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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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65/70

一番




 街道場にある医務室というものは、学校の保健室と呼ばれる施設に似ている。

 保健施設ではあるが無論病院のように検査や治療が出来る設備は持たず、運動に伴う傷や打ち身、捻挫や骨折に対し応急処置が出来る程度であることがしばしばだ。

 保健室に常駐する養護教諭というものもおらず、常駐する者もいないことが多い。道場の規模にもよるが、ここ辰美流の道場では、顧問の医師が呼ばれれば来る、という程度である。



 今日運び込まれたのは二人。けれど、そのうちの一人、赤俣は既に意識を取り戻し簡単な手首の整復を終えて病院へと向かった。


 もう一人の総一は、まだその部屋にある小さなベッドで寝かされていた。

 その手足、もしくは頬など、打撃痕が残る箇所には湿布が貼られ、また上からテープや包帯で留められている。

 辰美流の道場生はプロではないが、その程度の処置ならお手の物だ。なにせ、毎日のように実践する機会があるのだから。


 気絶からは目を覚まさない。

 救急車を呼ぼう、という声は上がらなかった。それもまた、慣れているからだが。



「…………」


 ベッドの脇、二つ丸椅子を並べて、二人の女性が腰掛ける。

 半分以上が湿布で覆われた総一の顔を見つめ、何度か溜息をついているのは辰美糸子。

 そしてその横で、俯くようにして唇を噛みしめているのは羊谷麦。ここに総一を導いた。


「……起きないっすね」


 涙を堪えるように、涙の代わりに羊谷が呟く。先ほどから微動だにしない総一は、息をしていなければ死んでいるのではないかと心配になるほどだ。

 やはり今からでも救急車を呼ぶべきではないだろうか。羊谷はそう思う。


 普通、人が道で倒れていたら、多くは迷いなくその選択をするだろう。

 また目の前で何かしらの衝撃で人の意識がなくなったとしたら、それでも多くはするだろう。


 なのに、この道場の皆はしない。

 それがここの常識とばかりに。


 格闘技や武道の世界とはそういうものなのだろうか。もしもそうならば、それは自分たちの常識とはかけ離れた世界だ。

 そんな危ない世界。総一がそんな世界に戻る切っ掛けを作った自分は。


 羊谷の目にじわりと涙が浮かぶ。

 こうなるとは思わなかった、というのが無責任というのはわかる。

 どう取り繕っても、自分は戦えと総一に言ったのだ。もちろんこの道場破りとやらをさせたいわけではなかった。けれども、嫌がっていた彼を、怪我をするだろう『闘い』の場に上げてしまったのは自分だろう。


 だから、自分には責任がある。

「家族の人とかに、連絡した方がいいんですかね?」

「いらんだろう。それに、私は連絡先は知らん。学園長なら知っているだろうが……」

 もしくは学園の生徒名簿を閲覧出来るような立場ならば。

 しかし総一は一人暮らしだ。一緒に暮らしてもいないだろう家族に対し、連絡をするべきだろうか。糸子はそう考えたが、羊谷の考えは違うらしい。


 無意識にその羊谷を止めようと、糸子は口を開く。

「この程度、ならきっと大丈夫だ」


 大事にしたくない。

 大事であることを認めたくない。

 故に吐き出された言葉が自分でも白々しく思えるのが、糸子自身にも冷たく感じた。




 糸子は腕を組んだまま、また口を開く。

「総一と、何を話したんだ?」

「え?」

「兎崎が言うには、こいつがこんなことをしたのは羊谷、お前が原因だ。何で兎崎はそう言ったんだ?」

 糸子の顔を見た羊谷だったが、しかしその言葉にまた顔を背けた。

 その顔が自分を責めているように見えた。馬鹿なことをさせたと言っているように思えた。

 そして、そう言っているのは、一番に、自分。

「それは……」


 俯いたまま、羊谷が膝の上で拳をきつく握る。

「……言いたくないっす」

 総一がこんなことをしたのは自分が原因だ。そんなこと言われなくともわかっている。


「…………」

 その羊谷の仕草に糸子は少しだけ苛立ったが、しかしそんなことはどうでもよかった。

「原因、といった言い方がまずかったな。私はお前を責めたいわけじゃない。理織と戦わせたかったのは、一番に、私だから」

 むしろ、よくやった、と褒めるべきところだろう。嫌がっていた総一を闘いの場に引きずり出した。闘いの場に引きずり出し、そして弟と戦わせ、惨敗させた。……それはきっと、自分の思い通りになった展開だ。先の弟の言葉と同じく。


「だが、総一が簡単に考えを変える奴じゃないことも知ってる。あれだけ何度誘っても断ったうちの弟との試合を、どうやってさせたのか。それが気になってな」


 『何か』が起きなければ総一は簡単に自分の意志を曲げない。偏屈で頑迷、といえばその通りなのだが、そのことは糸子もこの一年以上の付き合いでよくわかっている。

 きっと羊谷との間に『何か』が起きたのだ。そしてその『何か』は、普通ではないことなのだ。そう思えるのは乙女の直感。


「あたしは、……何も……」


 何もなかった、と言おうとして、しかし自身でもそう思いたくないと羊谷は気付いた。

 何もなかったわけがない。自分は告白をしたのだ。勢いで、流れで、そして本心から。

 一世一代の乙女の勇気。それをなかったことにしたくはない。


 もちろん、今目の前の総一を見て、なかったことに出来たらいいのに、と思わずにもいられなかったが。

 自分が何も言わなければ、総一はこんな馬鹿なことをせずに済んだ。こんな馬鹿なことをしなければ、こんなに酷い怪我を負うこともなかった。きっと今頃は、自分や白鳥も交えて、放課後笑ってはしゃいでいられただろう。


 自分のせいで。


 じわりと滴が目に浮かび、涙声を隠さずに羊谷は口を開く。


「…………格好悪いって言っちゃったんすよ」

「格好悪い?」

「戦わないで逃げるのは格好悪いって。勝てないって決めつけるのやめてくれって」


 そんなわけないのに、と今羊谷は総一の姿を見て思う。

 自分は負けるだろう、と予言していた総一。そして負けるとこうなるだろうと知っていた総一。

 それは逃げるはずだ。やらないはずだ。こんなことになるのなら。

 自分はなんてもの知らずで無責任なんだろうと思える。


 そしてそんな自分が、きっと一番格好悪い。


「ねえ、……やっぱり救急車呼びましょうよ!」

 目の周りを腫らしながら、勢いよく羊谷が顔を上げる。もはや涙を隠す気はない。

「それは」

「私が……私のせいなんすよ! 全部! どっかに迷惑かかるんなら私が謝って回りますから! つーか、そう、呼びましょうって話じゃないっすよね!!」


 羊谷はポケットからスマートフォンを取り出す。

 呼びましょうよ。呼ばなくていいんですか。今まではそうずっと糸子たちに呼びかけてきたが。

 だがしかし、ようやく気がついた。呼べるのだ、自分は。その気になりさえすれば。


 救急隊が来るだろう。事件性があるものであれば警察まで連絡が勝手に行くと聞いたこともある。ならば、この状況、糸子の実家に迷惑をかけるかもしれないが、しかしそんなことはどうでもいい。

 糸子の面子や道場の面子など、総一の無事に比べればなんと小さなものだろうか。その後誰かに謝罪して頭を下げることになるかもしれない自分の頭など、どんなに軽いものだろうか。


 番号はいくつだったか。

 110は……警察で、115は時報で……と余計なことが頭に出てきて救急車の番号がなかなか浮かばなかったが、しかし911は何となく違うと思ってそこからようやく119に辿り着く。

 糸子は羊谷が画面をタップする指先を目で追い続けるも、しかし止められなかった。

 『こんなことはよくあること』『門下生ならばここで一晩寝ていることもある』とそのような言葉が浮かぶが、しかし羊谷を止めることは出来ずにいた。


『はい。119です。火事ですか、救急ですか』

「救急っす! 場所は~……」


 そして羊谷の見つめる先で。糸子の視界の端で。

 誰かの目が電灯の光で少しだけ輝いて見えたことで二人ともが止まる。




「あー……やっぱやられたかぁ……」


「先輩!」

「総一!!」


 二人の女子の声が揃い、叩かれたように総一は面食らう。

 何故二人がここにいる。そう考えて、またその一人はここが実家だったと思って半ば納得した。


『もしもし? どなたが、どういった状況ですか?』

「え、えっと、拳道? の試合で怪我をして、ずっと気絶してて……」

『意識がないんですね?』

「さっきまでなかったんですけど、今、たった今目を覚ましました!!」

『…………はい、わかりました。今救急隊員が向かっています。そちらに状況を伝えます。ご本人はどこを怪我されましたか? 痛む場所や血が出ている場所はありますか?』

「えっと? 痛い場所? は何かいっぱいあって、顔を殴られて腫れてきて」


 総一は枕に頭をつけたまま部屋を見回して、状況の把握に努めた。

 やはり自分は理織に負けたらしい。そして恐らく気を失い、ここは多分辰美流道場の医務室だろう、そこに寝かされているのだろう。

 消毒液の臭いではなく、湿布の臭いが充満する。残り香のようなものではなく、恐らく今まさに自分に貼られたもの。

 視界の半分を覆う白い何かは、顔に貼られた湿布とそれを押さえるガーゼとテープ。

 口の中に広がる血の味。頬の内側が歯とぶつかり切れたのだろう。

 手の甲は腫れてきているらしく指が動かしづらいが、そこにも湿布か何かを貼られて包帯を巻かれているらしい。

 息をすれば胸が痛む。しかしこれに関しての処置は無し。


 そして、先ほど大きな声が聞こえて、そして今誰かと電話越しに話していたのは。


 ふう、と溜息をつくようにかけ声をかけて、総一は羊谷に手を伸ばす。

 手を動かし、貸して、と呼びかける。

 一瞬迷った羊谷だったが、慌てるようにしてすぐにそこに自身のスマートフォンを手渡した。



「すみません、本人です。顔面が腫れてきています。それと胸が痛いのと、手の甲が動かすと痛みが走りますー」

『はい、ご本人様ですね。わかりました。顔面、胸、手の甲、ですね。意識ははっきりしていますか? 電話の声がしっかりしているので大丈夫そうですが』

「そうっすね。寝起きみたい感じです」

 総一は僅かに首を振って視界の歪みを確認する。ぼんやりとしている感じもする。だがこれは、今の今まで寝ていたからではないだろうか。

 頭痛は、なし。


『寝起きのような感じとのことですね。意識がはっきりしているようにも聞こえますが、頭を強く打った影響も考えられますので、今はまだ無理に動かないでください』

「はーい」

『今どこかに座っていますか? それとも横になっていますか?』

「ベッドに横になっています」

『わかりました。では救急隊が到着するまで、横になったまま、なるべく身体を動かさないようにしてください。呼吸は苦しくないですか?』

「吸うと痛いっす」

『わかりました……救急隊員はあと数分で到着する予定です。何か変化があれば――』



 寝起きのようなテンションで、しかしはっきりと流暢に受け答えをする総一。

 それを呆気にとられたように見ていた羊谷と糸子は、再起動したように二人で視線を交わした。


「ほい」


 そして、話が終わった総一が、羊谷へと通話中のスマートフォンを返す。

 そのあまりの『普段』の仕草に、羊谷は慌てることも出来ずに受け取ると、スマートフォンと見比べるようにして目の前の男子を見た。


「救急車来るまで電話切るなってさ」

「は、はい……」


「で、よくわかんないんすけど、救急車まで呼んだんすか? 会長にしちゃ甘くないっすか? 俺に」

 喋るとそれでまた血の味と臭いが広がる。頬に詰め物をしたように喋りづらいが、舌は切れていなくてよかった、と確認しつつ総一は糸子を見る。

「……呼んだのは私じゃない」

 呼びたかった。呼べばよかった。今更ながらに実感してきて、糸子は総一を見られずに俯いた。

「羊谷、すまなかった。ありがとう」

「いえ、いえそんな!!」

 謝られるようなことまではしていない。そう感じつつ、ちらりと羊谷は総一を窺う。

 今考えるべきことではないと思いつつも、何となく恥ずかしくなってきた。何せ、目の前の総一に、自分は数日前告白をしたのだ。答えは求めていないが、しかしそれきり顔を合わせていなかった相手。

 気まずいかもしれない。そう思ってしまえば、目も合わせられない。


「まあ、羊谷は俺のこと大好きっすからね」

「だ、誰が!!」


 総一の軽口に反射的に返してしまい、それから赤くなった顔は隠せなかった。

 赤くなっているのは自分だけだと思い込みつつ。





 じきにサイレンの音が遠くから聞こえてくる。

 救急車の到着は通報から十分以内、というのが目安ではあるが、街中にある道場故にそれも早い。

「私は外へ出て誘導してくる」

 迷うことはないだろうが、と付け加えつつ、糸子が立ち上がり、けれども医務室の入り口で足を止めた。


「それから羊谷」

「……?」


 こちらへと視線を向けていない糸子。けれどもその背中に、羊谷には何かしらの迫力が見える。じわりと周囲の空間が歪むような。

「ここに来ることになった原因の、総一との『話』。あとで詳しく聞かせてもらうからな」

「いえ? そのっ?」


 もう言いたくないは言わせない。道義や何かではない乙女の意地で。


 振り返りもせず、ずんずんと足音を立てつつ、糸子は歩き出す。

 何かを察した。羊谷と総一の、ほんの一往復の会話に。


「お姉ちゃん怖ーい」

 くつくつと笑いつつ、総一はそれを見送る。その最中、首かどこかをむち打ちのように痛めているのだろうか、痺れが走った。

 そしてそれとは違う頭の痛みに襲われたように、羊谷は頭を押さえて呻いた。


 励ますように、総一はその旋毛に笑いかける。

「ま、大丈夫大丈夫。怒ってる? のかわかんないけど、俺は勝手にここに来ただけだから」


 恐らく会長は、羊谷に促されて自分がここに来たのだと思っているのだろう。そう総一は推測する。

 そのせいで何か羊谷が怒られたのだろう。おそらくは。


「それより見舞い? か応援? に来てくれたんだろ? ありがとうな」

「いやあたしは、会長に何が何だかわからないうちに連れてこられただけで……」


 また俯こうとして、羊谷の視界に総一の左手が入る。

 ピアノなど弾けないだろうほど腫れ上がり膨らんだ掌。酷い怪我。


「……先輩」

「ん?」


 ベッドの端に手をかけて、羊谷が深々と頭を下げる。

「すみませんでした。あたしがナマ言いました。……戦えなんて言って、ごめんなさい」

「何も謝ることはないじゃん」

「でも、あたしのせいで怪我して……」

「会長にも後で言うけど、羊谷のせいじゃねーし」


 総一としては何も羊谷に対し思うところはない。

 自分は自分の意思で、ここに決着をつけに来ただけだ。自分もきっと理織も納得する方法で、その勝敗を決めに来ただけだ。

 その結果怪我をした。仮にこれで死んでいたとしても、羊谷や理織を恨む気もない。


「それに、なぁにぃ?」

 更に、その言い方では。

「俺が勝つって信じてくれてたんじゃねーの?」

「う」


 へらへらと笑いながら、総一は泣き真似をするように目の下に指を当てる。

「俺がそんな弱いとは思わなかった……ってこと?」

「違くて、その、……違くて……」

 上げた頭が情けなく下がりそうになって、羊谷は口を噤む。

 何も反論出来なかった。その上で、反論する気が起きなかった。もう何を言っていいかわからない。何を言っても総一を馬鹿にしたような言葉になりそうで。何を言っても、本心とは違う言葉になりそうで。


「冗談」

 そして笑う総一の言葉に、何となくこちらが勇気づけられるのが情けなくて。

 顔を上げた先にある総一の半分の笑みが綺麗に見えて。


「でも悪かったな。完全勝利の格好いいところ見せられなくてさ。いや、最後のほうは勝てると思ったんだよね。なんとなーくどことなーく」

「…………」

「それがなんだよ、あの必殺子泣きじじい。投げらんないしぶっ飛ばせないし。今思えば俺の肘の怪我、会長のあれのせいじゃんか。そりゃ『重っ』ってなるよ。『重っ』って。それがよぉ……」

 言い訳を繋げるようにして、総一が呟き続ける。


 それに相づちも打てず、熱に浮かされたように、羊谷の唇が動く。

「……何言ってんすか」

 言いつつ、ふと笑みがこぼれる。


「最高に、格好いいっしょ」


 やっぱりこの先輩はこうでなくては。

 負けようが、言い訳を口にしようが。

 いつもへらへらと笑って、勝っても負けても変わらず腐らず。






「あらあら、ぼろぼろね」

「ぁぁぁぁああ!!?」


 強くなったサイレンの音。きっともう救急車はすぐそこだろう。

 そこに新たに、二人の女子の声が加わった。

 一人は静かに笑いつつ、そして一人は総一の顔を覆う湿布とテープ類に驚きを隠せず。


「そそ、総一さん!? これは、これは、大丈夫なのでしょうか!?」

 その驚きのままに駆け寄り、白鳥が総一の顔を包むように掴む。

「痛ててててて! 白鳥、流石に痛い!」

「ああごめんなさい!!」

 勢いは変えずに、白鳥が総一の顔を放す。それもまた痛くて、総一は頭がグワンと揺れた錯覚を覚えた。


「タクシー拾ってきたけど歩いてきたほうが早かったわ。で、負けたの?」

 入り口で立ち止まり、大丈夫そう、と確認した兎崎は次に勝敗を確認する。

 目の前の男子が、自身の力量を把握出来ていないとは思えないが、一応のほど。

「おう」

 首元をさすりつつ、負けたよ、とまでは言わずとも、しかし総一はそう答える。

 まあそうだろうな、と兎崎は納得し、ふと道場の入り口の方を向いた。糸子も待っている玄関。今聞こえている救急車の音は、明らかにここを目指しているものだろう。そしてもうすぐ入ってくるだろう。


 がちゃがちゃとストレッチャーの車輪の音が聞こえてくる。

 きっとそれは目の前の男子の分。

 ならば、時間はない。一応聞かなければ。まぁ、あまり気になることでもないのだが。


「それで、勝たせられそう?」

 からかうように口に出された兎崎の言葉。

 そこにいる二人の女子は、その言葉の意味がわからなかった。


 他にただ一人わかる総一は溜息をついて、「ぎりぎりじゃね」と苦々しく答えた。

 



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