大嫌い
土曜日。午前。
「これまた遠いところをわざわざ」
総一が、自室の机に二客のティーカップを置く。それから静かにポットから茶を注げば、薄い水色の紅茶がカップの中に金の輪を作った。
シーネ固定され、更にその上で包帯を巻かれた手である。
その準備も大変だと総一は自分でも思ったが、しかしそれでもやらなければと思った。
そうまでして接待しなければいけない相手でもない。けれど、だから。
総一はこたつ機能付きの卓袱台につき、対面に座る少女をじろりと睨むように見る。
よく似ている。男女ということで鏡写しとは言えないが、けれども自分でもどことなく雰囲気は似ている気がした。目元まで隠しそうな黒髪の髪質や、肌の色、耳の形などは。
フード付きのトレーナーなどは、自分の趣味とは違うものだが。
「……で? 何の用だよ」
「別に。兄貴の様子を見に来ただけだよ」
総一の妹・鳳奏多は、そう答えながら興味深げに部屋を見回した。
来客が口を付けるのを待つこともなく、総一が紅茶を啜る。美味しくとも不味くともないごく普通の来客用の茶は量産品のティーバックだ。
スマホが震える。きっと広告か何かだろうと総一はそれを無視した。
「見に来ただけなら用事は済んだな。よし、帰れ」
「そんな邪険に扱うことないじゃん。二年ぶりなんだしさ」
「そもそも何でここ知ってんだよ」
「兄貴がそんな怪我したからでしょ。学園長さんからお母さんに連絡あったんだよ」
「ふうん」
目を細めて総一はまた紅茶を啜る。早く飲め、という意味を込めて。
奏多はその仕草を無視して、口元に持っていった紅茶に息を吹きかける。
「あの母さんが、お前に住所を伝えるなんて思えないけど?」
外面はいいものだ。だからきっと、学園長とのやりとりはきっと普通に終わったのだろう。だがきっと、それは電話口だけのものだ。
自分の運び込まれた病院や、この部屋の住所などを学園長は言ったのかもしれない。けれども、その言葉を母親は記憶もしなければ手元にメモを残すこともしまい。
そして総一の推測はほとんど事実で、そして母親の口から奏多にそれが伝えられることもなかった。その場に居合わせなければ、また電話の向こうの声に聞き耳を立てなければ、奏多もこの事実を知ることすらなかっただろう。
「うん。だから、私から電話して聞いたの。せっかくだしさ」
「せっかくだし?」
聞き返した総一の言葉に、奏多はうんと頷く。
「救急車で病院に運び込まれたんだっていうから。そんなにボロボロになった兄貴、笑わなくちゃ損でしょ」
「…………」
クスクスと笑いながら言う奏多に、総一は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。
「でもすごいね。初めてじゃない? そんなに怪我してんの、さ」
「そうだな」
もうほとんど残っていない紅茶のカップを置いて、総一は溜息をつく。
たしかに、初めてと言ってもいい満身創痍だろう。未だに顔半分は湿布で覆われ、左手はぐるぐる巻きにされて自由に使えず、肋骨はサポーターでぎゅうぎゅうに締め上げている。
全身の打ち身はもう仕方ないと放置しているが、けれどもシャワーは痛いし鏡で見れば青痣が至るところについていた。
「天下無敵の鳳総一選手もおしまいかー」
「元々無敵でもなんでもないだろうが」
「でも、無敗だったじゃん。あの、辰美理織さんに負けるまで」
「今回負けたのも辰美理織だよ」
「え? じゃあ同じ相手に二回負けたってこと? 兄貴ダッセー」
「おうよ」
そこに関しては総一も否定する気はない。たしかに、とも思う。自分は雪辱を果たせずに負けた。完膚なきまでに負けた。
自分はやはりあの日立ち止まったままだったのだろう。
あの日のまま、いいや、それよりも衰えてしまっているだろう。二年のブランクは大きい。
痛みを噛みしめるように黙った総一に、奏多も溜息をつく。
「でもまあ、大丈夫そうでよかったよ。お母さんには、元気そうだって伝えとく」
「ふーん、の一言で終わりじゃね?」
「まあね」
また少しだけ笑い、奏多は目を伏せる。だろうな、と奏多も思う。
物心ついたときから知らずに享受していた、母から兄と自分への態度の差。小学生に上がる頃までは認識すら出来ず、そして気付いてから中学に上がる頃まではそれは『ありがたいもの』だと認識していたものだが。
「…………」
そして、黙り込んだ奏多。その少しだけ重苦しくなった空気に総一は残りの紅茶を一気飲みし、二杯目を自分のカップにだけ注いだ。
今度は少しだけ冷ますよう息を吹きかけながら、そのカップの上からじとりと奏多に目を向ける。早く帰ってほしい。特に用事があるわけでもないが、しかし休日は寝て過ごしたい。
笑みが潮のように引いて、奏多が唇を引き締める。
「……心配したんだよ、私は」
「お前が?」
「兄貴急に出てったじゃん。私たちに何も言わずに高校も決めて、どうやったか住む場所まで借りて、行き先も言わないでさ」
中学生だ。基本的に何をするにも親の許可が必要で、また何事も親に相談して決めるような幼い年頃。
けれども総一は、何も言わずにいなくなった。
奏多も驚いたものだ。
二年前のある日の朝、小さな鞄を肩に提げて玄関から出て行く総一を見かけて。
どこに行くの、と問いかければ、『ちょっと出てくる』とだけ答えられて。
ちょっとした外出だと思った。コンビニでも出かけたか、それともどこかへ遊びに行ったのか、もしくはいつもの金稼ぎか。そう思っていたのに、しかし総一は夜になっても帰ってこなかった。
母親に言っても『ふうん』という答えだけで。
次の日になっても、その次の日になっても、総一は帰ってこなかった。
何かあったのかと心配になっても、母は警察にも相談しない。
そして総一の部屋は、総一の出て行ったままの姿で、全てが残されたままで。
「死んでてもおかしくないって思ってたよ、正直」
「そりゃすまんな」
母親には出て行くと伝えていた、というのも言い訳だろうと総一は思う。
もし母親に伝えていたとしても、母親に伝わっていたかは別の話だ。
そして、奏多に伝えなかった理由も。
「じゃあ俺も正直に言うか。あの頃、お前の顔見たくなかったんだよね、正直。だから一刻も早く出ていきたかった」
「…………」
「意外か?」
「ん。予想の範囲内」
だろうな、と奏多は思う。
母親からの扱いの差は、今となっては気持ち悪いとすら思えるほどによくわかる。
まるで母一人娘一人の家族のような、そんな家庭。そこからいない人間として扱われていた兄が、自分を嫌うなどむしろ当然ではないだろうか。
「私が兄貴だったら、きっと私も大っ嫌いって思うもん」
「…………」
少しだけ減った奏多のカップに、総一が紅茶を注ぐ。ほんの一口分。まだ少しだけ残るポットの中で、チャプンと音が鳴った。
「……羨ましかったんだよ、お前が」
「うん」
「多分、お前も予想している理由でさ」
何かを上手く出来た頑張った。どんなに小さなところでも構わない。『良いところ』を見つけて肯定してもらえる。
子供にとって、それはどんなに嬉しいことだろう。
親から渡されるぴかぴか光る金メダル。隣にいる妹はいくつも首にかけられているのに、自分には一欠片も巡っては来ない。
それがどんなに苦痛だったことだろう。
「ま、一つ訂正するのは、俺は別にお前を嫌いってわけじゃないってことだな」
だから、見たくなかった。
本当に見たくなかったのは、妹を見るときの自分自身。
どんなに苦痛だっただろう。
血を分けた妹を、手放しで褒め称えられない惨めさが。
「なに、それ。よくわかんない」
「だろ? だからこの話はもうおしまい! くにへかえるんだな。おまえにもかぞくがいるだろう……」
「兄貴って時々よくわかんないことを言うよねー」
それも負けてから、と奏多は付け足して、冷めてきた紅茶を飲み干した。
「……でも、それを言うなら、私も兄貴が羨ましかったよ」
音がしないようにカップを置いて、その底を覗き込む。先ほどまでは自分を映していた水面はもうない。
「ピアノも、水泳も、書道も、勉強も、何でも出来る兄貴が」
自分だって頑張ってきた。母親に勧められるままに、習い事や塾などでの勉強に精を出した。そして褒められて、有頂天になっても、それでも。
「自分なりに、よく出来たって思っても、家に帰ればもっとすごい賞状やらトロフィーが兄貴の部屋には並んでる気持ち。わかんないでしょ」
ああいう風に出来たら、と思ったことなど数知れず。
ああいう風に頑張れたら、と何度思ったことか。
「わからん」
「でしょ。私たち凡人の気持ちは兄貴にはわかんないよ」
ああいう風に頑張れたら、と何度思ったことか。
寝る間も惜しんで練習して、勉強して、休む間も作らず努力をし続ける姿。
そんな兄の背中をずっと見てきて、敵わないなと思っていた。その努力の才能は、きっと誰にも負けないと誇らしかった。
「クラスの奴とかにさ、『奏多のお兄ちゃんすごくない?』って言われるのが、どれほど嫌だったかわかんないでしょ」
「ま、そりゃな」
たしかにそれはわからないだろう、と総一も思う。
自分は凄くない、という話でもなく。ただ、自分には兄はいないのだから。
「……本当、嫌だったんだからさ」
奏多も思い返す。高校に上がれば、もはや皆の口に兄の話題が出ることはなくなった。しかし中学の頃は、この兄が何かしらの業績を上げる度に肩身が狭く、そして悔しく思った。
皆は言うのだ。『奏多のお兄さんは天才だ』『才能があるのだ』と。
奏多は見てきた。兄の背中を。
だからその投げかけられる言葉が、どれほど悔しかったことだろう。
「お互い、嫌な兄妹だったのかな」
「だな」
くく、とお互いに笑いあって、ふと無言になる。
「…………」
これでたしかに用は済んだ。二年ぶりの兄妹の時間。何も明るい話はなかったものの。
辰美理織から受け取った忘れ物が半分。
そして今、残りの忘れ物が届けられたのだ。総一はそんな気がした。




