない。
もちろん、本当に何もないわけではない。
置きっ放しであろうパイプベッドに、今まさに食事が並べられた机。
ものはある。
だが、それだけだ。持っていた鞄はクローゼットの中に放り込まれ、多分服はそこにしまってあるのだろう。本棚もない。ゴミ箱はベッドの横に小さなものが一つ。だがその中にも何も入っていない。
この部屋で出来ることは何だろう。
食べること。そして、寝ること。それだけだろうと羊谷は推測する。
生活が感じられない。
羊谷の想像していた男子の部屋。そこにあるべきだったものが何一つない。
女子に好かれようと、楽器を練習する男子も多いと聞く。ギターの一つくらいはあるかもしれないと想像していた。壁にアイドルのポスターを貼るのはよくある話だ。彼女が来た際、水着姿のそれを急ぎ剥がす作業は目に浮かぶ。
さりげなく覗き込んでみても、ベッドの下は空白。
時計すらない。無音の部屋に、冷蔵庫のファンが回る音だけが微かに響いていた。
「……そういや」
「ん?」
座り、手を合わせようとしていた総一が眉を上げる。その目に、羊谷の微かに引きつった笑いが入った。
「一人暮らし、なんですね」
「うん」
何の気なしに入ってきたが、総一の年齢で一人暮らしは珍しい。そう羊谷は考える。
誘われていた『ショウゴの家』も、一人暮らしというわけではない。ただ、両親ともに夜は家を空けていることが多く、昼は寝ているというだけの。
なのに、総一はまごう事なき一人暮らしだ。この家に、総一以外の影は見えない。
いや、と羊谷は内心首を振る。
総一以外の影だけではない。総一の影すら見えない。そんな部屋だった。
一瞬静止した二人。だが、特に何もない。そう思った。
次の瞬間。
羊谷の腹が鳴る。総一の料理、特に炒飯の匂いが目を引いた。
「…………えぇ……?」
「ち、違いますぅ……! 別に欲しくて見てたわけじゃ……!」
想定外だった。羊谷にとっても。このまま部屋を出る気だった。四人が去った後、普通に家に帰る気だったのに。
だが、気付いてしまえば成長期の空腹は耐えられない。うら若き乙女の羞恥心と、食欲との戦い。
「言っとくけど、俺一人分しかないからな」
「匂いの暴力パねえ……」
羊谷が拳を握りしめる。空腹時に嗅ぐ胡麻油の香しい匂いは、暴力的だ。
「一口くれません?」
困ったように……事実困っているのだが、羊谷は笑う。その言葉に、総一が僅かに身を引いた。
「やだこの子、どんどん図々しくなってる……!」
「だって、美味しそうじゃないですか」
一口、と言ったのは単なる言葉の綾だ。断られるだろうと、そして、断られたらそれを口実に自分の心を宥め、帰ろうと。そう考えていた。
だが、総一は、そんな心を軽く見透かす。
どうせしてはもらえないだろう。そんな、捨て鉢の願いに応えないのは言いなりになっているようで腹が立った。
静かに差し出された匙。まだ誰も口をつけていない綺麗な。
「……じゃ、一口だけな」
「え!? いいんすか!?」
了承されるとは思わなかった。そんな驚きをからかうように、総一が僅かに匙を引っ込める。
「何だい。いらないならいいんだけど」
「いりますいります!! あざーっす!」
味見くらいはいいだろう。そう考えた総一。
だが、甘かった。
「……おい?」
「ふぇ?」
見ている間に、一口、二口、と羊谷が炒飯を口に運ぶ。総一の声に応えて顔を上げたその時には、既にその炒飯の半分が消えていた。
咀嚼は止まらない。喉が動く。
体が求めている。羊谷はそう感じていた。
「……一口って言ったじゃん!」
「いや、でも先輩料理上手っすね!」
ここまで来たらヤケだ、とばかりに羊谷は炒飯を掻き込む。この部屋に入ってきたその時とは、別人のような図々しさで。
「待て、お前、マジで待て! 俺の夕飯!!」
「…………!!」
身を捻り総一の手を躱しながら羊谷が頬を膨らませて炒飯を押し込んでいく。それでも脳の奥に広がる痺れるような満足感に、腕が止まらなかった。
「はー、満足!」
「俺の、夕飯……」
ゴクンと飲み込んだ炒飯が喉の奥に消えて、ようやく羊谷が口を開けて笑顔を作る。
その満足感に、そして目の前の光景。
苦手と思っていた先輩に一泡吹かせた感触に酔いしれていた。
「お前、俺の夕飯キャベツとスープだけじゃねえか! 一口って言ったじゃん!!」
「……あ、すんません」
だが、ここに至ってようやく申し訳なさが頭をもたげた。
唇を舐めると、グロスに塩味がついていた。
気まずさに総一から目を背ける。総一が本気で怒っているようではなかったのが救いだったが、それでも、我に返った羊谷の胸中には罪悪感が吹き荒れていた。
「……今度、何か奢りますんで……」
へへ、と卑屈な笑みを浮かべる。
「俺の腹は今減ってるんだよちくしょー!!」
涙目になりながら、総一はキャベツを頬張る。
マヨネーズもないが、皿の底に敷いたマスタードソースが目に染みる。
「返せ俺の夕飯ー!!」
切実な願いが叫びとなって現れる。
暗くなりつつあった外に、総一の嘆きが響いた。